ラフィットと迎える冬の夢想
ラフィットと迎える冬の夢想
篠田睦(しのだむつ)は途方もない価値観の変容に、ひとり悩んでいた。
高校三年の冬――。
学校推薦で進学先の大学も早々に決まり、穏やかに翌年のカレンダーを壁にかけ替える予定だった。
自宅マンションが失火によって全焼したのは、錦糸町で超大盛ラーメンをにんにくましましで食べて帰ってきたときのことだった。腹パンで口から異臭を放つ睦は、大量の消防車に囲まれて放水を受ける自宅マンションを見上げ、なにかの天罰が下ったのだと思った。
両親は仕事で外出しており、姉は地方で一人暮らしをしている。
幸いに家族でけが人は出なかったが、衣類や家具などはすべて焼けた。
原因は低層階に住む高齢者の寝たばこらしい。
鼻に酸素吸引機を入れなくてはいけない高齢者が、機械をつけたままうとうとと眠り、おまけにタバコまで吸って酸素に引火して燃えた……という理解しがたい出来事だった。警察と消防から話を聞いて「酸素吸引しなくちゃいけないのに、タバコ吸ってるの?」「どうしてそれをつけたまま眠って、高濃度の酸素に引火しちゃうの?」というたくさんの疑問が浮かんだ。
火をだした当人は、残念ながら亡くなった。
十一月の、錦糸町でラーメンを食った日……そんなことがあって、睦は家を失った。
瀬谷未海(せやみみ)に対する感情で苦悩し始めたのは、遠因としては自宅の火災が原因なのだ。
まず未海(みみ)という冗談っぽい名前が、耳に残る。
彼女は学校でも有名な女の子だった。高校一年の時から、その名前の影響もあって睦は彼女を知っていた。
普通の女の子よりも大きな身体をして、髪の毛もごわごわとしている。
少し匂いがくさくて、喋っている言葉もうまく聞き取れない。
陰キャの典型のような子で、友達が少なく、なにかとネタにされている。
睦が彼女と同じクラスになったのは今年からで、これまでの二年間は『うわさ』で名前を耳にすることが主だった。廊下ですれ違ったときに「あれが未海か」と(名前が独特なので、つい未海と犬猫の名前のように諳んじてしまう)振り返る。
たしかに噂通りで、活発なグループの女の子や野球部やサッカー部の男から笑いものにされているだけのことはあった。
睦は遠巻きに未海の存在を認知しながらも、交わるきっかけも動機もない。
そんな未海の事で煩悶と悩んでしまうことになるとは、睦は夢にも思っていなかった。
親戚の殿崎大樹(とのさきだいき)の家に世話になったのは、家を焼け出されたからだ。
六本木のディンクス向けマンションに一人で住んでいた殿崎は、睦の境遇を耳にするなり。
「どうです、睦ひとりならうちに置けますけど」
そう言ってくれた。
両親と別れるのは少し抵抗があったが、日常に復帰する最短経路のような気がした。
通学先を変えず、平穏を装って日常に復帰する。
そうした理由から、睦は六本木の殿崎邸に転がり込んだ。
フリーランスのコンサルタント業をしている殿崎は、一種のお金持ちだった。
年齢は三十代の半ばで、親戚一同のなかでも「ちょっと変わっている」と言われている。
彼は仕事に出ると不定期に帰宅して、気が付くと会社に消えている。
カギを渡され「好きに使っていいから」と言われた。
オレンジ色の外車で出勤し、青いスーツを着て、外国の香水の匂いをさせている。
両親とは全く違う人種だ。
そんな殿崎との生活が始まり、やっと慣れ始めた二週間目のころ――。
大きな冷蔵庫からいつも通り朝食を出して、レンジで温める。
昨晩に夜更かしをしてしまったせいで意識がふわふわとしていた。
殿崎が勧めてくれたオレゴン州のブルーベリージュースをコップに注いで、レンジで温めた昨晩の残り物を食べる。
そのとき、違和感に気づいた。
ブルーベリージュースが変だ。
色味が違うし、匂いも味も、違う。
ぐびっと飲んでしまったあとだったので、どうしようもなかった。
「うわ、これはまずいかもしれない!」
