8章 あなたを欺く理由

第9話

――紙、持って来たら。正解があるかもよ。


 あの少年からそう言われた、翌日。その日はいつも以上に天気が良かった。いつもはどんなに晴れていても薄い雲が空を泳いでいるのに、まっさらな青だけが広がっていて。その分、日の光がより一層まぶしく見えた。


「どうしたんだいアイヴォリー、ご機嫌じゃねぇか!」


「えぇ、とっても!」


 その日の姉は、本当にご機嫌だった。


 小さく鼻歌を歌い、リコリとつないでいる手をゆらゆらと揺らしている。もう片方の手に持っている紙を、胸にぎゅっと引き寄せて。


「やっと名前を教えてもらえるわ」


 そう言う姉は本当にうれしそうだ。


 今にもスキップしそうな姉に連れられ、今や通い慣れた教会裏へと向かうと、声が聞こえてきた。


(……?)


 しかしそれが不自然であることに、幼いリコリでさえも気が付いた。だってあの子はいつも1人でいる。


 姉も何かおかしいと気が付いたらしい。リコリを見下ろし、しーっと人差し指を立ててみせてから、そーっと、教会の壁に沿って歩き始める。


 1歩、1歩と近付くごとに、声が大きくなる。どう考えても1人だけの声じゃなかったし、聞き覚えのある声がいくつもするし、仲良く笑い合ってる風にも聞こえなかった。どきどきしながら、リコリは姉と一緒に教会裏を覗いた。


「お前、ほんとつまんねぇ!」


 近所の子だった。誰かをどんと突き飛ばしている。それが昨日やっと笑ってみせた少年だと気が付いて、リコリは息を呑んだ。


「叩いても、蹴っても、ずーっとだんまりかよ!」


「気持ち悪ぃ」


「これだからよそ者は不気味なんだよ!」


 少年を囲んでいるのは、リコリと姉がよく知っている男の子達だった。いつも姉に意地悪をしてくるのだが、そういえばここ最近、あまり姿を見なかった。


「……」


4,5人もの男の子に囲まれ、あっちにこっちに突き飛ばされても、少年は反応しなかった。昨日笑ったのがうそみたいに、その顔から表情が抜け落ちて、瞳も心なしか黒い絵の具を一滴垂らしたように暗く見えた。


「やっぱこいつ、本当は人間のふりした魔獣なんじゃねぇの⁉」


 とんでもない言葉まで上がり、思わずリコリはえっと声を上げてしまっていた。それが思ったよりも大きな声で、男の子達が一斉にこちらをふり返ってしまった。


「何だ、アイヴォリーとリコリかよ」


「……」


 ウィズが、あからさまに安堵した様子で言った。どうしようとわたわたするリコリの手を握って、姉が無言で壁から姿を見せた。自然、リコリも一緒にみんなの前に立つことになる。


 リコリはウィズ達から姉を守るべく、姉の前に立とうとして……、


「――何をしているのかしら」


 姉の静かな問いかけに、ビクッと固まることとなった。そうして、本能的に姉の視界に入らない、姉の後ろに引き下がった。


「え? 何って、こいつだよ、こいつ」


 リコリほど姉のことを理解できていないウィズが、勝ち誇った顔で少年に視線を投げた。


「おれ達が遊んでやるって言ってんのに、無視するから」


「つまんねぇんだよって、教えてやってるんだ」


「根なし草のロッカ、故郷から追い出されたロッカ、ってな!」


「……ッ‼」


 途端、今まで黙っていたロッカの顔に、カッと血が上った。男の子の1人に飛びかかる。


「うわっ、何だこいつ!」


「お前、やる気か⁉」


 しかし少年の方が分が悪かった。飛びかかられた1人は転倒したが、他の男の子達が一斉に少年を押さえてしまう。


「よそ者のクセに、調子に乗りやがって……!」


「……」


 みんなに羽交い絞めにされても、少年はまるで怯まなかった。さっきまで日の光すら反射しそうになかった暗い瞳が、今や鋭くぎらぎらと光って、男の子達を見据えている。ぜぇぜぇと息を乱しているのが、さらに凄みを増していた。


 怪我をした猟犬が、それでもなお牙を剥き出しにして唸り声を上げているような。


(あ……!)


