これから

 あれから、いくらかの時が過ぎた。

 あの日以降、驚くほど何事も無かったかのように、二人の日々は過ぎていっていて。


「……あの、お師匠様」

 ある日の、夕飯後の二人でのんびり過ごす時間。

 グラスは少し物憂げな表情を浮かべながら、ふとこんなことをアルテに問うてくる。


「つかぬことをお聞きするのですが……このままで、本当によろしいのでしょうか」

「えっ? このまま、って?」


「あの日以降、お母様からはご連絡なども一切ありませんし……ここに居続けても、大丈夫なのでしょうか。それが、ずっと気になっていて」


「心配なら、これから旅に出る?」

 冗談っぽく笑って見せたアルテに、グラスは少し迷ってから答える。


「それも、とても魅力的なのですが……その必要がないのなら、私はここにいたいです。私、このお家が好きなんです」


 それから少し間を空けて、彼女はこう付け加えた。

「二人での旅は、もう少し先でも……」


 恋する乙女のように、かわいらしく頬を染め上げて。

 彼女の甘い視線の理由に、アルテは気づいていない。


 気づかぬままに、彼女はふふっと微笑んだ。その屈託のない笑みが、目の前の少女の心境にどんな影響を与えるかなんて知らずに。


「うちのこと、そんなに気に入ってくれたんだ。嬉しいなぁ」


「だって、ここにはお師匠様との思い出がたくさんありますし。それに、どこにいてもお師匠様の匂いが……っ、い、いえ! 何でもありません、忘れてください!」


「?」

 先ほどまで普通に喋っていたかと思えば、急に顔全体を真っ赤に染め上げて顔の前で手をぶんぶんと振り始める。


 グラスの表情がコロコロ変わるのは、彼女が来たときから相変わらずだ。やはり、見ていて飽きない。


 ところでアルテは、彼女がここに居続けても問題がないと——つまり、彼女が錬金術師の弟子を続けていって全く問題ないのだと、実は自信をもって言い切ることができた。


 なぜなら、グラスの母であるド・ネージュ伯爵自身がアルテにそう言ったから。


 グラスが伯爵を再度この家に呼び寄せたあの日以降、実は一度だけ、アルテのもとを伯爵が尋ねてきたことがあったのだ。グラスが眠りについた、夜の間にこっそりと。



   ◇



「この度は、誠に申し訳ございません。わたくしのわがままを聞いてくださって……」


 夜も更けた後、ほとんど音を立てずに家の中立ち入ってきた伯爵は、申し訳なさそうにそう告げた。

 そんな彼女にアルテは平気だと伝え、地下室へと案内する。


 錬金術をするためではない。地下室は二階の寝室と一番遠いが故に、秘密の会話をするのにはうってつけだからだ。


 アルテは持ち込んだ茶器で紅茶を淹れ、用意していたティーカップの上に置く。来客がある際にいつもそうするように。


 伯爵はそれを手に取って口にすると、静かにアルテにこう告げる。

「いい茶葉ですわね」と。


 社交辞令じみて聞こえるその言葉だが、その声にはいくらかの感情が籠っているように聞こえた。……というか、感情を籠めようと努力しているのが伝わってくる、というか。


「ありがとうございます」アルテも、柔らかい表情と声でそう返してみた。


「いつも、お茶は私がブレンドしているんです」

「あら、そうなのですか。素敵な特技、ですわね」

「えっ? ……あ、ありがとうございます」


 アルテは思わず一瞬、自分の耳を疑った。そんな言葉がまさか伯爵の口から出るとは思っていなくて。


「わたくしの夫も、茶葉のブレンドが趣味だったのです。……すみません、関係のない話でしたわね」

「いえ、そんな。素敵な旦那さんなんですね」


 そう言い終えた直後に、アルテは気づく。


 だったのですね——そう言った方が、より正しかったのかもしれない。それを言い直す真似は、わざわざしたりしないけれど。


 それから、しばしの沈黙があたりに満ちる。

 それを割ったのは、伯爵の声だった。


「……急なお願いだったにも関わらずお時間を作っていただいて、本日は誠にありがとうございます。それも、こんな非常識なお時間に……。グラキエースは、もう眠っているでしょうか」


