雪の封蝋

 その日の晩、ふいに鳴り響いたドアノッカーの音に、アルテは思わず驚いて肩を震わせる。

 硬い音が三度、等間隔に。その律義さが、アルテの胸に妙なざわめきを起こした。


「はーい?」

 扉を開き、そしてそこに立っていた人物の姿を目にし、アルテは思わず息を呑んだ。


 上等な制服らしき衣装を身にまとい、そして胸には見覚えのある記章が。——あの封筒の蝋と同じ、雪の結晶の紋章だ。


「アルテミシア・アルキュミア様でお間違いありませんか?」


 まだそう年のいっていない使者は、感情を感じさせない、けれど重々しい声でそう言った。


「は、はい、そうですが……」

 アルテが答えると、使者はメッセンジャーバッグのような鞄の中から一枚の封筒を差し出してくる。

 そして、こう告げた。


「こちら、ルフロワルのド・ネージュ伯爵から、アルキュミア様に直接お渡しするように仰せつかっているお手紙でございます」

「……え?」


 ド・ネージュ伯爵。たった今耳に飛び込んできたその名に、アルテは頭がぐらりと揺らぐような感覚を覚えた。


 ルフロワル。それは確か、グラスの故郷である凍土の名だったはず。そんな所の貴族が、どうして。


 わけが分からないまま受け取った封筒は非常に手触りがよく、上質な紙を使っているのが分かった。


 グラスの机に置いてあった封筒と同じ質感だと、指の感覚が思い出す。


「それからこちらは、こちらに滞在されているグラキエース・ド・ネージュ様宛でございます。お渡し願います」


 そう言って、使者はもう一枚の封筒を取り出す。

 アルテにそれを手渡すと、使者は帽子を外して一礼し、馬車に乗って去っていった。


「グラキエース……ド・ネージュ?」

 グラキエース。それはグラスの本名だったはずだ。


 初めて出会ったあの日、自分の故郷の言葉を使った珍しいその名前は今もアルテの耳にはっきりと残っている。


 けれど、そういえばアルテはグラスのファミリーネームを今まで一度も聞いたことがなかった。


 グラキエース・ド・ネージュ。それが、彼女の本当の名前なのだとしたら。


 それは彼女が、今しがた聞いたド・ネージュ伯爵なる人物の関係者であることの何よりの証拠ではないか。


 使者が見えなくなった後も、アルテはしばらくその場で立ち尽くしていた。


 たった今起こった、ほんの一分程度の出来事に奪われた思考能力が再び戻ってくると、手の中にある二枚の封筒のさらさらとした質感が、じわりと指に染み込むように感じられた。


 そのうちの一枚の宛名の所にはアルテの名が、そしてもう一枚にはグラスの本名が書かれている。


 そして二枚の封筒はいずれも、グラスの部屋で見た封筒に捺されていたのと同じ、美しい雪の封蝋で封をされていた。





 テーブルの上には、封を切られた二枚の封筒。

 そしてアルテの目の前には、泣きじゃくるグラスの姿があった。


「ごめ、なさい……ごめん、な、さい、お師匠、様……」

「ううん、謝らないで。ね? 大丈夫だから」


 アルテは優しい声を作り、目の前の少女を諭す。

 涙で顔を濡らしながら、グラスはこれまで何も話してこなかったことを謝っていた。


 けれど彼女が最初に泣きだしてしまったのは、それが原因ではない。今しがた届けられたばかりの手紙の内容のせいだ。


 アルテに宛てられた手紙は、これまで娘を居候させてくれたことへの謝辞に始まり、グラスと彼女の実家についてのこと、それから彼女が家やルフロワルにとってどんな存在であるか、といったことが綴られていた。


