いつかあの日のように

「お母様に、お手紙を書こうと思うのです」

 グラスがそう言い出したのは、それからさらに一週間後のことだった。


「私、反省しているんです。お母様に、とてもひどいことを言ってしまったのを」

「えっ……?」


 アルテは思わず首を傾げる。彼女がそのようなことを伯爵に向かって言った瞬間など、あっただろうか。


「貴女の娘ではありません、だなんて……お母様に対してそんな発言、許されるものではありませんよね」

「あっ……」


 思い出した。あのとき彼女は氷壁で家の戸の前を閉ざし、そして伯爵に言い放ったのだった。


『私は、もう……貴女の娘ではありません!』


 あの氷壁は、グラスが魔術で消し去ったためもうあそこには残っていない。


 けれど未だに、アルテの脳裏にははっきりと焼きついていた。氷壁の向こうに見えた、伯爵のあの表情を。


「一度、お母様に謝りたいのです。それと……お師匠様、ここにもう一度、お母様をお呼びすることをお許しいただけませんか?」


「えっ? ……ど、どうして?」

 グラスのその言葉に、アルテは驚きと戸惑いを隠せなかった。


 そんな彼女とは対照的に、静かに落ち着いてグラスはわけを話す。


「私の錬金術を、もう一度、お母様にも見せたいのです」


「で、でも、伯爵はあなたが錬金術をやることを認めてはいないでしょ? それなのにまた呼んだりしたら、今度こそ連れ戻されちゃうんじゃ……」


「ええ、その可能性はありえます。……ですが私、やっぱり忘れられないのです。昔の、優しかった頃のお母様が」

「え……?」


「いつか、少しだけお話ししたことがありましたっけ。まだ私が小さくて、お父様もご存命でいらした頃のお母様は、お優しい方だったのです。


 お父様はお仕事でよく他国に行かれていて、旅先から持ち帰った素敵なものをいつもお母様にプレゼントしていらしたのです。


 そのたびに、お母様は決まってとても嬉しそうなお顔をされていて……。ですがお父様の素敵な贈り物の中でも、お母様が特にお喜びになるものがあって」


 グラスはそこで一度、そっと一呼吸置く。それから遠い記憶に思いを馳せるように、瞳を閉じて。


「まるで氷でできたような、とっても美しいお花……それをお父様は毎年、結婚記念日にお母様に贈っていたのです。


 そのたびにお母様は、涙を流しそうなぐらいにお喜びになられていて……そんな姿、お師匠様には想像もつかないかもしれませんが」


 そう言って、グラスはふふっと微笑む。家族の幸せな思い出を語るその声色には、楽しさと寂しさが半分ずつ入り混じっていた。


 一方のアルテは、グラスの話の前後の繋がりが見えてこず、少々困惑の様子を見せる。そんな彼女に、グラスは話の続きを語り始める。


「小さい頃の私はお母様に喜んでいただきたくて、同じお花を探し出して手に入れようとしたものです。


 本で調べてみたり、街中のお花屋さんから情報を集めてみたり……ですが、どうしても同じお花を見つけることはできなくて。


 ですが今なら私も、あのお花を手に入れられるかもしれないのです。錬金術が、今の私にはありますから」


「……あっ」

 そのときふと、アルテの脳裏にとある錬金術のレシピが浮かんできた。


「もしかして、そのお花って……」

「ふふっ。以前、地下室で見つけちゃったんです。あのお花とそっくりの、お花のレシピ」


 どうやらグラスも、アルテと同じことを考えていたようだった。


「あのお花を、お母様にプレゼントしてさしあげることができたら……あの頃のような笑顔に、とはいかなくても、お喜びになってくださったら……なんて、少し早計でしょうか」


