第3話 幸せな音

「愛ちゃん……」

唯は湯船の中で、愛ちゃんが出ていったドアを見つめていた。オレンジ色の照明が、湯気を帯びた浴室をぼんやりと照らしている。ただでさえ照れくさかったのに、突然の出来事に唯の頭の中は真っ白になった。

怒られた……。

その一言が、ぐるぐると頭の中を巡る。胸が締め付けられるように痛くて、さっきまで感じていたラベンダーの香りも、湯の温かさも、何もかもがどうでもよくなった。

「うそ……」

唯は小さくつぶやいた。愛ちゃんが、本当に一緒に風呂に入ってくれなくなる?話もしてくれなくなる?そんなの、嫌だ。

慌てて湯船から出て、身体を洗い流し、タオルを巻いて浴室を出た。愛ちゃんはもう、リビングのほうへ行ってしまったのだろうか。

脱衣所の扉を開けると、そこには、愛ちゃんがタオルで髪を拭きながら立っていた。

「愛ちゃん……」

唯の声は震えていた。愛ちゃんは、唯の顔を見て、きゅっと唇を噛んだ。その表情は、怒っているというより、どこか寂しそうに見えた。

「ごめんね、唯。急に怒鳴ったりして」

愛ちゃんが、先に謝ってくれた。

「ち、違うよ!愛ちゃんは悪くない!私が……私がちゃんと話聞いてなかったから」

唯は、愛ちゃんの裸を前にした自分の態度を、必死にごまかそうとした。でも、それが愛ちゃんにはバレバレだった。

「本当に?唯は、私が嫌いになったの?」

愛ちゃんの瞳が、潤んでいるように見えた。その大きな瞳に、唯の姿が映っている。

「ちがっ、違うよ!嫌いなわけない!大好きだよ!」

思わず口から出た言葉に、唯はハッとした。そんなこと、面と向かって言ったことなんて一度もなかったのに。

愛ちゃんは、一瞬ぽかんとした表情になった後、ふわりと笑った。いつもの、優しい笑顔だった。

「なんだ、よかった」

愛ちゃんは唯の頭を、ぐしゃぐしゃっと撫でた。

「なんか、唯といると、私、子供みたいになっちゃうんだよね。昔から、唯には良いお姉さんでいなきゃって、ずっと思ってたのに」

「え……?」

「唯はいつも、私のこと、すごいって言ってくれてたから」

愛ちゃんの言葉に、唯は胸が熱くなった。憧れの愛ちゃんが、自分をそんな風に思ってくれていたなんて。

「唯、お風呂入ってるとき、目が泳いでたよ。まさか、私の裸が嫌だった?」

愛ちゃんは、からかうような口調でそう言った。唯は顔を真っ赤にして、俯いた。

「ちがっ、そうじゃなくて……!」

「じゃあ、なんなの?」

愛ちゃんは唯の顔を覗き込むようにして、小首を傾げた。その瞳は、もう怒りも寂しさもなかった。ただ、優しさと、少しの好奇心に満ちていた。

「あの……ラベンダーの色が、なんだか、えっちっぽかったから……」

蚊の鳴くような声で、唯はそう答えた。

「え?」

愛ちゃんは、一瞬固まった後、声を出して笑った。脱衣所に、愛ちゃんの明るい笑い声が響き渡る。

「唯って、そういうこと考えるんだ。変なの」

そう言って、愛ちゃんは唯の背中を、ぽん、と叩いた。

「明日から、入浴剤は私が選んであげる。唯が照れない色にしようね」

唯は、愛ちゃんの言葉にまた顔が熱くなった。

「ち、違うし!そうじゃなくて……」

「はいはい、わかったから」

愛ちゃんは、唯の頭をもう一度撫でて、先に脱衣所を出ていった。

一人になった唯は、湯気でぼやけた鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。そこには、赤くなった顔と、さっきまで泣きそうだったのに、今はなんだか嬉しそうな自分がいた。

胸が、どきどきと鳴っている。それは、怒りでも悲しみでもなく、もっと温かくて、甘い、幸せな音だった。

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