 そして最後に書かれていたのは——グラスを実家に連れ戻しに行くつもりである、ということ。


 二人にそれぞれ届けられた手紙の内容を合わせると、次のようになる。


 グラス——グラキエース・ド・ネージュは、凍土ルフロワル領主ド・ネージュ伯爵の三女であり、それと同時にルフロワルにとって非常に重要な存在である。


 なぜなら、魔術に長けたネージュ家の中でも、彼女の魔術の才能は飛びぬけて優れているからだ。


 彼女の力があれば、いずれはルフロワルをさらに発展させることも夢ではない。


 凍土の未来の担い手として、グラスには大人になるまでしっかりと教育を施す義務がある。そのため、別のことに費やしていい暇はない。


 グラスの身体に刻まれた紋章には、特別な術式が刻まれている。そのため、この世界のどこにいても彼女の居場所は分かる。


 逃げても無駄だ、けれど手荒な真似はしたくない。期日までに帰ってくる意志を示さなければ、こちらから向かわせてもらう——そう何度も警告した。


 けれどとうとう、その意志が示されることはなかった。今、そちらに向かっている。今月の末には到着するだろう。


 昨日見た、封筒の数々。それらに書かれていたのもまた、同じようなものだったのだろうか。


 グラスが最初、何かを隠しているかのようなたどたどしい態度を取っていた理由もこれで察しがついた。それから、魔術の腕が飛び抜けて高いのもきっと、家で高度な教育を受けていたからなのだろう。


 ひとしきり泣いた後、涙を枯らしたグラスは、これまでアルテに話してこなかったことをゆっくりと語った。赤くなった目を隠すように、俯いたまま。


 自分が凍土の伯爵の娘であったこと。家から逃げるように、誰にも黙ってここへとやってきたこと。

 それから、彼女がこれまでどんな人生を歩んできたのかも。


 彼女の身の上を突然知らされ、全く驚かなかったといえば嘘になる。けれど目の前で泣きじゃくるグラスのその姿が、かえってアルテを落ち着かせた。


 こんなときこそ、師匠である自分は落ち着いていないといけない。そんな心理が働いたのだ。


 けれどそれとは別で、グラスの口からゆっくりと紡がれる言葉を聞くたび、アルテは胸が締め付けられるような思いがした。


 その声の一音一音から、彼女がこれまで味わってきた苦しみが痛いほどに伝わってきたから。


「……私は一生、籠の鳥なのでしょうか」

 ぽつりと、半ば独り言のような声がアルテの耳にこだまする。


「私が、ネージュ家の娘である限り」

 感情を閉ざしたような、暗い声。その声色が、彼女のこれまでの人生の全てを物語っていた。彼女がこれまで過ごしてきた、孤独で苦しい日々を。


 もっと思い出せば、出会ったばかりの頃のやけに遠慮がちな態度や、少し優しくしてやっただけで涙を流しそうになるぐらい嬉しそうな表情を見せたことだって、きっとその証だったのだろう。


