第3話
ぱ、と目を覚ますとあたりはすっかり明るくなっていた。空は雲ひとつない快晴、あたりの草木は陽光を浴びて瑞々しく鮮やかな緑色を放っている。
頭上に置いていた真鍮の懐中時計を手に取る——それはクラネがこの国に来て一番最初に、そして人生ではじめて自分で買った、魔法道具だ。ジーヴル製で砂粒程度の魔石で十年は動くと謳われており、今のところ針が休んだりずれているところは、一度も見たことがない。
蓋を開ければ、時計の針は七時を指していた。
「予定通り」
どこでも寝れて起きたい時間に起きられるのは、クラネのなけなしの特技のひとつだった。
立ち上がってぐっと伸びをしたクラネは、小湖で顔を洗った。清冷な水に、意識がしゃっきりと冴えた。
八時四十五分。その十分前にはクラネは昨夜ぶりのテンガイ研究所付近に辿り着いていたが、近辺をぐるぐると歩いていた。
——そろそろベルを鳴らしてもいいか、もう少し待つべきか。
定時より早すぎる時刻に出勤するのはよろしくない、という話を庶務資格学校の授業期間に聞いたことがあった。
悩みに悩んだクラネはついにええいままよとベルから垂れる紐をひっぱった。
振り子がベルを打ち、からん、からん、と高らかに鳴る。その音に起こされたように、ベルの真下にある蹲る猫の置物が、顔を上げ目を開けた。
黄金色の虹彩と黒い孔を持った瞳が、じっとクラネを捉える。それから猫の口がぱくりと動くと、男性の声がした。
『こちら、テンガイ研究所です。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか』
屋内と屋外で通話できる魔法道具はそこいらの施設や家庭にもあるものだが、随分と凝った作りをしている。さすが魔法道具を研究している施設だ。
緊張たっぷりに息を吸い込んだクラネは、元気よく応答する——。
「は、はじみゃまままして!」
——噛んだ。盛大に噛んだ。
ぐ、と思う。頬がわずかに熱を持つ。だが、こんなことでは、へこたれない。すぐに前向きに持ち直せるのがクラネの取り柄だ。
クラネはもう一度息を吸いんだ。
「はじめまして! 本日から働かせていただく、クラネ・ツヴィと申します」
『ツヴィさんでしたか。お迎えに上がりますので、少々お待ちください』
「はい!」
猫は再び、瞳を閉じ、腕の中に顔をうずめた。クラネはわずかに緊張から解放されて、息を吐く。
少しして、大きな門が中央から左右に向かって、重たい音を立てて開いた。そこから、一人の男性が姿を現す。
「ツヴィさん、お待たせしました。僕はここで庶務員をしているキャロテ・ホルンです」
その声は先に猫の口から聞こえてきたものと同じ、穏やかな抑揚を持っていた。
歳は二十代後半くらいだろうか、キャロテと名乗ったその男性は落ち着いた風貌、雰囲気を持っている。垂れた目尻は柔和で、浮かべる微笑みは愛嬌があり、その口元に浮かぶほくろが印象的だ。癖のついたくるりとしたジンジャーヘア、纏う衣服は白のシャツ、グレーのベスト。首元には黒のリボンタイが形よく結ばれている。ズボンは黒くすらりとしたシルエットのもので、なんというか、研究所の職員というよりかは良家の執事という感じがした。
「クラネ・ツヴィと申します。よろしくお願いいたします」
勢いよく頭を下げると、頭上から小さく笑う声がした。
「元気だね」
「はい、元気です!」
顔を上げてきゅっとこぶしを握ると、キャロテはまた小さく笑った。その笑顔はやっぱり愛嬌があって、いい人そうだ、と思った。
「それに、ずいぶんと早いね。バスの始発に乗っても九時を過ぎるはずだけれど。通行蝶はまだ持っていないだろう?」
「昨日のうちにきて、山で野宿していたので」
「え、野宿?」
目を丸くしたキャロテが「一晩、この山に泊まったってこと?」と尋ねてきたから、クラネは頷いた。
「えっと……学校の方から初日は遅れても問題ないって聞いてなかった?」
「聞いていたのですが、それでも、就業時間に間に合わせたくて」
「そうなんだ。真面目だね」
「真面目かは分かりませんが、ここで働くのが楽しみだったので」
「楽しみ」
どうしてか、キャロテの表情がわずかに険しくなる。なにかおかしなことを言ってしまっただろうか。
「……中に通す前に、本人確認を行ってもいいかな。庶務資格学校から経歴書も受け取っているけれど、念のためね。学生証と採用書類は持ってきてるかい?」
「はい!」
鞄から学生証と書類を取り出し、差し出す。キャロテは書類をしばし読み込んでから、自身の懐に手を入れた。
「これを持ってみてくれるかい」
キャロテが取り出したのは、小さな玉だった。透明に澄んだそれは、クラネにはガラス玉のようにしか見えない。
——何かの魔法道具、なのかな?
