余分な三時間
余分な三時間
「ちょっと休憩してくるから」
八重洲のオフィス街で僕はそう言って人の気配がぐうっと減ったエレベーターホールへ降りた。警備員の黙礼に顎を引いて応える。
ぐうっと伸びるエスカレーターを駆け下りて、事前に予約をしていたネットカフェに駆け込んだ。受付のお兄ちゃんが怪訝そうな顔で「どーも」とぶっきらぼうな声を出した。
「予約した部屋なんだけど」
「鍵、どーぞ」
立ち上がりもせずに応対する若いお兄ちゃんに、僕は文句も言わずカギを受け取る。
部屋に入りパソコンをつける。電気はつけない。
狭い部屋で清掃したばかりなのか、アルコールのツンとする匂いが残っていた。
腕時計を見る。
六時五十八分――。
そうして、七時になる。
パソコンの画面を見つめていると……ぷつんと意識が途切れた。
* *
白い部屋――。
図書館のような大きなテーブルとイス。そしてパソコン。
僕は椅子に座り、パソコンに腕を伸ばす。
やりかけの仕事が画面上に浮かび上がってきた。
僕は集中力が切れないうちに、再び作業に戻った。
カタカタカタ……。
作業をしているとはす向かいの席に人が座る気配があった。
桃井涼子はむっつりとした表情で僕を見てから「ハァ……」とため息をついた。
「話しかけたら、怒る?」
「怒りはしないけど、忙しい。明日までに仕上げなくちゃいけないものがある」
「また、会議?」
「二十六階の会議なんだ」
「その、二十六階とか二十四階とか、やめたら。そんなに階数って重要なの?」
重要だ、と答えようと思って、口を噤んだ。
涼子はどう思っているかわからないが、僕にとって二十四階と二十六階は大きな違いがある。
僕が勤めているのは全世界に展開している日本のエネルギー関連企業の本社で、たぶん名前を言えば誰しもが聞いたことがある。
新卒のときには地方勤務、二年目からは都市部、四年目から首都圏に配置され、六年目で東京店舗に配置となった。補佐職ではあるが役職がついた。
営業として派手な成績は残せなかった(怪物的な営業マンが多くいた)が、粘り強い営業を買われて七年間は営業の現場で仕事をした。
そのあとは八重洲の本社の十二階で営業企画の仕事をして、いまは営業戦略部の一員として二十四階で勤務している。二十六階は部長職を始め、取締役が勤務しているフロアだ。
つまらなそうに涼子は言う。
「おカネちょうだい」
「送金してるだろ」
「もっと」
ぴたりと手が止まる。
涼子を睨むと彼女は「なに、マジになってるの。冗談だし」と顔を背けた。
彼女には五万円を商品券に変えて送っている。東北某県の私書箱で、きっと彼女はそこへ車でやってきて商品券を手にして帰っていくのだろう。
「いいよね、エリートさんって。楽しそうで」
「そう見えるか?」
「少なくとも『時間』が欲しくてたまらないって感じ」
彼女はそう言って机に身を伏した。
同い年の涼子は、今年で三十五歳になるはずだ。
「時間は大切じゃないのか。涼子にとっても」
「大切じゃない。むしろ『いま』の時間がいらない」
ぴたりと僕は作業が止まる。
「やめたいのか」
「かもしんない」
涼子は「ハァ……」と大きなため息をついて「わたしにはさ、十分すぎる三時間なんだよね」と顔を振る。
「僕にとっては貴重な三時間だ」
「知ってる。省吾はさ、昔からそうだったもんね」
彼女はそう言ってからスマホを取り出して、ぴこぴこ触りだした。なにかゲームをやっているらしかった。
僕は涼子をじっと見つめながら。
「子どもはどうしたんだ。なにか子どものために時間を使ったらどうだ?」
この指摘に涼子は肩を竦めるだけで、何も答えない。
たしか、女の子がひとりいたはずだ。
「バハムート。時の番人……。いいよね、チョコボみたいな言い方すれば、しっくりくるけど……実際のところは退屈なだけ」