「はい。二時間ほど前に、ベッドに入っていきましたよ」

「そう、ですか。安心しました。ではさっそくですが、本題に入らせていただいても?」


「はい。お願いします」

 グラスはどうも夜に弱いらしく、夕飯と入浴を終えるとすぐに眠りについてしまう。今はきっと夢の中だろう。


 対してアルテは徹夜をすることも多く、夜が得意な方だ。


 わざわざ夜中に会見を行うこととなったのは、グラスに見つからないと確信できる時間が夜中くらいしかなかったからだ。


 もっともアルテは、何時であろうと伯爵からの申し出を受けないつもりはなかったのだが。


 伯爵は一呼吸おくと、その口をゆっくりと開く。

「グラキエースの、ことなのですが。彼女をこの先も、こちらに置いていただくことをどうかお願いさせてはいただけないでしょうか」


 そう言って、彼女は深く頭を下げた。

「…………、え、今何と?」


 アルテは思わず聞き返す。伯爵の言葉が聞こえなかったわけではない。けれど、聞き取れたその言葉はあまりにも彼女にとって予想外のものだったのだ。


「どうか娘を、これから先も弟子としてこちらに置いていただけませんでしょうか」

「……」


 返ってきた言葉は、先ほど言われたのと全く同じ内容。まさかとは思ったが、どうやら本当に聞き間違いではなかったらしい。


「……もちろんです。喜んで」

 まず、アルテは笑顔を作ってそう答えた。まさか伯爵の方からそんな風に願い出てくるなんて、願ってもないことだ。


 けれど、伯爵はどうしてその考えに至ったのだろう。それは、どうしても気になって。


「ですが、どうして急に心境の変化を?」

 アルテが尋ねると、伯爵は少し考えるように俯いて。


 やがて、彼女はそのわけを語りだした。言葉を選ぶように、ゆっくりと。


「あの子は、錬金術をやらなければいけないのではないかと。そう、思ったのです」

 そう言うと、彼女はまた俯きがちになってしまう。


「あの子の作った、あの花を見たとき……亡き夫に、言われたような気がしたのです。彼女は、錬金術の道に進むべきだと……。

 

 わたくしの夫は、錬金術師だったのです」


「えっ……?」

 伯爵の言葉の、その最後にアルテは思わず耳を疑う。


 以前はあれだけ錬金術を否定していた伯爵の夫が、錬金術師だったなんて。


 けれどさらにアルテを驚かせたのは、伯爵の次の言葉だった。


「あの日、彼女がくれたあの花——“とこしえの銀華”も、わたくしの夫が学生時代にレシピを開発したものなのです」

「……!」


 “とこしえの銀華”。錬金術によって生み出される、奇跡が形を成したような存在。


 どんな精巧なガラス細工よりも美しく、触れればたちまち解ける雪の結晶よりも繊細で。


 作り物と見紛う美しさとは裏腹に、花弁も葉も触れれば柔らかく瑞々しい。


 花瓶に生ければその名の通り永遠に生き続けるし、溶かして口にすればどんなにひ弱な人間でもたちどころに元気になる。


 エーテルに宿る霊性プネウマが凝縮された、奇跡の花。


 それが生まれるまで、エーテル自体を錬成物に取り込む技術は確立されていなかった。けれど今日ではもはや、それは不可能ではない。——それほど簡単なことではないのは、やはり変わりないが。


 また、どんな人間にでもエーテルのもつ多大な活力と生命力を与えることのできるこの花は、失われた古代錬金術の秘宝のひとつである“エリクシル”の効果に及ばずとも遠からず。


