第49話 触れ合いとその先へ
僕の部屋は、夜になると、どこか音を吸い込むような場所になる。
エアコンの唸り声さえも遠ざかって、壁がやけに近く感じられる。
その密室の中に、美穂がいる。それだけで、空気の粒子の密度が違っていた。
彼女は制服を脱いで、薄手のニットとジーンズになっていた。
すこしだけ湿った髪が肩にかかっていて、指先で払うたびに、香りがふわりと立った。
僕の知らない彼女の家の匂いが、そこにあった。
机の上には、飲みかけの紅茶と、開きっぱなしの問題集。
でも、もう勉強なんかしていなかった。ページの数字がまったく頭に入ってこない。
「さっきから、全然集中してないよね」
美穂が笑いながら言った。
その声に、少しだけ熱が含まれていた。
僕は「してたよ」と返したけど、たぶん、嘘だった。
ふたりとも、すこしだけ黙っていた。
その沈黙は、居心地の悪いものじゃなかった。
ただ、その場に立ちのぼっていた何かを、見て見ぬふりしているような、そんな時間だった。
先に触れたのは、僕だった。
美穂の手の甲に、自分の手をそっと重ねた。
彼女は驚かなかった。ただ、ゆっくりと視線を僕に向けてきた。
まつ毛の先に、ひとしずくの沈黙が揺れていた。
そのまま、ふたりの距離が、音もなく近づいていった。
唇が触れた瞬間、美穂はすこしだけ目を閉じた。
僕の知らない彼女が、そこにいた。
キスは、ゆっくりと、でも確かに、深くなっていった。
舌が触れたとき、美穂は小さく息を吸って、逃げなかった。
代わりに、僕の首に腕をまわしてきた。
その動作が、あまりにも自然で、あまりにも美しくて、僕は一瞬、何も考えられなくなった。
布団の中、服を脱がす指先は、ぎこちなくて、すこし震えていた。
でも、美穂は「大丈夫だよ」と言って、僕の手を自分の胸に導いた。
その言葉が、どんな教科書よりも僕を動かした。
肌は、あたたかくて、なめらかで、でもどこか震えていた。
彼女の喉が、ごくりと動くたびに、僕の中で何かが音を立てていた。
ベッドの軋む音さえも、ふたりの呼吸に溶けていくようだった。
行為は、うまくいったとは言いがたかった。
でも、僕たちは笑った。途中で何度も間が空いて、息が合わなくなって、
それでも、互いの身体を抱きしめ合いながら、「ごめん」と「大丈夫」がいくつも交差した。
終わったあと、美穂は僕の胸に額を押しあてて、
「ちょっとだけ、泣きそうになった」と言った。
「なんで?」
「なんか、こういうの、ちゃんと人とやるの初めてだったから」
そう言った彼女の声は、さっきのよりずっと小さくて、ずっと素直だった。
僕は、彼女の髪を撫でた。
ほんとうの“好き”って、きっと、こんな静かな夜の中でしか見えないものなんだと思った。
光じゃなくて、影の中にある感情。
声じゃなくて、呼吸の間にある言葉。
毛布の中、ふたりの脚がもつれていた。
でも、その絡まりさえも、解こうとは思わなかった。
それは、ちゃんと“ふたりでいた”という証のように感じられた。
窓の外では、冬の星が、静かに瞬いていた。
それは誰のものでもない夜だったけれど、
この一瞬だけは、確かに僕たちだけのものだった。
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