運悪く、冷蔵庫のなかにはブルーベリージュースのとなりにワインが入っていた。
どうしてこんなところに、こんなものが……と思った。
きっと昨晩に殿崎が飲んで冷蔵庫に入れたのだろう。ワインセラーがキッチンの向こうにあるのに、なぜ冷蔵庫に入れるのだろうか。
すさまじく読みにくい外国語で「ラフィット・ロートシルト」と書かれている。何度も言葉に詰まりながら、ワインの名を口にして「失敗した……」と悔やんだ。
ごっくんと飲んでしまっているから、もう後戻りなんて出来ないわけで。
次第に身体が熱くなって、ふわふわしてきた。
それでも学校を休むわけにはいかない。
睦はふらふらな足取りで学校へと向かった。
廊下も教室も授業もぐにゃりと曲がっている。
お酒ってこんなにヤバイものなんだ。
初めて飲んだものだから、驚きよりも狼狽の方が強くて、早く酔いという嵐が過ぎ去ってほしいと願うばかりだった。
そうした歪んだ空間のなかで、未海の姿が目に入った。
目立つのだ、彼女は。
しかし、素面のときに感じる未海の違和感が、ない。
むしろ未海が途方もないほどに魅力的な女性に見えた。
身体つきが大きく、ぎゅっと抱きしめたい。
髪の毛で隠れているが、ふっくらとした横顔の頬は柔らかそうに見えるし、なによりも肌の色艶が綺麗だった。
ほかのクラスメイトの女の子と見比べてみても、未海は色白でキメが細かくて、触れれば深く受け入れてくれるような奥深さを予感させる。それでいてしっとりとした質感を含んでいる気がしたのだ。
制服の上から彼女に『抱きしめてもらいたい』と強く思った。
冷静に考えれば、睦よりも未海の方が身長が大きい。もちろん、横幅だって大きい。
そんな未海にぎゅっとされたら……どんなに心地よく包み込まれるだろうか。
また、彼女の匂いも気になった。
男子諸君は彼女の匂いを面白おかしく形容するが、誤って飲んでしまったラフィット・ロートシルトだって独特な香りがした。
それは顔を顰めたくなるような匂いであったのに、癖になる。
廊下ですれ違ったときの未海から感じる匂いも、同じものではないが『癖になる』もののように思えた。つまり、ちゃんと嗅いで、ちゃんと確かめたい。
あの鬱蒼とした髪の毛のなかに鼻を突っ込んで、しっかりと彼女の匂いを確かめてみたいと強く思った。
睦がジッと未海を見つめていたものだから、彼女が視線を感じて周囲に目を配った。
こちらと視線がぶつかりはしなかったが、あの子の眼鏡をかけた鼻頭にはうっすらとそばかすのようなものが浮いていて、それもまた『新たな気づき』になった。
考えてみれば未海の顔をしっかりと正面から見たことはなかった。
前髪を暗幕のようにべっとりと額に垂らしているせいで、うまく彼女の顔を認識できていない。出来る事なら、手のひらで額を露出するように髪の毛を持ち上げて、ちゃんと彼女の顔を確認して見たかった。
退屈な一時間目の数学の授業は、ほぼ聞いていなかった。
誤ってお酒を飲んでしまったせいだ。
こんな『バカげた考え』に至ったのは、ワインのせいなのだ。
そう思いながらも、ぎゅっと拳を握って未海の横顔を盗み見ていた。
事態は悪い方向へと進んでいる。
昼休みになり、放課後になって……意識が明瞭化してきたにもかかわらず、未海に対する印象は薄れなかった。
翌日も、また翌日も……未海の姿を眼で追ってしまう。
廊下ですれ違ったとき、彼女からふんわりと漂う『未海の匂い』に足を止め、振り返ってしまう。あれは柔軟剤でもシャンプーの匂いでもない。未海の匂いだ。
それをクラスメイト達は「くさい」とか「やっばい」と言うが……睦はそう思わなかった。
むしろ、ワインを嗜んだことのない、『本当の豊潤さを知らない子どもの感想』とこれまでの概念を蹴散らしてしまっていた。
身体の大きな未海は、いつも申し訳なさそうにしている。まるで自分が存在していることが、なにかの間違えなのです、と釈明しているように。
まったく、そんなことはないのに!