 “とこしえの銀華”のレシピがこの世に生まれたとき、人々はその生みの親をこう呼んだ——天才、と。


 それがまさか、グラスの父だったなんて。


「そして彼こそが、わたくしがこれまであの子に錬金術をさせることを拒んでいた理由でもあるのです」


「……その理由を、お聞きしても?」

 アルテがおずおずと尋ねると、伯爵は「ええ」と頷いてから、そのわけを語り始める。


「あの花を生み出してから、彼にはいつも人々からの賞賛の声が浴びせられ、そして仰望の眼差しを向けられておりました。


 ですがそれでも彼はつけあがることなく、ただひたむきに己の好きな錬金術と向かい合って生きていたのです。


 そんな彼の背中を、わたくしも心から愛していて……けれど彼の人生は、錬金術の才能があったからこそ悲惨な終わりを遂げたのです」


 伯爵の声色が、硬くなる。彼女は己の顔を隠すように扇子を広げると、しばらく黙り込んでしまった。


 それから、彼女はゆっくりとティーカップを手に取る。まだわずかに湯気の立つ紅茶で口元を潤すと、静かに話の続きを始めた。


「彼は天才であると同時に、たいへんなお人よしでもありました。だから、目の前に困った人々があれば、どんなに無理を言われても助けようとしてしまうのです……。


 ご存じでしょうか、エテルネリアの都市で起こった魔障壁の暴走事故を」


「……!」

 当然、知っていた。錬金術師なら知らない者はまずいないであろう、とても悲しい事故。


「……ええ、存じ上げております」

「でしたら、話が早いですわね——あの事故の犠牲者こそが、夫だったのです」


 事故の話を持ち出された瞬間から、そう言われる覚悟はできていた。


 そのつもりだったのにやはり、こうして突き付けられた現実はあまりにも残酷で。

 アルテは、言葉を失ってしまう。


 エテルネリアの、魔障壁の暴走事故——それは起こってからまだ百年すら経っていない、比較的新しい出来事だ。


 エテルネリア王国では、古くより魔力炉を動力源として自動的に都市に魔障壁を発動させる装置を使って、人の住む場所を魔物の侵入から守っている。


 そして、その装置の核となる機構は、錬金術によって作られているものだった。


 本来なら、装置は定期的なメンテナンスを行わなければならない。けれど事故が起こった辺境のその都市では、それができるだけの錬金術師を抱えることが長年できていなかった。


 そのせいで、老朽化した装置は徐々に故障していき、事故が起こった際にはもうほとんど全くと言っていいほど正常に動作しなくなってしまっていた。


 そうなってしまえば、装置丸ごと新しくするべきだ。


 けれどその装置に使われている素材、とりわけ核部分の素材は、装置が作られた当初と比べると産出量が大幅に減っており、そのうえ装置の設計費用や、装置を動作させるための大がかりな術式を刻むための費用も生半可なものではない。


 それを恐れたのか、都市の要人は一人の錬金術師に依頼を出した。この壊れ切った装置を、どうにかして修理してほしいと。


 その錬金術師は依頼を受け、そして装置の内部へと赴いた。


 彼は故障部分を探すため、魔力炉を制御する機構——つまり、装置の核部分へと赴いた。


 それは一見、手のひらにも乗ってしまいそうなほど小さな魔石に細かな術式が刻まれてできている。


 それの検査をしていたときだったのだろう——古くなってボロボロになった魔石の術式に亀裂が入り、崩壊し。


 もっとも大抵は、それで起こる不具合といえば術式がただの模様と化してしまうことぐらいだ。


 だがときどき、元とは全く別の術式になってしまうこともある。そして、それが運悪く悲惨な事故につながることも。今回が、その最たる例だろう。


 これまでとは全く別のものへと変わってしまった術式は、魔力炉の中の魔力を高圧化し、一斉に放つよう装置に命令した。その結果、そこにいた錬金術師は——。


「どうしても依頼を受けると言った彼を、わたくしは前日の夜だって止めたのです。どんなに腕の良い錬金術師が修理を試みたとしても、あの装置はもう手遅れだと。


 ですが彼は聞きませんでした。都市の人たちは今も魔物に怯え、眠れない夜を過ごしているのだ。実際に赴いて見てみないと本当に手遅れかどうかは分からない、無理だと判断するのは最後まで手を尽くしてからだ、と言って……」


 そこまで言い終えると、伯爵は膝に乗せていた扇子でさっと顔を覆い隠してしまう。


 それから、こう続けた。震えを必死に抑えるような、込み上げてくるものを堪えるような声で。


「彼がもし、普通の錬金術師だったら。きっとあんな依頼は、彼のもとに来なかった——いいえ、誰の元にも最初から来なかったはずなのです。


 あんな、どう考えても達成不可能な依頼など……。けれど彼は天才でした。これまで不可能だったことを、たった一人で可能にしてしまえるほどの力を持っていました。だからなのです。……それに、あんなにもお人よしだったから……」