 しかしそれに目を奪われていられたのは、リコリにとって一瞬のことだった。だってもっと恐ろしいことが起きようとしていたから。


 お日様色の髪が、ふわっと揺れて、彼らの元へと向かっていく。


 ……そうして、彼女は。今や静かに、しかし誰よりも怒っているその少女は。


「――ねぇ、もうそのへんにしておいたらどうかしら」


 まるでお茶にでも誘うかのような軽やかさで、微笑んだ。


 いつの間にやら近くに来ていた姉に、ウィズ達は一瞬驚いたのち、むっとした顔を作った。


「何だよ、女は黙ってろよ」


「いいえ黙らないわ」


 にっこりとしたまま、姉がきっぱりと言い切る。


「よそ者ロッカ、女に守られてやんの、だっせぇ」


「あら、ちっともださくなんてないわ」


 少年の方に向けられた嘲笑も、姉は明るく拾い上げた。


「ほら、だから手を離してね」


 姉が歩み寄った時点で、何人かはそちらに気を取られて、手を離していた。しかしまだ、1人2人が少年を押さえつけたままだった。その手を、ひとつひとつ、姉は丁寧に掴んでそっと放していく。姉に手を触れられた男の子達が、顔を赤くした。


 姉は、相変わらず愛らしく微笑んだまま、するっと少年と、ロッカ達の間に入り込んだ。姉がロッカを庇う形になっている。


「な、何だよ、そんなやつの味方すんのかよ」


「えぇ、するわ」


 姉はにっこりと微笑んだ。


「今後もう2度と、彼に意地悪しないでね」


「なっ、関係ないだろ! 女のくせに」


「そ、そうだよ! 弱いくせに!」


「えぇそうね。確かに弱いわ。でもやめてね。……さもないと」


 姉が笑みを深めた。


「泣くわ」


「……はぁ?」


 思いがけない言葉に、男の子達がぽかんとした。


「今すぐ、ここで、大声で泣いてやるわ」


「……」


 男の子達が、言葉を失っている。姉の後ろにいる少年も、何言ってんだこいつ、という顔になっている。


「わたし、いつも、とってもいい子なの。お家でも、村でも」


「……」


「だから今ここで私が大泣きしたら、大人の人が来て、どうしたのって、心配してくれるわ」


 姉が今日の中で、1番愛らしい笑顔になった。


「そこでわたしがあることないこと言ったら……、どうなるかしら?」






「けが、大丈夫?」


 姉が本気で涙を見せたので、男の子達が青ざめて逃げていってすぐ。とっとと涙をぬぐった姉が、少年を慌ててふり返った。


「……お前、見た目に似合わずえげつないやり方するんだな」


「いい子でいるとこういう時お得でいいわ」


 姉はにっこりと笑い返した。少年が、はぁ、とため息を吐いて、頭をかいた。姉が、リコリに手招きする。もう怒ってない、と理解して、リコリは姉の元へと駆け寄った。やっぱりいつもの姉が1番いい。


「……で、お前は姉貴が怒ってるって分かったから近付かなかったわけか」


 少年がこちらを見て、リコリはこくり、と神妙にうなずいた。


「1番怒らせちゃいけないヤツってことかよ……」


 少年がそうぼやいた後は、しばらく3人とも、無言だった。そっと声をかけたのは、姉だった。


「……ロッカって、名前なのね」


「……」


 少年が――ロッカが、そっと顔を逸らした。


「残念。わたしとリコリが予想した中にはなかったわ」


 姉が、ずっと握り締めていた紙を広げてみせる。それでもロッカは、何も言わない。


「……あなたの口から、最初に聞きたかったな」


 それまでの笑顔が、やわらかくほどけて。寂しそうな声が、ぽつりと落ちた。けれどもそれすらも、優しくて。


「……っ」


 ロッカが、震えた息を漏らした。どうしたのだろうとその顔を見たリコリは、驚いた。顔を背けているから、表情は見えない。けれどロッカが、確かに泣いていた。


 姉は何も言わず、ただそこにいた。そっとリコリの手を握るので、リコリも握り返す。そうして、どこか落ち着かない思いで、リコリなりにじっとしていた。


 ロッカの静かに泣く音だけが、おだやかな静寂を揺らしていた。

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