 淡い期待をその声に滲ませて、グラスはアルテにそう尋ねてくる。


 その表情に滲むのは、親の帰りを信じて一人で留守番し続ける子供にもどこか似た、健気で、そして寂しげな色。


 どんな親に育てられようと、子供はきっと、親のことを完全に嫌いになりきることはできないのだろう。


「ですが、それでもお母様のために錬金術がしてみたいのです。戦うためではなく、喜んでいただくために……」


 彼女は心の底から信じているのだろう。母の中にもまだ、かつてのような優しい気持ちが残っていると。


 あの幸せな時間がまた戻ってきてくれることを、心の底から信じたいのだろう。


「……グラス」

 アルテの瞳の奥から、熱いものが込み上げてくる。


 それをなんとか堪えながら、彼女は言葉を紡ぐ。年を取ると涙もろくなって、困ったものだ。


「あなたの気持ちは、わたしも尊重したいわ。でも、やっぱり不安なの。今度こそあなたが連れ戻されて、もう帰ってこられなくなるんじゃないかって……」


「もちろんそれは全力で拒否します! もしお母様が私を強引に連れて帰ろうとしようものなら、こちらにも策がありますから!」

「えっ、策?」


「はい! 考えてみたらお母様一人程度、魔術で少し目くらましをすればどうってことないのです!」

 と、自信ありげに答えるグラス。


 手紙が届いたあの日とは全くもって正反対の様子に、アルテは思わずくすっと吹き出してしまう。


 けれど、自信があるのはいいことだ。

 それに彼女の魔術の実力を考えれば、それぐらいは確かに余裕そうだ。


「あっ、でも、そういえばあなたの身体には魔力紋が刻まれているんでしょ?」


「ええ、ですがそれぐらいなら、紋章術師の方にお願いすればなんとかなります」

「紋章、術……! そ、それって、すごく痛いんじゃ」


 紋章術とは、錬金術のように特殊な形態の魔術の一種であり、魔力を体内に刺繍するように魔力紋を刻んでいく技だ。


 身体の内側にきちんと効力のある魔力紋を刻んだり、それを解除したりするのには多大な高圧の魔力を必要とする。


 そのため、術を施される者には強い痛みが伴うのだ。場合によっては耐えがたい苦痛を味わうこともあると聞く。


 貴族令嬢の身体に刻まれた魔力紋など、相当高等なものに違いない。


 それを解除するとなると、痛みも決して軽いものでは済まないだろう——そう思ったアルテの口からは、弟子の身体を心配する気持ちから反射的に今の言葉が出た。


 けれどグラスは、そんなことは全く気にしていない様子で。

「自由になるためですもの、身体の痛みなんて問題じゃありません」


「そ、そっか……そう、だよね」

 考えてみれば、そんなことで今さらグラスが躊躇するはずがないじゃないか。


 それなら……とアルテは頷き、それからこう言った。

「グラス、あなたの好きなようにしてみて」


「まぁ! よろしいのですか!」

「ええ。あなたの意志を尊重するわ」


 そう言って、アルテはにこりと微笑む。もちろん、もし万が一グラスの身に危険が生じそうになったら、今度はアルテも手段を選ばないつもりだけれど。


 彼女の発したその言葉に、グラスの瞳が揺らぐ。

「私の、意志を……」


 静かにそう繰り返すと、彼女は瞳を閉じて胸に手を当てた。その言葉を、自分の中で噛みしめるように。


「本当に、感謝いたします。お師匠様」



   ◇



 再び伯爵がこの家を訪れることになったのは、それからさらに二週間後のことだった。


 あの伯爵と、また会うことになるなんて。約束の時間の数分前、アルテは自分の指先がぴりぴりと痺れてくるのを感じていた。


 その一方で、グラスもどこか緊張した面持ちを見せているものの、その瞳の奥からは堂々としていようという気概を感じられる。


 けれどその指先は、繋いだアルテの手の指へと絡みついている。勇気をくれるお守りを、大事に握りしめるように。


 今の彼女は、あの日とは段違いに頼もしかった。

 約束の時間は、刻一刻と迫っていく。


 何もしなくても動く時計の秒針を眺めるアルテの胸の奥には、徐々に焦りと不安が募っていく。


 それはグラスも同じだったかもしれない。だが彼女はしっかりと前を向いていた。


