第2話

 庶務資格学校から駆け足で帰宅したクラネは、まずシャワー浴びて身を清めた。次に脱衣所に設られた古びてところどころぼけた鏡に向き合えば、自身の灰青の丸い瞳と視線が絡む。

 少し思案して、台所からナイフを取るとクラネは再び鏡の前に戻り、肩ほどまで伸びていた黒髪を手で束ねると耳下あたりでばっさりと切った。毛先をぱっぱを手で払い切れ端を落としつつ、先よりもさっぱりとした長さになった髪を確認して、ひとつ頷いた。

 それからクラネは、自分が持っている衣服の中で最もほつれのないシャツとズボンを選んで身に纏うと、みっともなく垂れる長い袖と裾をきっちり捲った。

 十代の、成長の只中にある体に合わせていちいち衣服を買っていては、常に寂しいクラネの懐はすぐに底をついてしまう。だから衣服はなるたけ大切に扱い、大きな穴があいて繕いきれなくなったなど本当にどうしようもなくなったときだけ新調し、それも大きめのサイズのものを選ぶようにしていた。

 仕上げに通学にも使っている唯一にして愛用である斜め掛けの茶色い鞄に、毛布、ランタン、乾燥させたパンの耳……など必要そうな荷物を追加で詰めると、クラネは再び外に出て、駆けた。

 ——初日の出勤が遅れることを承諾してもらえているとしても。親切で、安心できても。

 とんでもなく幸運な巡り合わせによって、クラネは夢に近づく機会を得た。世界や他人のための頑張っている良い方の力になりたいという夢。しかも、抱くきっかけとなった、魔法道具に携わる形で。

 とても、嬉しかった。だから、許されているとしても遅刻はしたくないと思った。初日から少しでも多く働き、学び、役に立ちたいと思った。少しでも、恩を返したかった。

 それでクラネは、前日のうちに山に入っておくことに決めた。幸い、野宿には慣れている。

 日はすっかり傾いていて、立ち並ぶ商店や行き交う人々、過ぎる街の景色には藍色が滲んでいた。

 家の最寄り駅に着くと、路面電車の最終便が今まさに出発しようとしているところだった。

「乗ります、乗ります!」

 手と声を高らかに上げると、車掌がドアを開けてくれた。クラネはお辞儀をしながら整理券を受け取り、ひとつだけ開いていたひとり用の座席に腰を下ろした。プシュウと音を立てながらドアが閉まり、バスは出発する。

 建物に灯る光が棚引く景色を眺めながら揺られること一時間。北アムレス山駅で降りる頃には、乗客はクラネひとりになっていた。

 街灯の少ない薄暗い道を数分歩けば、山麓につき、無人ロープウェイが現れる。

 山の方へ向かって伸びている黒く太い綱に、角が少し丸まった大きな鈍色の箱が掛かっていた。

「これが、ゴンドラか」

 クラネは無人ロープウェイを使うのははじめてだったから、利用方法などをあらかじめ職員から聞いていた。

 ドアを開け、ゴンドラの中に乗り込む。大人ふたりほど収容したらいっぱいになりそうな広さだった。四方は窓に囲われていて、座れそうなでっぱりがふたつあった。そしてドアの向かいの壁に、小さく細長い穴を見つける。

「ここに銅貨を一枚いればいいんだっけ」

 鞄から取り出した巾着を探り、銅貨を一枚摘まむ。穴の中に銅貨を入れると、ころん、と音がした。それから間もなく、自動でドアが閉まると。

「わ」

 重たい音を立ててロープウェイが動き出した。足場がぐらりと傾いて、クラネは倒れ込むようにでっぱりに尻をつく。

 奇妙な浮遊感を覚えながら体勢を整え、クラネは自分の背後に目を向けた。大きな窓からは山を見下ろすことが出来た。

 ゴンドラはゆっくりと高度を上げていく。山の麓が遠く小さくなっていく。自分は今、宙ぶらりんになっている。

「すごい」

 やがて駅からロープウェイまで数本あった街灯のあかりは、全く見えなくなる。

 冷たく暗い色の葉をつけた木々が繁る山を、クラネはじっと見つめる。

「やっぱり、なにもない」

 クラネは一年ほどこの国で暮らしているが、北アムレス山駅を訪れるのはこれが初めてだった。

 ここは観光地でもなければ、なにか特別な施設があると聞いたこともなかった。そして路面電車の駅からロープウェイに至るまでの道中も、今窓から見下ろしている景色の中にも、人気や家屋は全くなかった。

「どうして、駅やロープウェイがあるんだろう」

 なにもないのに、とクラネは首を傾げる。

「どうして山の中に、研究所を立てたんだろう」

 ぼうっと窓を眺めているうちに、ゴンドラは中腹に辿り着き、停止する。

 自動で開いたドアから降りたクラネは、足元を見回して「なるほど」と呟いた。

 学校からもらった地図には、中腹から八合目までは舗装された道が一本ありそこをまっすぐに進めば研究所が見えてくる、と記されていた。おそらく今自分が立っているのがその一本道だろう。人ひとり歩けるくらいの幅のくぼみが山の上の方へ向かってずっと続いている。多少の凹凸はあるものの、周囲と比べればならされていた。