「貴重な時間に変わりはない。僕は、この三時間がなかったら、ここまで頑張れなかった。たぶん営業職も二年でクビになっていたし、いまの仕事を勝ち取ることも出来なかった」
涼子はスマホを弄びながら。
「一日に三時間が追加されてるわたしたち、か。たしかに試験勉強とかのときは役立ったよ。ほかのみんなより一日が三時間も長いんだもの。なにより、省吾がいてくれたからわかんない問題は教えてもらえたし」
「なら有意義な時間だろう?」
彼女の言う通り、僕らは互いが午後七時から三時間を追加で共有することができる。
思い返せば十六歳のころ……。
パソコンの前で意識を失うように寝落ちをしたとき、この白い空間で涼子と出会った。
三時間が経つと午後七時に戻る。
つまり、午後七時に時空が歪んだ空間に放り込まれ、三時間を経る。そうして三時間が満了すると午後七時に戻るというわけだ。
一日が二十七時間――。
この三時間があるから、僕は『タフだ』と言われる。
午後七時に仕事を終えて三時間ほど飲む――。午後十時。
それが僕にとっては三時間も遊んだとしても、まだ午後七時なのだ。
「わたしがいなくなったら、省吾は困るでしょ?」
「困る」
「なら、話聞いてくれる? 否定しないで、聞いてくれる?」
企画書を作りながら「ああ」と短く答えた。
この空間は僕が望み、涼子が望まないと形成されない。お互いがバハムートで、お互いが時の番人であるのだ。
「雪子がね、死んだの」
ぴくりと手が止まった。
「どうして」
「ひみつ」
ひひっ、と彼女は壊れたように笑った。スマホをいじりながら、彼女は自分の娘が死んだことを告白したのだ。
嫌な予感がした。
「旦那はどうした?」
「知らない」
「雪子が死んだって、どうして?」
「だから、言いたくない」
そこまで言って彼女は少し怒った様子で「否定しないでって言ったじゃん!」と声を荒げる。最近は情緒が不安定になっていると思ったが……娘が原因だったのか。
「雪子ちゃんが死んだかもしれない。それで、どうしたの?」
ううん、と彼女は顔を振って。
「死んだの。かもしれないじゃない。死んだ」
「わかった、死んだんだね」
「でね、わたしも死のうと思ってる」
「でも、涼子は生きてる」
うん、と彼女は頷いて「時の番人だから。いちおう、省吾に言っておかないといけないと思ったから」と言葉を続けた。
僕は企画書に視線を戻し、作業を進めながら。
「死ぬな。死んでもらっては困る」
「この空間がなくなるから?」
「涼子がいなくなると困るからだ」
つまり、この三時間が失われるのが、僕にとっては困るのだ。
涼子は不服そうに「ふんっ」と笑ってから「やっぱ時間じゃん」と唇を尖らせる。
僕はぱたんとパソコンを閉じて、涼子に視線をぶつける。
この子は昔から、不安定だった。
家庭環境も、学校での生活も、なにより精神的な弱さがあった。
この世界で僕らは出会ったが、現実の世界で言葉を交わしたことはない。
どの辺に住んでいるのか、電話番号はいくつなのか……。
そういった物事はお互いに把握はしているが、実際にボタンをプッシュしたことはない。
彼女が言うように、僕らは『この歪な空間の、番人』なのだ。
「僕たちは十六歳でここで出会っただろ。かれこれ二十年ちかい付き合いだ。ケンカもしたし、ここで童貞を卒業した。覚えてるだろ」
「覚えてるよ。ホントにセックスしてるのかどうかわかんなかったけど、無我夢中で抱いてくれたよね。忘れるわけないじゃん」
「つまり、僕らはそういう関係だ。好むと好まざるに寄らず、同じ余分な三時間を日々過ごした。試験勉強したり、愚痴を言いあったり、ケンカしたり、いろいろしたわけだ」
涼子は鋭く僕を見て。
「だから、死んでやろうと思う」
そこで言葉を切って、彼女は自嘲気味に笑う。
「あんたはいつも正しいよ。旦那と結婚するって言ったときもめちゃくちゃ反対した。雪子がおなかにいるって言ったら……しぶしぶ認めてくれた。でもさ、結局は籍なんて入れなかったし、あいつはまともな男なんかじゃなかった」