クラネは言われるままにその玉を受け取り手に持つ。が、特に何も起こらない。何の道具か、何か手順がいるのか、尋ねようとキャロテの方に目を向けると、彼はきょとんとしていた。
「ホルン様?」
「……ツヴィさんって、どれくらい魔法使えるの?」
「一切使えないです」
「一切っていうのは、ほんとうに一切? 魔核表現とかだけじゃなくて、日常魔法も?」
「はい」
庶務資格学校に入学するのは大抵魔核表現魔法を扱えない非才だが、指先ほどの火を灯したり手のひら大程度のものを短距離動かすなどささやかな魔力で発動できるらしい日常魔法を使えるものは少なくない。むしろクラネほど使えない人間の方が珍しい、らしいが。
クラネの応えに、どうしてキャロテは目を瞠っているのだろう。
この研究所はそういった人材を求めていたのではなかったか。それともやっぱり、少しは魔法が使えた方がよかったのか。
「魔法は使えませんが、お役に立てるように精一杯頑張ります。なので、ここで働かせてもらえないでしょうか……!」
たっぷりの希望を胸にここまで来たのだ、初日からクビになってしまったら悲しい。
「お願いします!」
「ご、ごめんごめん、なんか勘違いさせちゃったね。いや、僕も勘違いしちゃってね」
首を傾げるクラネに、キャロテは少しだけばつが悪そうに頭を掻いた。
「とりあえず中に入ろうか。一晩中外で過ごしていたのなら、体も冷えているだろう?」
キャロテに導かれ、門から建物までを結ぶアプローチを行く。そこはまるでひとつの公園のようだった。敷き詰めらた煉瓦が道を作り、その周囲の広々とした空間には瑞々しい草や色とりどりの花が植えられている。少し遠くには背の高い木があり、やわらかそうな白い花をいっぱいに咲かせていた。
そして研究所というより邸のような建物に辿り着き中に入ると——その内装もまた、研究所というより邸のようだった。
クラネが住んでいた部屋よりも広い玄関を抜けると、さらに広々としたホールが現れる。
深い色味の木材が幾何学模様を組むフローリングの上に、縦長の絨毯が敷かれている。それは正面にある幅のある階段にまで伸びていてた。階段は途中で左右に別れ、二階へと続く廊下やホールを取り囲む回廊に繋がっている。山の中、多くの木々の中に立つ建物ながら、回廊の壁に設えられた大きな窓はほどよく朝の陽光にを取り入れていた。
天井には花の蕾ような形をしたシャンデリアがさがっていた。今は灯りはついていないが、窓から光を受けてちらちらと煌めいている。
「こっちだよ」
キャロテは、ホールに入って左手側にある廊下を進むと、つきあたりにあるドアを開けた。
長方形の部屋の壁には、クローゼットや冷蔵庫、棚が取り囲むようにしておかれている。棚の傍らには壁掛け電話設置されていた。
中央には向かい合う二人掛けのソファと、その間に横長のテーブルがひとつあった。キャロテはソファの傍らに置かれた円柱型の白いストーブの蓋を開けると、どこからか魔石を持ってきて、ポットに置いた。それから蓋をしめ、ボタンをひとつ押すと、魔石があたたかな光をぽっと放つ。
「ここは庶務員室だ。出勤したら一番最初に足を運ぶ場所で、仕事の準備、休憩に使うのが主だよ。荷物はそこのクローゼットに入れおいてもいいし、奥の部屋、黒い扉の方を男性用、白い扉の方を女性用の更衣室として使ってるんだけど。そこの自分の棚に置いてもいいよ」
キャロテはクラネを一瞥してから。
「とりあえず、先に着替えてきてもらおうかな。一番奥の棚をツヴィさん……クラネくんって呼んでもいいかな?」
「はい、大丈夫です」
「ありがとう。僕のことも、気軽にキャロテって呼んでね。様もいらないよ」
「分かりました。キャロテさん」
「その棚をツヴィさんのものとして、制服を置いてあるから」
黒い扉を開けて部屋に入る。そこは今まで入った中では一番面積の小さい部屋だったが、それでもやはりクラネの住処よりかはずっと広いから感心してしまう。
一番奥の棚には、白いシャツに黒のリボンタイ、グレーのベスト、黒のズボンが掛かっていた。キャロテが身に纏っているものと同じだろう。下には艶やかな革靴も置かれていた。
ノリの利いたそれらに袖を、足を通していくほどに、クラネの胸はそわそわとした。
少しだけ余った丈を詰めて、黒のリボンタイを結んだら、全身鏡があったのでそこでくるりと一回転してみる。シンプルでかっちりとしたデザインの制服に着られている感は否めないが、ひとまず、みっともないところはなさそうだ。
研究所の職員というと白衣などを着るイメージがあったけれど、自分たちはあくまで庶務員。清掃、書類整理をいった業務が中心で、いわば企業の使用人ともいえるからこういった制服なのかもしれない。
