11章 あなたに憤る理由

第12話

(……あぁ、)


 崖の底から、遠く狭い空を見上げて。


(……思い出さなきゃよかった)


 たかが、1輪のそれではない花ぐらいで。こんなにも鮮やかに、よみがえるなんて。


 日が延びてきている時季なので分かりづらいが、そろそろ夕方になってきているのではないだろうか。空の青さがどこか鮮やかさを徐々に失い、仄暗い地上もその翳りを濃くしている気がしている。ぼーっとしていたら、いつの間にか、夜になっていそうだ。


(……それでもいいのかな)


 そろそろ帰らないとお父さんもお母さんも心配する、とか。詰め所から帰ったらすぐに家事手伝うつもりだったんだけどな、とか。……そう思うのに、体が、心が。まったく動いてくれない。


 北の森に住む魔獣も、黄昏を超えると森の外を出歩くことがあるという。しかしそう思い出してみても、やはりまったく恐怖も焦りも浮かばなかった。


(魔獣は、恋した相手しか食べない)


 なら自分は、大丈夫なんだろう。誰も彼もの心を掴む姉とは違う。そんな僻みめいた考えが浮かぶ。こんな、わがままだらけで未練たらしい自分なんて、人間も、魔獣も、恋に落ちてはくれないのだ……、


 ――ガサリ、と音がしたのは、その時だった。


「っ!」


 リコリがここに来てからずっと続いていた静寂が、初めて乱された。リコリは体を固くした。


(……何?)


 心臓が、どくどくと早鐘を打つ。自然、音のした方へと耳をすませた。


 音は、思ったよりも遠くの方だった。しかし、徐々に、徐々にこちらへと近付いて来ている。


 魔獣という線はないにしても獣だろうか、と思っていたリコリであったが、それが違うという確信に変わる。明らかに、人間が茂みをかき分けてくる音なのだ。


(誰)


 なおもどくどくと鳴り続ける胸をおさえながら、リコリはめまぐるしく考えた。


 村の猟師だろうか。だがそれなら、猟犬を連れている。犬笛の音色や犬の吠え声が聞こえてこないのはおかしい。何より、日も沈むだろう時にこんな奥深くまで立ち入ったりはしない。猟師が1番、森や山の危険性を知っている。


 ……自警団の誰かが見回りをしている? でもこんな村から大きく外れたところ、見回りルートになんてないはずだ。


 リコリがまだ家に戻っていないことが知れ渡って探しに来た可能性も考えたが、だったらリコリの名前を呼ぶだろうし、こんな鬱蒼として夕方という時にランプもなしに来るだろうか。しかも今聞こえる足音は、1人分だ。自警団なら、こういう時は絶対2人以上で行動するだろうに。


 耳に突き刺さるこの足音は、どうにも荒々しかった。まるで怒っているみたいだ。


(……まさか)


 リコリはザッと青ざめた。


 自警団が警戒しているのは、何も魔獣だけではない。村を守るように囲っているあの柵は、魔獣だけを警戒しているわけではない……。


(盗賊……?)


 こんなのどかなところに盗賊なんて、と信じていなかったが。父や母が若い頃にはいたものだと、聞いたことがある……。


(どうしよう)


 ここから逃げなきゃ。本能が警告していた。殺されるかもしれない。もしかしたら、生きたままひどい目に遭わされるかもしれない……。リコリでもそれは分かった。


 しかし、慌てて逃げ出してもすぐに追いつかれるのではないか。どうしようかと悩むリコリは、わずかに身動ぎした。


 大した動きではない。音だってほとんど立たなかった。


 ……しかし、茂みをかき分ける足音が、ピタリと止まった。


(……見ている)