 それから、しばらく伯爵は言葉を失ってしまう。

 会話の代わりに地下室の静寂に響くのは、白い扇子の向こうの深い吐息。まるで何かを必死に堪えるような。


 目の前に佇む女性が、これまでおそろしく冷たい存在だと思ってきた彼女が。 


 今ではもう、そんな影も形もなかった。代わりに今、アルテの目の前にいるのは一人の孤独な、か弱い女性そのもので。


 そんな彼女を前に、アルテもかける言葉が見当たらない。


 どれくらい時間が過ぎたのだろう、長いような短いような沈黙ののちに、扇子越しに伯爵がゆっくりと話しだす。ひとつひとつ、思い出して辿っていくように。


「錬金術の才能は、その希少さと利便性ゆえに、世界中から求められるものであります。ですが、それが必ずしも誰かを幸せにできるとは限りません。


 そんな才能、ない方がいい……そんな風に、わたくしは思っていたのです」


 いつか、どこかで聞いたような言葉だった。

 確かそれは、初めて伯爵がこの家を訪れたときに彼女が口にした言葉。


 あのときは思った。どうしてそんなことが言えるのか。どうしてそこまで頑なに錬金術を否定できるのか、と。


 だが、やっと分かった。彼女は決して、否定したかったのではないのだと。


「彼の子ですもの、あの子に錬金術の才があったって何も驚くことではありません。だからこそ、わたくしは怖かったのです。あの子は彼に似てとっても優しくて、そしてお人よしな子ですから」


 伯爵の言葉に、アルテは心の中で強く同意する。彼女の言ったとおり、グラスは確かに心優しい子だ。


 他者を思いやることをいつだって忘れないし、その優しさは人以外にだって迷いなく向けられる。


 けれど、強い優しさが当人の身を滅ぼすことがあるというのも、残念ながらこの世界の事実だ。——これで分かった。


 伯爵は娘を否定したかったのではない。ただ、娘がその才能と優しさ故にその身を滅ぼすことを強く恐れていたのだ。


「あの子まで失ってしまったら、わたくしはもう……。あの頃のわたくしは、そんな考えに頭の中を支配されていたのです」


 伯爵は、自分の言葉の最後に小さくそう付け加えた。

 その気持ちは、至極真っ当なものだ。アルテにもよく分かる。


 どうやら、重大な勘違いをしていたようだ。——伯爵は本当に、グラスのことを愛していたのだ。


 むしろ愛しているからこそ、あそこまで頑なに拒んできたのだ。彼女が、錬金術の道を歩むことを。


「……では、どうしてそのお考えがお変わりになったのでしょう? お聞きしても?」


 アルテが尋ねると、伯爵はぽつりと呟くようにこう言った。

「きっかけは、あの子の目でした」

「目?」


「そっくりだったのです……わたくしに花を渡してくれたあのときの目が、彼の目と。


 彼も、あんな目をしていたのです。綺麗な深い青の瞳でわたくしに微笑みかけて、あの花を——愛してると、君のために咲かせた花だと言って、わたくしにくれたのです。


 身体の弱いわたくしが丈夫になって、何不自由なく、二人で末永く一緒に暮らせるように頑張って作ったのだと、あの日、彼は……」


 もう、扇子で隠し切れないぐらいに伯爵の顔は涙でびしょびしょになっていた。

 瞳から溢れる大粒の涙が、彼女の化粧を剥がしていく。


「あの子には、彼の血が確かに流れています。錬金術を愛していた、彼の魂が確かに宿っています。——あんな瞳を見せられて、それでも“錬金術をやめろ”だなんて、言えるはずがないでしょう?」


 元から切れ長の目をさらに尖らせるように縁取っていた線が消え、白い肌を余計に白くしていた白粉が取れ、露わになったのはありのままの彼女の顔だった。


 頬を紅潮させ、グラスとそっくりの瞳から大粒の涙をこぼす彼女。これこそが彼女のありのままの、本当の姿なのだろう。


「わたくしは……わたくしは、どうすればよかったのでしょう。


 彼がいなくなってから、わたくしは自分一人でも子供たちを幸せにさせることだけを考えてまいりました。


 あの子たちが幸せな未来を歩めるように、それぞれの特技を伸ばして、将来に活かせるようにしてあげようと……そのためにわたくしは、苦しく厳しい日々をあの子たちに強いてしまいました。