 グラスは絞り出すような枯れた声で、ぽつぽつと語りだす。


「……あの家に、私の意志が尊重される場所なんてどこにもありませんでした。私は生まれたときから、魔術に身を捧げ、凍土に人生を捧げることを義務付けられていたんです。


 一日中、椅子に縛りつけられて勉強をさせられて……どれだけ頑張ったとしても成績が揮わなければ、部屋から出ることさえ許されませんでした」


 そこまで言うと、グラスは震える息をすうっと吸い込んで。そして、こう付け加える。「全部、私のため、なんだそうです」と。


「私はネージュ家の……世のため人のため、魔術の道に生きることを定められた家の、娘のひとり。


 私は、家と凍土に命を捧げるために生まれてきた存在なのです。そうして生きることが私の幸せに繋がると、お母様も信じているのです。


 そんな私が、家から離れて他のことにうつつを抜かしているなんて。お母様はきっと私を許さないでしょう」


 いつもは感情豊かなグラスだが、今の彼女の声に抑揚はほとんど全く籠もっていなかった。


 平坦で、まっさらで、感情を胸の奥に閉じ込めてしまったような。そんな声だ。


 彼女のこれまでの人生の中で、いったいどれだけこんな風に自分の感情を、そして意志を押し殺して生きた日々が——そうしなければいけなかった日々があったのだろう。


 そんな日々を彼女に強いた存在に対し、強い憤りの感情がアルテの胸の奥に芽生える。


「ましてや、ひと月も錬金術師見習いをやっていたのに毒物しか作れないだなんて……お母様が聞いたら、何と言うでしょう」

 自嘲気味に、少女は呟いた。


「ご、ごめんなさい。こんな話をした所で仕方ないですよね。こうなった以上、私はもう帰るしかないのですから……」


 いくら彼女が己の感情を覆い隠そうとも、師匠のアルテにまでは隠し切れなかった。


 全てをきっぱりと諦めてしまおう。そう彼女は思っているのだ。


 けれど、本当は諦めたくない。家に帰りたくない。そんな気持ちが、声を通してアルテの胸に突き刺すように伝わってきて。


 彼女はずっと、自由になりたかったのだ。そのために錬金術を選んだ。自分の力で、自由な未来を切り拓くために。


 錬金術こそが彼女の唯一の希望であり、光だったのだ。それなのに、それを諦めてしまうだなんて——


「駄目!」

「……えっ?」

「あなたは、錬金術をやらないと駄目!」


 気がつけば、アルテはそう言っていた。考えるよりも先に、口が勝手に動いていた。


 するとその瞬間、アルテの脳裏に遠い過去の出来事が蘇ってきて。


 ——千と、百年は昔のことである。

 夢も希望も何もかもを諦め、己の意志に蓋をして生きていこうとした一人の少女がいた。


 彼女は特異な力を持つゆえに、周囲の人々に人生を振り回され、籠の中の鳥のように外の世界から閉ざされた人生を送っていたのだ。


 そんな“彼女”を無理やり籠の外へと連れ出したあの日のことが、まるで今まさに起こっている出来事のようにフラッシュバックして。


 どうしてだろう。——考えずとも、その理由はすぐに分かった。


 目の前の少女の瞳が、そっくりだったのだ。何もかもを諦めていた、あの頃の“彼女”に。


 そう気づいたその瞬間、目の前で目を赤く腫らす少女が一瞬、ほんの一瞬だけだが“彼女”に——アルテが外の世界へと連れ出し、共に冒険をし、そして唯一救えなかった存在に、重なって見えて。


 その瞬間、アルテの胸の奥に強い決意が静かに生まれる。何があっても、目の前の彼女のことだけは絶対に守らなければならない。


 それは、かつて救えなかった“彼女”とグラスの姿が似ているから、というわけではない。


 せめて自分は、グラスにとっての“聖女”では居続けたい。そう強く思ったからだ。


 “錬金の聖女”。その美麗で輝かしい異名をアルテが何よりも嫌っていたのは、他でもない“彼女”のことを救えなかったから。


 誰よりも救いたかった“彼女”を救えなかったどころか、悲惨な末路を辿らせてしまった自分に、聖女と呼ばれる資格はない。


 そう思って、その神聖な異名をずっと避けて、恐れて生きてきた。


 けれど、せめて自分に憧れ、錬金術の道を選び、心の底から自分を“聖女”だと思っているグラスにとってだけは、いつまでも“聖女”たる存在でありたい。そう呼ばれるに相応しい存在でありたい。


 彼女をこの道に引き込んだ者として、責任を取るために。そして、どんなものよりも美しく尊い、彼女の瞳の輝きを守るために。彼女を、救いたい。


 それに何よりアルテ自身、グラスの師匠をやめるなんて考えられなかった。彼女と二人で過ごす毎日はそれほどまでに、かけがえのない幸せなものだから。


「……お師匠、様……」

 次第に、グラスの瞳の奥にじわりと透明なものが滲みだす。それは数秒と待たずに外界へと溢れ出し、彼女の頬を濡らし始める。


「お、師匠、様……っ! わ、私、錬金、術を、っ、やりたい、ですっ! 帰りたく、なんか、ありません……っ!」


 泣きじゃくるグラスの顔を、アルテは優しく自分の胸に埋めた。


「わたしが、守るから」

 そう告げたアルテの胸に、迷いの影はいっさいなかった。

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