12章 あなたを恋う理由

第13話

――黄昏は去りゆく。夜の帳が地を覆う。


 春の星座が瞬く、空の下。ひとつの影が、丘を下っていく。


「リコリ、寒くないか」


「……ん」


 山々に囲まれたこのあたりは、春であっても朝夜は冷える。すっかり日が暮れ、冷たい空気が忍び寄る。


 リコリは、ロッカにおぶられていた。背中にはロッカの上着まで被せてもらっている。あんなに身勝手なことばかりしたというのに、破格の待遇だ。


(……ロッカは、寒くないかな)


 直接そう本人に尋ねられればよかったが、そんなかわいげが出せるなら昔から苦労はしない。それに、さっき吐き出したことを思うとどうしたって居心地が悪い。そんなリコリに何も言わず、ロッカは迷いのない足取りで歩いて行く。


 何よりもリコリを落ち着かなくさせたのは、彼からいつもの如くお説教が飛んでこないことだった。


 ――帰ったら親父さんとおふくろさんに謝れよ、だとか。


 ――村の奴らも今頃お前を探しているんだぞ、とか。


 そんなことを、言われると思っていた。だがロッカは「寒くないか」と尋ねたきり、何も言わない。ただ、彼の足音と、剣がカチカチと鳴る音だけが、リコリの耳に届く。


 自分を背負う背中も、貸してくれた上着も、リコリを肌寒さから守ってくれる。ロッカにおぶられたのは、本当に、幼い頃以来だった。


「――なぁ、リコリ」


 やがて、ロッカが言った。


「お前は、あいつに……アイヴォリーに嫌われてもしょうがないって、自分のことを言ったけど」


 ――あぁ。ロッカの口から、姉の名が出るのを。本当に、久々に聞いた。


 自分の名前を呼んでくれたこと以上に、何故か、響いた。


「あいつはきっと、そんなお前のことも大好きだよ」


 大好き、という言葉に、こんなに胸が引き絞られることがあるだろうか。


「……やめてよ」


 リコリはかぶりをふった。


「ロッカからそういう話、聞きたくない」


……ロッカから聞いたら、なおさら。また気分が落ち込み出すリコリに、ロッカが「まぁ聞けよ」と諭す。


「いいって。ロッカがおねえちゃんを好きなのは、よく分かってるから……、」


「あいつシスコンだからな」


「……はッ⁉」


 思ってもみないことをあっさり明かされ、リコリは大声を上げていた。


「突然叫ぶなよ、耳が痛いだろ」


「だ、だって、だって」


 顔をしかめたロッカはちらとこちらを見てから、また前を向いた。「あいつ変わってるからな」とさらにとんでもないことを言い出す。


「そんなあいつについていけるのなんて、お前ぐらいのもんだったよ」


「……で、でもおねえちゃん、たくさん友達もいたし、大人もみんな、かわいがってたし」


「みんなあいつの笑顔に騙されてただけだろ」


 ロッカが何てことなさそうに言う。


「嫌われ者の俺を怖がるでも嫌がるでもなく声かけた時点で、充分変わってるだろ」


「そ、それは……」


 ……そこを突かれると確かにだ。リコリだって、あの頃のロッカに近付くのは嫌だった。


「あいつも自分が変わってるって自覚はあったみたいだしな。だから余計に、何するにもどこ行くにもべったりついてくるお前が、かわいくて仕方なかったんだろ」


「……でも。おねえちゃんは、優しいから」


 誰からも、好かれる姉で。突然亡くなったのだって、魔獣が恋をしたからだと言われれば、納得できてしまうくらいで。


「そうだな」


 ロッカがため息を吐くように同意した。


「けど、お前にはとびきり優しかったよ」


 ふり向かずに、ロッカが言う声もまた。どこまでも優しくて。


「お前が俺のことも友達認定し始めたあたりから、俺に妬くようなところもあったしな」


「……おねえちゃんが、ロッカに……?」


「そうだよ。お前がいなきゃ、お前の話ばっかりしてさ」


 ――リコリがあんなに懐いた男の子はロッカが初めてなの。だから少し、妬けるわ。初めての感情よ。


 そう、きゅっと眉を寄せて、いたく真剣な顔で言ってきたのだという。


 しかしそれを語るロッカの声は、どこか楽しげで。きっとそれを言った姉も、本当はちょっと楽しんでいたんだろうと思わせられる。


 姉は、笑った顔も、考え事をしている顔も、困った顔も、かわいかったけれど。そうやって意地を張ったような大真面目な顔が、世界で1番、かわいかった。


 ……自慢の、姉だった。


「お前は、あいつが、……アイヴォリーが死んだことを、悲しめられてないって、言ってたけど」


 カチカチと、剣が鳴る。それがまるで、頭上で星が瞬く音に聞こえる。


「お前は充分、悲しんでるよ」


 ――視界がじわりと、歪む。


「……っ」


 嗚咽を噛み殺せなかった。リコリは幼なじみの肩に、顔を押しつけた。まるで10年前のあの日に、優しく手を引かれたかのよう。


 幼いリコリをおぶってくれたのは、ロッカだけではなかった。姉もまた、リコリをおぶってくれた。


 あぁ、どうして今になって思い知るんだろう。つぶれた蝶を手に泣きついたリコリをそっと抱きしめ返してくれた姉。家までおぶってくれた姉。ロッカが「おれがおぶろうか」と言っても、譲らなかった姉。


 好きな人におぶられているのに、痛感する。こんな彼でも、姉の代わりにはなれないんだということを。姉がいない悲しみは、ロッカでは埋められないんだということを。


 久々にロッカにおぶられたあたたかさは胸をぎゅっとさせて、でも誰も姉の代わりになり得ないんだということに気付かされて、苦しくさせる。


 子ども扱いされるのは死んでもごめんだと思ってたけど、今だけは子どもでいることに甘えたい。


「久々におぶったなぁ。お前のこと」


 ……あぁ。ロッカの方から、昔の自分との思い出が口にしている。


「……どうせ……、重くなったって、言いたいんでしょ」


「そりゃそうだろ。だってあん時5つのガキだっただろ、お前」


「女の子に向かってガキって言うところが、ロッカはガキ」


「ならお前もガキだな」


 昔のロッカは、リコリが疲れたりぐずったりすると、「しょうがねぇな」と言いながらもおぶってくれた。リコリがかわいげのないことを言うと、ロッカは淡々とそれに言い返す。無視すればいいのに、律義なのだ。


そして隣を、姉がクスクス笑いながら歩いてくれる。でも姉がリコリをおぶることの方がずっと多かったと、思い出した。


おぶられて帰る夕暮れは、どんな時でも幸せだったことも。


「……く、うぅ……っ」


 リコリは泣いた。姉の喪失を、心から。


 そうしてロッカは、ただ黙って、あたたかな光灯る家へと連れて行く。沈黙までもがぬくもりに包まれていた。

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