 彼の優しさを思い出せば、それが間違いであったと気づけたはずなのに……。


 どうして、思い出せなかったのでしょう。どうしてわたくしは彼のように、あの子たちに素直に“愛している”と伝えられなかったのでしょう……」


 堰を切ったように、伯爵の瞳からは涙がとめどなく溢れていく。


 喉の奥から嗚咽を漏らし、白いドレスの裾を濡らしながら、彼女は絞り出すような声で言った。


「わたくしは、母親失格なのです……あの子の母親でいられる資格なんて、あの子たちに愛していると言う資格なんて、ありません……」


 そんな彼女に、アルテはそっとハンカチを手渡す。首をそっと横に振りながら。


 そして、こう告げる。ゆっくりと、慎重に言葉を選びながら。


「……確かに、あなたのこれまでの行いがグラスたちに与えた影響は、きれいに消え去るということはないでしょう。


 ですが、過去を省みて、二度と同じ過ちを繰り返さないのなら……素直になって、子供たちと心の底から向き合うことがこれからできるのなら……あなたの気持ちも、いつかは伝わるんじゃないかと思います」


 彼女の行いのせいで、グラスがこれまで苦しんできたことや、孤独であったことは確かな事実だ。


 今しがた伯爵の言った言葉に、アルテも以前であれば同意しただろう。けれど今は違う。


 伯爵にも、親としての子への愛があったのだ。全ては子供たちを愛しているからこその行いだったのだ。そして、全ての原因はあの不幸な事故にある。


 あの出来事によって愛する人を失った彼女の心は壊れてしまったのだ。それが、今なら分かるから。


『私はもう、お母様の娘ではありません……!』

 いつかグラスの言い放ったその言葉を、彼女はずっと気に病んでいたに違いない。


 あのとき悲しげな表情を見せた理由も、それから再びグラスと会ったときにやけに覇気がなかった理由も、それで全て説明がつく。彼女はその言葉に、傷ついていたのだ。


 血も通っていれば、涙も流す。彼女は弱く孤独で、ひどく不器用だけれども我が子のことを何よりも愛している、一人の母親であり、一人の人間だったのだ。


 アルテの言葉に、伯爵はゆっくりとその顔をあげる。

 潤む氷色の瞳に、アルテはそっと頷いた。


「愛している、と伝えるのは、今からでも遅くないと思いますよ」


 だってグラスは他でもない母のことを——彼女のことを想ってあの“とこしえの銀華”を作ったのだから。


 その証拠に、あの花はグラスの想いと愛情によって、あんなにも美しく咲き誇ることができたのだから。


 伯爵はしばらく静止し、それから受け取ったハンカチでそっと涙を拭う。


「申し訳、ありません。こんな姿をお見せしてしまって」

「いいえ。誰にでも、泣きたいときはありますから」


 アルテは思った。きっと彼女も彼女で、これまで一人で悩んで、苦しんできたのだと。


 こうして誰かの前で涙を流せたことなど、きっとなかっただろう。


「もっと、素直になっていいと思いますよ。言葉にして伝えないと、他人の気持ちなんて分かりませんから」


 伯爵はしばらく俯き、それからアルテの言葉を噛みしめ、そして呑み込むようにゆっくりと頷いた。


「言葉にして伝えないと、気持ちは分からない……ええ、そうですわよね。


 本当に、その通りです。そんな当たり前のことを、わたくしは今までどうして忘れてしまっていたのでしょう。……これからは、もう忘れません」


 そう言うと、伯爵は手にした扇子を閉じた。


「グラキエースにも、彼のことを話すべきなのでしょうね。彼がどんな人で、どんな最期を遂げたのかをこれまで黙ってきたことや、ひどい仕打ちをしてしまったことをあの子に——いいえ、あの子たちに謝らなければなりません。

 それから、アルキュミア様。貴女様にも」


「えっ?」


「わたくしはこれまで、何度も貴女様の言葉を否定し、貴女様がともに人生を歩んでこられた錬金術そのものさえも否定してしまいました。


 けれど間違っていたのはわたくしの方だったのです。そして今、わたくしは貴女様の言葉に救われている……本当に、心から謝罪を申し上げます。それから、多大なる感謝も」


 そう言って、伯爵は深々と頭を下げる。


「いえ、そんな。どうか頭を上げてください、わたしだってあなたに謝らないといけないのですから。


 ……ド・ネージュ伯爵、わたしこそ、あなたのお気持ちを否定するようなことをたくさん言ってしまいました。あなたがこれまでお一人でどんなに辛い思いをされてきたのか知らずに……こちらこそ、本当に申し訳ありませんでした」