 今一番不安なのは、緊張しているのは、彼女自身のはずなのに。


 それなのに、師匠の自分の方が落ち着いていなくてどうするのか。


 心配性なのは昔からの悪癖だと、分かっているはずなのに。アルテは深呼吸をし、すっと気持ちを整える。


 それからはもう、己の内側から聞こえてくる不安の声には耳を傾けなかった。


 そして、とうとう約束の時間がやってくる。

 時計の長針が、かちりと文字盤の真上を指したその瞬間。


 扉を叩く音が、部屋へと響き渡った。

「私が出ます」


 グラスはすっと立ち上がり、玄関へと歩いていく。

 だが、つい心配になって、アルテはその背後から彼女についていった。


 がちゃり。グラスはゆっくりと、扉を開く。

 そこに立っていた長身の白い女に向かい、彼女は丁寧に一礼する。


「本日はおいでくださり、ありがとうございます」

 以前と同じように、深く帽子を被っていたせいで伯爵の表情は読み取れない。


 そんな彼女をアルテは家の中へと案内し、紅茶を注いだ。

 伯爵は礼を言うと、カップをそっと傾ける。


 彼女の態度に、目立った異変はない。けれどアルテにはどうも、今日の彼女は様子が変に見えた。


 なんというか、前よりもずっと覇気を感じられないのだ。


 伯爵はティーカップを置くと、薄い色の口紅に彩られた小さな唇をそっと開く。


「グラキエース。話とは何ですか」

 その声にもまた、以前に会ったときのような尖った印象を感じられない。


「以前言ってしまったことを、謝罪させていただきたいのです」

「……謝罪、ですか?」


「はい」グラスは真剣な面持ちで頷くと、椅子からすっと立ち上がって。


「先日は、大変なご無礼を働いてしまい、本当に申し訳ありませんでした。“貴女の娘ではない”などと……」


 丁寧に、頭を下げて伯爵にそう告げた。

「……そのこと、ですか」

 伯爵はやや俯きがちになり、それから小さくこう返す。


「……別に、わたくしは怒ってなどいませんわ」

 やはり、今日の伯爵は妙だ。


 どことなく、悄気ているかのような。そんな風に見えるのだ。

「話とは、それだけなのですか?」


「えっ? あ、いえ、えっと……」

 伯爵の異変は、グラスもしっかりと感じ取っているようだった。


 その証拠に、彼女の顔いっぱいに当惑の表情が浮かんでいる。


 一度会っただけのアルテでさえこんなにも不思議に感じるのだから、娘のグラスの目にはどれだけ今の伯爵が異様に映っているのだろう。


「じ、実はもう一つ、こちらにお呼びしたわけがあるのです」


 グラスはなんとか落ち着いた調子を取り戻し、言葉を続けた。


「もう一度、お母様の前で錬金術をさせていただきたくて……それが、ここに来ていただいた一番の理由なのです」


「わたくしの前で、もう一度……そんなことをして、何の意味があるのですか」


「お願いします、お母様。一度だけでいいのです。どうしても、見ていただきたいものがあるのです」


 そう言って、グラスは頭を下げる。以前とは大違いの、ひどく冷静な態度で。


「……わかりました」

 伯爵はそう小さく答えると、すっと静かに立ち上がる。


 そのいやに素直な態度に、アルテは思わず拍子抜けしてしまう。いくらかの問答があるのではないかと警戒していたのに。


 グラスも、まさかこんなにもあっさり承諾されるとは思っていなかったのだろう。明らかに戸惑った様子を見せつつも、母親を地下工房へと案内する。

 階段を降りた先にある、薄暗い地下室。


 必要とする器具と、あらかじめ用意してあった素材の前へと、グラスは背筋を伸ばして歩み寄っていく。


 そして、深呼吸をすると、静かに錬成を開始した。


 やはり緊張しているらしいが、それでも落ちつきを失わずに挑もうとしているのが伺える。作業中、彼女は何度も深呼吸をしていた。


 手際よく素材の下準備が済まされ、そしていよいよ錬成の段階へと入る。


 グラスはいちだんと深く息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出し、それから己の魔力を発現させた。