言葉を詰まらせて、彼女は言ってから。
「あんたの言う通りにしときゃよかったよ!」
悲痛な声を絞り出した。
彼女は立ち上がって、ぐるりとテーブルを迂回するようにしてこちらへ近づこうとして……立ち止まった。
「いいんだぞ。こっちに来ても」
「行かないよ。約束じゃん」
そう、僕らは硬く約束していた。
この余分な三時間の間に狂おしく愛し合った過去を繰り返さないために……。
僕らは互いのテリトリーには侵入しないと硬く約束しあった。
だから現実世界でも会いに行かないし、この空間でも肌を触れることはやめようと誓った。
僕らはただ、余分な三時間を得るためだけにここで再会する。
涼子は立ったまま、涙を流して。
「雪子、死んじゃったんだよ。わたし、どうしたらいいのか、わかんない……」
彼女はそう言って、異様な動揺を見せ始めた。
僕はあらかたを理解した。
この子が、こうして混乱しているときは、本当にまずいことが起こっているときだ。
過去にもあった。
だから、助けてあげなくちゃいけなかった。
三時間を守るために。
でも、本当は――?
涼子は言った。
「最初っから、あんたがわたしの傍にいてくれたら……こんなことにはなんなかったのに!」
「雪子ちゃんはどこにいる?」
「押し入れにいる」
やっぱりか。
いろいろなことを考えた。
企画書の内容を考え、目の前で涙を流している涼子の境遇を考える。
僕は意を決する。
遅きに失したことは、理解して、反省して、決断する。
「いま、どこに住んでる?」
彼女はハッとして「岩手県の……」と住所を言った。
メモを取る必要なんてない。頭にスッと記憶できる。
余分な三時間が終わる。
気が付くと暗いネットカフェの部屋のなかで、じっと座り込んでいた。
時計は午後七時……。
僕は荷物を手にしてカウンターに退出の手続きをする。
受付の兄さんが「なにしに来てるの?」と十五分未満の退店は料金は頂きません、の案内を示す。
僕はいつもの通り、三十分を利用した料金を払い、店を出た。
会社の後輩に電話を掛ける。
「今日は帰る。明日の会議も出られないかもしれない」
この一言は出世競争からドロップアウトする宣言に近かった。
部長や取締役の出席する重要な会議に『欠席』するというのだから。
後輩は「えっ、なんの冗談ですか」と取り合わなかったので、そのまま電話を切って東京駅に向かった。
岩手県に向かう新幹線に乗り、涼子の住む家に着いたのは……その日の深夜だった。
ドアチャイムを一回、ピンポンと鳴らす。誰も出てこない。
リビングから灯りは漏れている。
ピンポン、ピンポン……またピンポンと幾度も鳴らした。
鼓動が早まった。
学生のとき、雪子に初めて触れたときぐらい胸が早まっていた。けれども、その時とは違う緊張感が、いまはあった。
古びた戸建ての玄関が開く。
涙で目を赤くした涼子が「来てくれたんだ……」と現れた。
そこには、あの空間で会う彼女と変わらない涼子がいた。
変わりなかったのだが……。
「ホントに来てくれたんだ」
「雪子ちゃんは?」
「いるよ、ほら」
来訪者の様子をうかがいに、雪子が恐る恐る廊下から顔を出した。
「えっ、生きてるじゃないか」
「うそついた。来てほしかったから」
「なんだよ……それ」
「もう、あいつの傍で生きていたくないの。助けてよ、省吾……」
涼子の身勝手な主張にたじろいだが……三時間を与えてくれる相手なのだから、これぐらいの責任はとるべきなのだろう。
僕は言う。
「ホッとした。雪子ちゃんが無事だったから、ホントよかった」
東京へ行こう。
一緒に暮らそう。
くらくらしていて、なんと言ったのかは覚えていないが……抱きついてきた涼子の体温は――遠い昔に、あの空間で抱き合ったときのままだった。
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