 アルテはそう告げ、伯爵と同じぐらい深く頭を下げる。


 心からの謝罪だった。彼女のこれまでの人生にどんなことがあったのか、もし知っていたらあんな言い方はしなかっただろう。


「そ、そんな……どうかおやめください、貴女様がわたくしに謝る必要なんてないのですから」


 伯爵は目を丸くして、アルテに頭を上げるよう促す。

「本当に、お優しいのですね。貴女様は」


「えっ? そ、そんな。わたしはいつも人として最低限のことをするのが精一杯で、優しくなんか……」


「まあ。自分の優しさに周囲がどれほど助けられているかも知らずに、それを当たり前のように“最低限”と言えるだなんて」


 伯爵はぽつりとそう漏らすと、その口元に珍しい微笑を浮かべて。


 そして、こう呟いた。「貴女も、なんだか彼のようです」


 わたくしも、見習わなければなりません。そう言って彼女はおもむろに姿勢を正し、アルテに再び深々と頭を下げた。


「本日は本当にありがとうございました。手紙ではなく、直接お会いしてお話しできて、本当によかった」

「いえ。こちらこそです」


 少し瞼が重たくなってきたが、それでも話せてよかったとアルテも思う。おかげで、伯爵のことを知ることができたのだから。


 伯爵は、そろそろ帰ることをアルテに伝えると、ティーカップにわずかに残っていた紅茶を飲み干し、それからおもむろに立ち上がった。

 一緒に地下室を出る際、彼女はふいに立ち止まって言う。


「あ、あの、最後に一つよろしいでしょうか」

「はい、何でしょう?」


「紅茶、とっても美味しかったです。……本当に」

「あら。ありがとうございます。お気に召していただけたようで、嬉しいです」


 告げてきた伯爵の表情は、やはり変化に乏しい。

 その顔から感情や意図を読み取ることは難しいが、今の言葉はきっと本心だろう。


 アルテはにこりと微笑んで、同じように本心からの言葉を返す。


 きっと伯爵は、アルテが当初思っていたよりもずっと不器用な人なのだ。



   ◇



「実はね、この前、グラスのお母さんと二人でお話ししたの」

「ええっ!? そ、それは本当なのですか……!?」


「うん。そのときね、言われたんだ。グラスのことをよろしくお願いしますって」

「私の、ことを? ……え、えっと、それで、お師匠様は何とお答えに?」


 なぜか少し頬を赤くして、グラスはそう尋ねてくる。そんな彼女に、アルテは優しく微笑みかけて答えた。


「もちろん、グラスのことはこれからもわたしに任せてくださいって」

「……‼」


 アルテが答えた途端、グラスの顔全体が一気に真っ赤に染まる。


「……こ、こちらこそ、末永く、よろしくお願いします」

「ええ、もちろん。これからもよろしくね、グラス」


 そう言って、アルテは優しく弟子の手を握る。

 目の前の、頬を赤らめる少女の言った言葉に、アルテが思うような師弟関係とはまた違った意味合いが込められていたことになど彼女は一切気づいていないようだった。


 ましてや、彼女が何の気なしに握った手の感触ですら、繊細な少女の心に多大な影響を与えていることなど、完全に知らないらしかった。


 あの日のことは、グラスには内密にするよう伯爵には言われている。


 けれど、これぐらいなら言ってしまってもいいだろう。いずれ伯爵自身から、グラスに明かされるであろうことだから。


「これからも、お師匠様の弟子を続けられるなんて。なんて幸せなのでしょう」


「ふふっ。わたしも、これからもグラスの師匠でいられるのが嬉しいよ。


 ……でも、いつかはあなたと一緒に旅とか、してみたいな。冒険者をしてた頃より年は取ってるから、もしかしたら足手まといにになっちゃうかもしれないけど」


「ええっ? お師匠様、冒険者をしていらっしゃったのですか? なんだか意外です……」

「……えっ?」


 意外。そう言われ、驚きたいのはむしろアルテの方だった。


 もしかして彼女は、自分が錬金術を始めたきっかけとなった存在——つまり、“冒険者として”世界を巡る旅をしていた救世の聖女とアルテは別人であると思っているのだろうか。