睦は煩悶として、頭を抱えたくなった。
どうして自分は未海の素晴らしい魅力に、いまさらに気づいてしまったのだろうか。
彼女は運動はまるでダメであったが、成績は良い。
成績上位ということも『悪口』や『妬み』の原因になっているのかもしれない。
友達も少なく、口数も少なく、笑っているところを見たことがない。
睦は彼女が笑う顔が見てみたいと思った。
なによりも(当初から思っていたことだが)ぎゅっとしてもらいたかった。
ただ、未海に声を掛けたり仲良くすることは、学校での立場を危うくする。
睦はまわりの友達から『悪趣味だ』と言われるだろうし、下手をすれば後ろ指を指されるかもしれない。
未海の魅力に気づき、煩悶としていた日々のなかで……そればかりが気になってしまった。
自分の弱いところだ。
この弱さを克服しなくちゃいけない。
睦は十二月になって、やっと決心がついた。
そのころには、世界中から批判されようとも……未海と仲良くなりたかった。
冷静に考えれば、自分は悪質なストーカーに変容しているのではないかと思えた。
冷たい雨の降る十二月の中旬に、睦は彼女に声を掛けた。
突然、声を掛けられたせいで未海は怯えていた。
どう話していいのかわからず「あの、ちょっと話したいことがあるから、あっちに行かない?」と誘った。
未海は悪質ないたずらを仕掛けられていると警戒して、ふるふると顔を振って拒絶した。
睦はどうしようか迷った。
まわりの女の子が「え、なにあれ。なにしてるの?」とひそひそ話しているのが聞こえた。
「頼みたいことがあって。それと相談したいことが。だから、ちょっと来てほしいんだ」
そこまで睦が言うと未海は俯き加減にしばらく無言を貫いてから、立ち上がった。
目の前に立たれると彼女は本当に大きかった。
教室から少し離れた空室で、睦は彼女と向かい合った。
「話したいことって、なに?」
距離を置いているにもかかわらず、未海の声と匂いは明確に睦へ届いていた。
あの、その、えっと……と睦は言葉に詰まる。
思いはあるのに、言葉が出てこない。
このころになると睦は理解していた。
自分が、ある種の好意を未海に抱いていることを。
好意を持つとこんなにも思考がばらばらに分裂して、冷静に物事を考えられなくなってしまうのかと自分でも驚いた。
とにかく未海に伝えなくてはいけない。
「あのっ、失礼なことを言っているのはわかるんだけど、聞いてほしいんだ」
先に謝った。
彼女は困った顔で小首をかしげる。身体は大きいのに、所作は小動物みたいで可愛い。
「ぼ、僕を、そのぎゅっと抱きしめてほしいんだ」
未海は「えっ……」と驚いて息を飲んだ。
「いやっ、あの、その……身体が大きい女の子って瀬谷さんしかいなくって。その瀬谷さんにぎゅっとしてもらいたくって――」
言いながら、混乱してしまう。
未海はふるふると顔を振る。
ここまで来て「そっか。ごめん」で帰るわけにはいかない。
睦は「ちょっとでいいんで!」と一歩下がって膝を付き、額を床に押し付けた。
完璧な土下座だった。
すると未海は「あ、あの……」と面食らったような声を出した。
神に祈るような気持ちで睦は土下座を続ける。
同級生に見られたら、どんなことになるだろうか。
そんな事すら考えられないほど、いまは願った。
未海にぎゅっとしてもらいたい。
どれぐらいの時間が経ったのだろうか。
未海が「ちょっとだけなら……」と言ったとき、睦は驚きのあまり顔をあげた。
「ホントに?」
うん、と未海は頷いて、おずおずと両手を控えめに広げて顔を背けている。
睦はとんでもない幸福のなかで「ありがとう」と答えながら、ゆっくりと彼女の腕のなかに身を沈めた。
予想した通り、強烈な未海の匂いがした。
シャンプーでも芳香剤でも柔軟剤でもない、未海という女の子の匂い。
しっとりとしていて、制服の上からでもわかる柔らかい未海の質感――。
ちょうど胸元のあたりに睦は顔を埋めて、ぎゅっと背中に手を廻して深く息を吸う。
未海が当惑の声を漏らしているが、もう聞こえてなんていない。
温かい未海の体温が、制服越しに感じる。
こんなに心地いいんだ。
未海の胸元に顔を押し付けるようにして、右へ左へと頬を擦りつけた。
それでも彼女は断片的な否定の声を漏らすばかりで、叫んだり、引き離したりはしなかった。
優しい人なのだ、未海は。
それに誰も気づかない。
だから、睦は気づいた。
ラフィット・ロートシルトが見せてくれた幻想は、現実の真理を示唆していたのかもしれない。
ただ、睦は知っていた。
家が燃えて、母親にしばらく会えなくて、寂しさをなにかで埋めたかっただけなのだと。
未海は少しだけ睦の頭をそっと撫でてから。
「ちょっと、長いんだけど」
そう苦言を呈した。
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