 リコリは自分の心臓が冷たくなっていく気がした。指先が震える。木々の間に、人影が見えた。それが、こちらを、確かに見ている……。


 そうなれば当然、こちらへと大股で迫ってくる。


 リコリはぞっとした。無遠慮に茂みを踏み倒す音。乱暴な足取り。大きな手が、ぬっとこちらへと伸び……、


「……きゃあぁぁぁぁッ‼」


 それと同時、リコリは叫んでいた。人影が、わずかの間硬直した。その隙に逃げられればいいのに、そんなに素早くリコリの足は動いてくれない。結局座り込んだまま、めちゃくちゃに手足を動かした。


 人影は驚いたように両手で防ぐも、自分のそばに膝をついてリコリの手を掴もうとしてくる。


「いやっ、いやぁ‼」


 それはもう喉も限りに叫んだ。


「誰かっ、誰かぁ……‼」


 助けてくれ、と。みじめな絶叫をくり返した。……本当は分かってる。こんなところ、誰も来ないって。お父さんもお母さんも。他の村の人も。友達も。


 しかしそれでも涙と絶叫が止まらなかった。さっきまで、何もかもがどうでもいいとだらけていたくせに、今の自分は、何もかもがこわくて、無様にあがいている――……、


「……っ、おいリコリ俺だ、ロッカだっ‼」


(――……へ?)


 リコリは暴れるのをやめた。涙の浮かぶ目を、ぱちくりさせる。そうして、背けていた顔を、正面へと戻した。


「……え……?」


 鬱蒼とした、暗がりの中。幼なじみの顔が、そこにある。


「……ロッカ……?」


「だから、そう言ってるだろ」


 ロッカの方も、リコリほどではないが、肩で息をしていた。暴れるリコリを必死に抑えようとしながら、何度も話しかけていたらしい。


「まったく、他人(ひと)のこと引っ叩いたり蹴ったりしやがって」


 疲れた様子で、ロッカが言う。それと同時、両手首を包む熱が離れていく。


(――掴まれていた)


 この手を。ロッカが。強く。


「そんなに怖がって泣き叫ぶくらいなら、こんなところに1人で行くなよ」


 ため息を吐いたロッカが、自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。赤みがかった、薄茶色の髪。そのどこか乱暴な動作に合わせて、腰にある剣が、カチカチとわずかに音を散らす――……、


「……うそだ」


「は?」


 リコリはうわごとのように、つぶやいた。


「ロッカが、こんなところにいるわけ」


「リコリ?」


 だってここはあの花畑じゃない。姉が愛して、姉が愛されて、姉が殺されたあの花畑じゃない……、


「何で」


 ぶわりと、涙があふれた。


「何で迎えに来たの」


 非難する音色が、あふれた。


「今まで、あの花畑にしか迎えに来てくれなかったクセに……っ‼」


 ――今までずっと我慢していた気持ちが、あふれた。


「おいリコリ、落ち着けって」


 ロッカが手を伸ばした。リコリはばちんと弾き返した。今までずっと、掴まれるがままにしていた手を。初めて自分の意志で、拒絶した。


「触んないで」


 心底から、そう言った。ロッカの方も、今のでカチンときたらしい。


「おいリコリ、わがまま言ってないで」


「全部おねえちゃんの為なくせに‼」


 ロッカはあからさまに動揺したり、悲しそうな顔をしたりはしなかった。けれど、確かに彼にしては無防備な表情になったのを、リコリは見逃さなかった。


「あたしのこと心配してるフリするのは、おねえちゃんにできなかったことあたしにやってるだけのクセに。あたしのことなんて、ちっとも見てくれてないクセに‼」


 姉が亡くなった、あの日から。ロッカの行動原理は、全部姉に捧げている。それがどれだけ、リコリを苛立たせるか。


「あたし、知ってるんだから。ロッカが自警団を始めたのも、自警団をがんばってるのも、おねえちゃんの為だって」


 ロッカの腰に提げられた剣は、小さくカチカチと音を立てる。その度、リコリの心はさざなみが立つ。


「あたしのこと、おねえちゃんのお葬式の日から避けてるクセに。あたしがあの花畑に行った時だけ迎えに来て、お説教して、家まで連れて帰るのだって、おねえちゃんの為でしょ⁉」