 まあ、それならそれでいいのだが。むしろ、勘違いしていてくれたほうがいいかもしれないと思い、アルテはあえて黙っていることにした。


「……お師匠様は、やっぱり私の聖女様です」

 そんな折、グラスがふいに呟くように言う。

 それから、隣に座るアルテに彼女はそっと微笑んで。


 詩を朗読するかのような、あるいはさざ波のたゆたうような優しい声で告げた。


「だって、お師匠様がいなければ知れなかった素敵なことや、楽しいことがたくさんあるのですから。


 家を遠く離れた異国の地にこんなに素敵な場所があること、温かく心優しい人々がいること。錬金術という、自分の人生を大きく切り開く力を自分も持てるんだということ」


 そこでグラスは、一度言葉を切る。

 それから、大切な思い出をゆっくりと振り返るような、幸せそうな声で続けた。


「それからお師匠様は、何よりも大切なことを教えてくださいました。


 私の心までもを変えてくださいました。囚える母と戦い、家という鳥籠から抜け出すことばかり考えていた私に、誰かを想う大切さを思い出させてくれたんです」


「……そっかぁ。わたしが、あなたの」

 聖女。それはアルテが何よりも忌み嫌い、彼女自身が一番否定し続けてきた異名であった。


 輝かしいその名で呼ばれるたびに、胸が締め付けられるような思いがした。千年以上もの間、ずっと。


 けれど今は、昔ほど嫌ではないかもしれない。

 とは言っても、自分が聖女であるとは到底思えない。


 けれど、目の前の少女の聖女ではある。そう強く自信をもって——とはいかないものの、ある程度の根拠をもって言うことができる。


 他でもない本人が、心からそう思ってくれているのだから。


「えっと、お師匠様……手、しばらくこうしていてもいいですか?」


 もちろん、とアルテが頷くと、グラスは嬉しそうに微笑んで、それからアルテの身体にそっとその身を寄せてくる。


 ぴたりと肩を寄せ合い、互いの体温を感じながら、ゆっくりと時が過ぎていく。


 言葉はいらなかった。二人でこうして共に時間を過ごしていることを、噛みしめていられるだけで幸せだから。


 今は、沈黙こそが何より心地よかった。

 ……けれどやはり、言葉にしないと伝わらないこともある。


 例えば、感謝の気持ち。それこそ、きちんと言葉にしなければ伝わらない思いの、その最たる例だろう。


「ねぇ、グラス」

「はい? 何でしょうか、お師匠様」

「ありがとう」


「……ええっと?」

 ふいに告げられた言葉に、グラスは戸惑いの色を見せる。


「わ、私、何か感謝していただけるようなこと、しましたでしょうか……?」


「わたしは、いつもあなたに感謝してるの。だってあなたがいてくれるおかげで、人生がとっても楽しくなったんだから。

 ……それに、とっても錬金術がしたくなってきた!」


 錬金術をしたい、だなんて。これまで数百年間、そんなことは一度も思えずに生きてきたのに。


 最近は少しずつ、その気持ちを思い出せるようになってきているのだ。


 楽しそうに錬金術をするグラスを——希望をいっぱいに宿した、輝く彼女の瞳を見ていると、だんだんとアルテも錬金術をやりたくなってくるのだ。


 彼女のように、錬金術に夢中だったあの頃の気持ちを、もう一度味わいたくて。


「お師匠様……! それでは、今から地下室、行きますか?」

「うん! そうね、行きましょ!」


 それから二人は夜通し、錬金術に熱中した。眠気の限界が来るまで、ずっと。


 こんなに楽しい気持ちになれたのは、いつぶりだっただろう。




 それから、数日後。

 氷の紋章で封をされた封筒が、家に届いた。


 グラスに宛てられた、その手紙に書かれている内容は想像に容易い。


 手紙を一通り読み終えたあとの、グラスの嬉しそうな表情。それはアルテの予想が見事的中していたことの、何よりの証拠だった。

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錬金術師のセカンドライフ 亜槌あるけ(秋葉小雨) @alche667

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