 よし、と意気込んだクラネは、さっそくその道を歩いた。

 夜の森はひっそりとしている。ときたまひんやりとした風が吹き、葉や草が擦れ囁き合う。獣の気配は不思議なほどにしなかった。

 ——それでいて、なんか。

 妙に明るいな、と思った。

 以前に森で野宿をしたときは、自分がどこにいるの周りになにがあるのかもよく分からないくらいに真っ暗だった。

 だがこの森は、たしかに夜らしい藍色が滲んではいるものの、葉一枚一枚をはっきりと識別できる。街灯などは当然なく、ランタンも点けていないのに。

 ふと、クラネは上を仰いだ。

 そして、クラネは思わず足を止めた。

「わ」

 高く聳える木々に縁どられた夜空。そこにはまあるい月が浮かび、星々が点々と煌めいていた。

「きれい」

 これまで夜に外を出たことがないわけではない。だが、前に森で野宿をしたときは意識をしていなかったし、街中ではこれほど綺麗に見えることはなかった。こんなにもしっかりと星を見たのは、もしかしたら、はじめてかもしれない。

「はなのな座」

 クラネは星に明るくない。

 なのに、ふと、そんな星座の名が脳裏に浮かび、唇から零れた。

 少しして、は、とした。

「お母さんがくれた星座だ」

 クラネが母と過ごしたのは幼い頃のほんの短い年月で、母の晩年に向かうほどともに過ごす時間は減っていった。とてもやさしい人だった、ということははっきり覚えていても彼女との思い出はところどころ抜けおぼろげになっている。

 それでも、星々がとても美しかったからか、ふいに思い出した。

 それはかつて母に教えてもらった星座だ。母がクラネが生まれた夜を記念して結んだという星座だ。

「どこにあるんだろう」

 そう思って星空をじっと見つめて続けたけれど、クラネはその星座の名前以外、形も、位置も、まったく思い出せなかった。思い出せたところで。空には一生を賭けても数えきれないほどに星々は散らばり、瞬いている。

「この中から、見つけられるのかな」

 ぼやいてすぐに、クラネは首を横に振り、自分の頬をぺしぺしと叩いた。

「弱気はだめ」

 これからこの森の中にある研究所で働くのだから、綺麗な星空を眺める機会はあるだろう。今日星座の名前を思い出せたように、またいつか突然、形や位置も思い出せるかもしれない。

 深く呼吸をすると、夜の冷たい空気が肺を満たし、しゃきりと背筋が伸びる。

「よし」

 クラネはきゅっとこぶしを握ってから、前を向いて再び歩き出した。

 だが途中でふとまた空を仰いだ。

 もしかすると、ここから見える星が奇麗だから。観光地などではなくとも線路を引いたのかな、研究所を建てたのかな、なんて、ことを思った。

 度々空を仰ぎながら、仰ぎすぎてたまに躓きそうになりながらも歩き続けたクラネは、ついに目的地と思しき場所に辿り着いた。

 実のところ、この山に入ってからロープウェイ以外の人工物が見当たらなかったから、本当にこんなところに研究所があるのだろうかという気持ちを多少は抱いていたのだが——そこには、とても立派な建物があった。

 クラネの背丈よりもいくらか高く重厚な石塀、歩んできた一本道に面するように聳える堅牢そうな大門。その向こうに建つのは、陸屋根を被った、冷たく暗い色味をした石造りの、縦にも横にも大きな二階屋。向かって右奥に正方形の建物が一棟繋がっているようだった。

 アムレス王宮ほど壮観ではないが、クラネが住んでいる金貨二枚のアパルトメントはさることながら庶務資格学校や役所と比肩しそうな広大さ。それでいて、森の中に溶け込むようなひっそりとした、研究所というよりは物好きな素封家の邸のような外観。

 門の脇には呼び出し用に鈍色のベルさがっていて、その真下に黒色の猫が丸く蹲っていた。瞼は閉ざされいかにも眠っているような、近づけばすぐにでも動き出しどこかに逃げていってしまいそうな精巧なそれは、実は鉄鋼でできた作り物だった。

『——テンガイ研究所に着いたら、門のところにベルがあります。それを鳴らすと猫の置物が目を覚ましますので、それに向かって用件をお伝えください。おそらく、他の庶務員、ツヴィさんの先輩となられる方が応対してくれるでしょう』

 確信できる看板などはなかったけれど、他に建物ひとつない山中にあり、職員から聞いていた初出勤時の手順に出てくる特徴と合致したものがある。

「ここがテンガイ研究所」

 明日からクラネはこの立派な研究所で、魔法道具を研究する人のもとで、働く。

「少しでも」

 高鳴る胸に、きゅっと握ったこぶしを重ねる。

「少しでも、役に立てますように」

 視界の端で、なにかが煌めいた気がした。その方に目を向けるが、あるのは先までと変わらない、綺麗な夜空だけだった。

 瞬いたクラネはもう一度邸見てから、一本道を少し戻った。

 道中で小湖を見つけていて、そのあたりで野宿をしようと決めていた。

 両手で掬い飲んだ水は冷たく澄んでいて、ひたすら山を登って少し疲れていたクラネの内に沁みた。

 乾燥させたパンの耳の耳を三、四本食べてから、クラネは木のふもとに転がり、腹に毛布を掛ける。

 木の隙間から覗く空を眺めているうちに、気づけば、クラネは眠りについてた。

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