 姉の葬式で、リコリ以外に泣かなかった人が1人だけいた。リコリはそれに、気付いていた。


 涙を見せずいじけた子どものように墓場を後にしたその少年は、その日から徐々に、別の少年へと変わっていった。


「おねえちゃんがいなくなった途端、あたしの幼なじみでいてくれなくなった‼」


 姉の葬式から数日後、リコリは村の中を歩くロッカを目にしていた。しかしリコリと目が合った途端、まるでリコリが見えていないかのように素通りされた。そんなロッカに、確かに裏切られたような気持ちになったのだ。


「おねえちゃんがいなくなった途端、無視されるあたしの気持ちが分かる? どんだけみじめだったか、分かる?」


 リコリは衝動的にロッカの襟ぐりを掴んでいた。


「でも村のみんなとはどんどん仲良くなって、勝手に大人ぶって、あたし1人しかいない時はいじけてるクセに、みんなのいるところではあたしに親切にして」


 あんなに大人にも、同年代の子どもにも懐かなかったロッカが、自分をいじめていたウィズ達や、大人とも友好な関係を築き出した。


「それまで当たり前にいた幼なじみが、おねえちゃんがいなくなった途端に無視してきて、今度は外面で接するようになってきたあたしの気持ちが分かる?」


 どんどん自分を置いていくようで、悔しくて、悲しくて。……寂しくて。


「本当に。――腹が立つ」


 涙も怒りもこみ上げる。


 死んでも口には出さない。リコリはずっと、ロッカに恋をしている。


 何がはじまりだったかなんて思い出せない。小さい女の子が、自分のそばにいる年上の男の子を好きになるのなんて、あまりにも自然なことだ。


「……ロッカが、おねえちゃんを、好きだから」


 姉が生きていて、例えばロッカと幸せに結ばれたとしたら。リコリの恋は、ありふれた失恋として、幕を閉じることができたのに。


「ずっと、ずっと、今も好きだから」


 そうした恨みもあるから、リコリの恋は余計にこじれていく。


 きっとリコリの中にもロッカの中にも、“名もなき花”がある。リコリはそれを捨てたくて捨てたくて、でも未だに捨てられずにいて。ロッカはいつか枯れてしまうそれを、失くしたくないって、必死に握り締めている。


 ロッカがそうやって姉への恋をいつまでも募らせるから、リコリは姉の死を、悲しめなかった。


「あたしはずっと、嫌な子でいるしかなかった」


 姉が心配しないようにと、村のみんなと関係を築いて。姉を忘れない為に、自警団に力に入れていることも。全部、全部、知っている。だってずっと見ていた。ずっと好きだったから。


「……ひどい妹でいるしか、なかった」


 蝶をつぶしてしまって、泣いたあの時。ロッカが「おれがおぶろうか」と言った時、リコリは姉に縋りついた。あの時は何故自分がそうしたのか分からなかったが、今なら分かる。


 ロッカに、姉を取られたくなかったからじゃない。姉に、ロッカを取られたくなかったからだ。


 だから自分が、姉を、ロッカから取った。


「おねえちゃんに嫌われてもしょうがないような、妹に」


 姉はきっと知らなかっただろう。蝶を失ったことを懺悔し、純粋に悲しむいい子だと思っていただろう。


 だがそんなんじゃない。そんなんじゃないのだ。


「あの花畑に行ったのだって、全部嫌がらせ」


 リコリは自嘲する。


「白い帽子も、おねえちゃんがあの花畑に行く時に、よく被ってたから、真似して。……ロッカが一瞬でもおねえちゃんと見間違えて、もうおねえちゃんはいないんだって、思い知ればいいって」