 それからほどなくして、降り積もる新雪のように純粋な魔力と、神聖なエーテルの織り成す心地よい調和が辺りを満たしていく。


 以前との違いに、伯爵ももう気づいているはずだ。

 その証拠に、徐々に変容していく魔力の、その感触に彼女は驚きを隠せていない様子だった。


 ここまで彼女の表情が変わるのを、アルテは初めて見る。思わず心の中でガッツポーズを取ってしまった。


 前にも言った通り、グラスは紛れもない天才なのだ。錬金術師でなくとも魔力に敏感な者であれば、肌でなんとなくそれを察知することができているはず。


 グラスの手元を中心に発現する魔力とエーテルの閃きは、一秒ごとにその美の最高点を更新していく。


 刹那、ひときわ眩い光が、そして温かい魔力が辺りを包み込んだ。閃光に思わず、アルテと伯爵は目を閉じる。


 それから、彼女たちが瞳を再び開いたその瞬間にはもう、錬成は終わっていた。


 たった今自分の生み出したものを見たグラスの、その満足気な様子は背後からでもアルテによく伝わってきた。錬成の結果は、言うまでもないだろう。


 彼女はくるりと振り返り、そしてひどく嬉しそうな瞳をアルテと伯爵へと向けた。


「今までで、一番良いものができました!」

 そう言うと、彼女は器具の硝子蓋を開き、その中で誕生したものを取り出した。


 それをもったいぶるように後手に隠しながら、こう続ける。


「お母様に、ここに来ていただいた理由……それはたった今ここで作ったものを、お母様にお見せしたかったからなんです。


そのために、たくさん練習を重ねて……その甲斐あって、自分ではとても満足のいくものができました」


 そう言い終えると、グラスはゆっくりと後ろに隠した手を前に出す。


「お母様のことを思って、作ってみたのです……このお花、覚えていらっしゃいますか?」


 グラスがそれを見せた途端、アルテは自分の隣で伯爵が息を呑むのがわかった。

「……そ、れは……!」


 伯爵の両手で抑えた口から、細く震えた声が漏れる。

 そして次の瞬間、アルテはにわかには信じられないものを目の当たりにするのだった。


 凍てついた、氷のようなその双眸から——なんと、涙があふれ出したのだ。


 心など一切感じられないその瞳から、まるで氷河が溶けだすように。大粒の涙が、次から次へと留まることを知らずに流れ出していくのだ。


 やがて彼女は顔を両手で覆い隠し、膝からがくっと崩れ落ちてしまった。


 彼女の押し殺した声が、静かな地下室に満ちる。

 アルテは一瞬、目の前のその光景を理解できなかった。


 あの伯爵が。血も涙もなく、氷で形作られた人と似て非なる存在のように思えていた伯爵が。こんな風に、涙するなんて。


「お、お母様……⁉」

 その様子には当然、娘であるグラスも驚きを隠せないらしかった。


 けれど優しい彼女は泣き崩れる母へと慌てて駆け寄り、そっとハンカチを手渡した。


「ど、どうなさったのですか、お母様! もしかして私、何か大変なご無礼を……」

「……グラキエース」


「はっ、はい?」

「その花を、覚えていたのですか」

「も、もちろんですとも! 忘れるわけがありません、だってこれはお父様との思い出の……」


「……信じられません」

「えっ?」


「信じられないと言ったのです。……たったひと月と数週間で、この花を作れるまでになっていただなんて」


「‼ そ、それって……」

 伯爵のその言葉を受け、これまで不安げだったグラスの瞳がたちまち喜びに染まっていく。


「わたくしに錬金術の素養はありませんが、それを一輪作り出すことがどれだけ大変か、全く知らないわけではありません。……ですが今の貴女は、さほど苦労しているようには見えませんでした」


「…………!」

 グラスの瞳が、みるみるうちに潤んでいく。両手で覆い隠されたその口からは、うまく言葉が出ないようだった。


 一方の伯爵は、外していた帽子を被ると、そのつばを深く下げる。そのせいで彼女の顔はほとんどよく見えなくなってしまった。


 彼女が立ち上がろうとすると、グラスはそっと手を差し伸べる。


 娘に助けられて静かに立ち上がった伯爵は、白い扇子をさっと開くとそれで口元を覆い隠してしまう。


「すみませんが、わたくしはこれで。…………仕事が、立て込んでいますので」


 涙ぐんでいるのを隠そうとするような声でそう言うと、伯爵は半ば逃げ出すように早足で階段を上がっていく。


 それをグラスは慌てて追いかけ、白いドレスの裾を掴んで引き留めた。

「お、お待ちください、お母様!」


「……何でしょうか」

「こちら……よろしければ、受け取っていただけないでしょうか?」


 そう言って、グラスがおずおずと差し出したのは先ほどの花。


 それは純氷でできているようにも、透き通ったクリスタルのようにも見える、一見模造花のようで、それでいてきちんと生きている、世にも美しい花だった。


 光の加減によって、その透明な花弁の表面には七色の模様がつやつやと浮かび上がる。


 その神秘的な花を、伯爵は黙って数秒見つめ。

 それから、そっと受け取った。


「…………ありがとう」

「えっ?」


 扇子の向こう、伯爵の唇から紡がれた、聞こえるか聞こえないかのその言葉を受け、グラスは一瞬きょとんとした顔になる。


 それから数秒後、驚きと嬉しさと感動で頭が真っ白になってしまった彼女を置いて、伯爵は帽子を一層深く被りなおし、そしてスタスタと去っていってしまった。どこか、ばつが悪そうに。

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