9章 あなたを騙る理由

第10話

村の外れにある、姉が大好きだったあの花畑には――花には、確かに名前があった。


 しかし今はもう、名前がない。奪われてしまった。


 お日様のようにあたたかく、可憐な少女を死に誘った不吉な花として。


 もう誰もその花の名を口にすることはなく。子へ孫へと伝えることはなく。


 そうしてリコリですらも、花の名を忘れてしまっている。






 ロッカにパンの入ったかごをぶつけ、逃げ出したリコリは。


最初、いつものようにその花畑に向かおうとしていた。


あの鮮やかな水色の花々で視界をいっぱいにして、あたたかな日差しを浴びて、涼やかな風とすっとする香りに身をゆだねていれば。


姉が、なぐさめてくれるような気がして。


……しかし。


(……行けない)


こんな気持ちでは、行けない。姉に会わせる顔なんてない。姉の愛した花畑に、足を踏み入れるのもおこがましい。


花畑へと向かっていた足は、突然、まわれ右をして。


(……どこでもいい)


 姉も、ロッカも来ないところ。そうであれば、どこだって。


 だからリコリは、水色の花びらが漂い始める方角に背を向けて、またひたすらに走った。






 そうして辿り着いたのは、日の光も届かない崖の麓。見上げれば薄雲が絶えず流れる青空が見えるが、そうしなければ今が朝なのか昼なのか、それとも夕方なのかも分からない。


 ゴツゴツとした岩肌に背を預けて、リコリは地面に腰を下ろした。あたり一面、鬱蒼とした薄暗さに包まれている。背中に当たる岩肌は冷たい。


「……何やってるんだろ、私」


 1人、こんなところで膝を抱えて。ここに来るまでの何もかも、全部子どもじみている。


 草に覆われた地面はやわらかく、手の届く位置に1輪の花が咲いているのが目に止まった。水色の、可憐な花。でもあの花畑のものではない。


 この花にはちゃんと、リコリが知らないだけで、名前がある。


「……いいね、君は。ちゃんと名前があって」


 まるで猫にでも話しかけるように、その花を覗き込んで、小さな妬みを口にする。それで涙でも出ればかわいげがあるのに、この花も、リコリも、1粒もこぼれ落ちてはこないのである。


「でもあの花にはね、もう名前がないの」


 どうにか泣けないものかと、さらに言葉を紡ぐ。


「君よりも、ずっと、ずっときれいで、いい匂いがして、風にだって乗ってくれるのに」


 みっともなく、足掻く。


「まぶしいお日様の下で、春にだけ咲くんだよ。今が特別だって教えてくれるみたいに」


 分かってる、こんなことしても無駄だって、


「あの花畑には、たくさん、思い出だってあるのに」


 ……姉との、思い出が。


 リコリは、吐き気のようなものがこみ上げてきて、咄嗟に自分の膝に顔を埋めた。きつく目を閉じて、ぐらぐらするその気持ちを1人孤独に堪える。


 今日に、今に始まったことじゃない。もうずっとこんな気持ちを、1人で抱え続けている。






よそからやって来た少年が、“ロッカ”という名前だと知った後。ロッカとすぐに仲良くなれたかというと、そんなことはなかった。


女の子2人の前で――何より、姉の前で――泣いたことが恥ずかしかったのか、それから毎日姉とリコリが教会裏に行くと、ふいっと顔を逸らされてしまった。しかもずっと木の上にいて、下りようともしない。


それでも姉は、気にしなかった。少しおしゃべりをして――ほとんど一方的に――、気が済むとリコリと手をつないで言うのだ。また来るわね、と。


それは、両親を崖崩れで突然亡くし、そのまま故郷に残るのも辛かろうとこの村に送り出されてしまった少年の心を、徐々に、徐々にほどいていった。ぶ厚い氷が春の日差しに晒されて、ゆっくり、ゆっくりと溶けていくように。


そうしていつだったか氷はすべて水になって流れていって、頑なに閉ざされていた花が開いた。


本当は両親との思い出がある故郷にいたかったのに、そこを追い出されてしまったつらさ。


ここにいたいと口に出せればよかったのに、その時の自分は両親を亡くしたことにいっぱいいっぱいで、口を開けなかった悔しさ。


この教会の神父様は優しくしてくれるのに、ずっと故郷の村のことを考えてしまうことへの罪悪感。


――だからいつも、怒っていたのね。


姉は言った。


――あなたはずっと、ずっと、自分に対して怒っていたのね……。


姉の言葉はいつだって、ロッカにとっては魔法そのもので。そうしてまた静かに泣くロッカと、そんな少年の隣に何も言わずに座っている姉は、とてもしっくりきて。






それからの日々は、確かに、幸せだった。1年とちょっとの、たったそれだけの間だったけれど。

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