 あれは、リコリにとっての駄々だった。


「……本当はちっとも、おねえちゃんの為に行ってない。あの花畑になら、ロッカが迎えに来てくれるから、村に、連れて帰ってくれるから」


 あの瞬間だけは、自分を見てくれている気がしていた。けどそんな瞬間は一瞬だってない。分かっていたのに、春になるとあの花畑へと足が向かった。


「知ってる? 何であたしが吟遊詩人の詩にこだわったか」


 ……あぁ、これは言ったら確実に嫌われる。そう思っても、もう吐き出したくてたまらなかった。


「魔獣が恋した相手を喰らうからだよ」


 ロッカの肩が、ぴくりと揺れた。


「それで、そりゃおねえちゃんも食べられちゃうよねって納得するの。あたしと違って、みんなから好かれてて、ロッカなんか、おねえちゃんが亡くなって10年も経つのにまだ好きで。そんなおねえちゃんなら、魔獣だって、そりゃ大の苦手な真昼にこんなところまで来て、食べたくもなるよねって」


 自嘲する音色は、本当に、嫌な子そのものだった。そんな言葉が自分の口からあふれているという事実は、想像以上に、心臓に食い込んだ。


「……リコリ」


 平手打ちでも、食らわせられるのかと思った。しかしロッカから返ってきたのは、思ってたよりもずっと、静かに自分の名前を呼ぶ声で。


「ほらね。あたし、嫌な子でしょ?」


 まだ、あがいてしまう。


「リコリ」


「……ロッカのせいだよ」


 笑ってみるのに、涙があふれた。


「分かってるんだよ、本当は」


 笑ってみせても、自分はこんなに、かわいげがない。


「そんなことしたって、ロッカが、あたしと目を合わせてくれないことも」


 どん、どん、と拳でロッカの胸を叩く。


「ロッカが、やっぱりずっと、おねえちゃんを、好きなことも」


 こんなことしたって、きっとロッカには、痛くも痒くもない。どん、と叩く度、自分の心臓ばかりが痛くなる。


「でも、やっぱり、生きてるあたしより死んでるおねえちゃんの方が上なのは、きついんだよ」


 何度も、何度も。


「……あたしの幼なじみではいてよ」


 恨み言を。いくつもいくつも。


「……なかったことに、されたくなかった」


 思い出の中に、自分は入れてほしかった。


「……ロッカに、サリー達と仲良くしてって言われるのも、嫌だったよ」


 サリー達のことは嫌いじゃない。ただリコリの側が、距離を詰めることを躊躇していた。彼女達と、恋の話になるのがこわかった。


「おねえちゃんのことをずっと好きなのもむかつくけど、ロッカが、他の子とかかわってたり、他の子のこと言うのも、ずっと、嫌だった。でも1番、ロッカにサリー達と仲良くしろって言われるのが嫌だったんだよ」


 リコリは確かに、恋をしている。けれどそれを他人に話してはしゃぐことはできない。


 サリー達みたいに、色鮮やかな恋をこの胸に秘めていない。それはとても恨み言にまみれていて、嫉妬もたくさんしていて、家族の死すら悲しめないほどに歪んでいる。


 リコリの恋は、本当に、誰にも言えない恋だった。


「……おねえちゃんが、生きていれば、よかったのに」


 リコリは、ずっと胸の奥底に埋めていた思いを落っことしていた。誰にどうすることもできない、とても自分勝手な理由で作られた、その願いを。


 ただ1人その願いを聞き届けた幼なじみは、ただ黙って、そこにいた。


「ロッカのせいで、おねえちゃんの死を、悲しめなかった」


 それが何より、ロッカを憎ませる。


「……ロッカのせいだ……」


 こんな女の子に、なりたくはなかった。


 リコリの恋する人は――姉に恋をし続けるその人は――リコリの恨みも、願いも、全部。黙って聞いていた。


 安易に「ごめん」と謝らない。笑ってごまかしもしない。「確かに俺はアイヴォリーが好きだよ」と、バカ正直に言うこともない。それが余計に、リコリの中に恋を募らせた。


 静かに夜に染まりつつある、遥か頭上の空のように。もしくはそこに瞬き始める、小さな星々のように。

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