第29話 悪役令嬢の名は
ひとまず視線を避けるためにホールの隅に来たわけだが、完全に人目を避けることは不可能だ。こちらを盗み見ては、ヒソヒソと話す声が聞こえる。
「――ったら、婚約したのに性懲りもなく現れて……どういうつもりよ」
「どうせ例の男遊びの悪癖が疼いたんでしょ。なんたって、悪役令嬢様ですもの、っふふ」
近くにいた令嬢達はプッと吹き出すと、口元を隠した扇子の下で隠す気のない笑いを漏らした。
「男遊び……悪役令嬢……?」
呟いた言葉に、傍らのフィフィーちゃんがビクリと肩を跳ねさせる。
悪役令嬢という言葉には聞き覚えがあった。確か、屋敷であのメイド達がフィフィーちゃんを指して言っていた言葉だ。
「フィフィーちゃん?」
彼女の顔は俯き、唇を噛みしめている。
「も、申し訳ありません……っ」
青白い顔で呟く声は、消え入りそうにか細かった。
「やはり、わたくしはこの場に来ない方が……申し訳ございません。お義母様にもサイネル様にもご迷惑を……っ」
サイネルの右腕に置かれていたフィフィーちゃんの手が、するりと離れようとする。しかし、サイネルの左手が彼女の手を掴み、それを止めた。
「君は、あんな人の顔を見て堂々と言えないような者の言葉を、真に受けるのか。それはつまり、あの者達の言っている言葉が正しいと?」
「ちっ、違います! 決してそのようなことは、わたくしは……っ!」
「だったら堂々としていろ。君は由緒あるマクウェリン家の……僕の許嫁なんだからな」
ふんっ、と素っ気ない言い方だったが、サイネルは握ったフィフィーちゃんの手を再び自分の左腕に乗せていた。フィフィーちゃんは、口端を震わせながら「はい……っ」と頷く。
私はサイネルの成長に、思わず親指を立ててしまった。まだ無愛想な顔と声の固さはあるものの、照れ故の無愛想だと思えばそれもおいし――いや、許容範囲だ。
歓喜を噛みしめつつも『でも』と脳内を切り替える。
(サイネルのこの言い様……そういえば、彼はフィフィーちゃんが悪役令嬢って呼ばれてるのを知ってたわね)
つまり、今私が気になっている『なぜ悪役令嬢なのか』ということも知っている可能性が高い。
(ここで尋ねることもできるけど……)
チラと、視線を足元に落としたままのフィフィーちゃんを見やる。自分についての噂話など、目の前でされたくはないだろう。せっかく腕を取ったばかりで申し訳ないが、私は『サイネル、ちょっと』と目で場所を変えようと促す。
「なんだか喉が渇いちゃったわね。フィフィーちゃん、少しだけここで待っていてくれる? 飲み物をもらってくるから」
「あ、でしたら、わたくしが……!」
「いいのいいの、きっと私は挨拶に捕まるでしょうから。あ、フィフィーちゃんの分はサイネルに運ばせるわね。ほら、行くわよ」
私は、サイネルの背中を押してその場を離れた。
ホールを見渡せば、チラホラと見知った顔がいた。きっと、特にロザリアと関わりが深かった貴族だろう。顔を見た瞬間、いくらか脳内に記憶が蘇ってきた者がいたが、今はすべてを脳の隅へと押しやる。
「で、サイネル。フィフィーちゃんが悪役令嬢なんて呼ばれてる理由だけど……」
「やはりその件だと思いましたよ」
フィフィーちゃんのいる場所とは反対側のホール隅にやってきたわけだが、やはりというか、フィフィーちゃんがいないからか向けられる視線は少ない。
傍らを通り過ぎる給仕のトレーから取ったグラスをひとつ、サイネルに渡す。彼はグラスに口を付けると、ジロリと訝しむ視線だけを向けてきた。
「というか、そちらの渾名は女性のほうが呼んでいるものですし、僕よりも母様のほうが詳しいのでは?」
「えっ、いやほら、私は寝込んでたし、それ以前に、こういった場にあまり出てなかったから女性の間の噂には疎くて」
人が違うからよ、などと言えず、私は慌ててもっともらしいことを口にしたのだが、意外にもサイネルは「ああ」と納得した声を漏らした。
「確かに、母様はこういった場は、あまりお好きではなかったですね」
そういえば、ロザリアの日記にも記憶の中にも、こういった煌びやかな世界のものはほぼなかった。まあ、数十歳も年の離れた夫を伴って出席しなければとなると、嫌だろう。しかもお互いに愛はなかったらしいし。
サイネルはグラスをクルクルと回し、中で揺れる琥珀色を恬淡な目で見つめていた。
「……フィフィーは、黒幻素魔法を使って、様々な令嬢達の許嫁や恋人を寝取っていたという話ですよ」
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