——ここまで連れてきてもらえて、制服も着せてもらえたってことは、とりあえず初日早々クビは免れた……と思っていいのかな。
高揚と不安を胸に先の部屋に戻ると、キャロテの姿はなかった。が、間もなく廊下に繋がるドアが開かれると、黒色のトレーを持ったキャロテが姿を現した。
「あ、着替え終わったね。じゃあ、そこのソファに座ってもらっていいかな」
「はい」
クラネがソファに座ると、キャロテもそばにやってきて、トレーからテーブルにマグカップをふたつ置いた。
白い湯気が立ち、ほんのりと甘い香りを漂わせるそれは、ココアだった。
「甘いものは苦手じゃなかったかな」
「はい、大丈夫です」
「よかった。料理人お手製だから、美味しいと思うよ」
この研究所には料理人がいるのか——先に制服に対して得心したばかりだけれど、やっぱり、ますます、お邸っぽいなと思った。
キャロテはクラネと対面するようにしてソファに座り、「いただきます」と口にしてココアを一口啜る。
クラネも、「いただきます」と唱えてから、マグカップを両手で包み持ち、唇を寄せた。
やわらかなぬくもりと甘みが口腔にじんわりと広がっていく。
「美味しい……」
「少しは肩の力を抜いてもらえたかな」
「わ、すみません」
気の抜けた態度を取ってしまっただろうかと居住まいを正そうとしたら「ああ、大丈夫だから。そんな、気を張らないで」とキャロテが両手を振る。
「えっと、まずは僕の誤解について話した方がいいかな」
きょとんと瞬くクラネに、マグカップをテーブルに置いたキャロテが問うてくる。
「クラネくんは、この研究所についてどれくらい知っているのかな」
「求人票にあった内容と、あと魔法道具を中心に研究していることは、学校の職員さんから聞きました」
「ここで働くのが楽しみって言っていたのは、経歴書に書いていた……世界や他人のための頑張っている、良い方の力になれるからってこと?」
「はい。そう思うようになったきっかけが、魔法道具だったので、だからすごく楽しみで……は、浮かれすぎでしたでしょうか?」
「いや、そうじゃないよ、そうじゃなくて……あー、そっかぁ、そうだよねぇ、あの噛み方は……純粋にいい子だったかぁ……」
突然、キャロテは頭を下げた。
「クラネくん、改めてごめんね」
「へ」
「君のこと勘繰っちゃって、変な空気にしちゃって。君が、他意を持ってこの研究所にやってきた人なんじゃないかって、思って」
クラネはぽかんとした。
「僕って、そんなに怪しい雰囲気してますか……?」
持っている中で一番清潔な衣服を着てきたつもりだし、伸ばしっぱなしだった髪もさっぱりと切ってきた。今日が楽しみすぎて、落ち着きはなかったかもしれないけれど。
「怪しい、というか、珍しいと思って」
「珍しい?」
「無名かつこんな山の中の研究所で働くことになって、楽しみって言う人はなかなかいないんじゃないかな。一応、今いる職員の中で僕が一番長いんだけれど、君みたいな子は初めて見たよ」
それに、とキャロテは続ける。
「庶務資格学校に通うのは魔法が不得手でも生活していくためっていう人が大半だろう? 少なくとも僕の代は、働くのが楽しみっていう人はほとんどいなかった。仕方なくっていう感じの人や、なんとしてでも食いっぱぐれないようにしないとっていう感じの人が多い印象だったし。僕もわりとそうだった」
たしかに言われてみれば、クラネの同級生も「ようやく職に就き安定して金を稼ぐことが出来る」と安堵している者は何人もいたが、「仕事をするのが楽しみ」と喜んでいる者を見たことはなかったかもしれない。
「だから、疑っちゃったんだ。この研究所のことを探るために来たんじゃないか、とか。魔法が使えないって書類には書いてあるけれど、本当はそういうのに適した魔法を使えるんじゃないかとか。もしくは、書類の人物と別人なんじゃないか、とか。さっきこれを持ってもらったのも、それが理由でね」
キャロテは懐から再び透明な小さい玉を取り出す。
「これにしばらく触れていると……ほら、こんな感じで」
透明の玉の中にゆっくりと、彼の瞳に少し似た淡い紫色の結晶が浮かび上がった。
「持っている人間の魔核が、玉の中に表現されるんだ。たとえその人が僕や、庶務学校に通う多くの生徒のように、魔核表現ができなくてもね」
「そんな魔法道具あるんですか!?」
魔法道具についてはそれなりに調べているが、そんなものは初めて見聞きした。
「すごい。綺麗ですね」
「少しも輝きはないけれど」
「それでも、綺麗ですよ。やさしい色をしています」
「そう、かな……ふふ、ありがとう」
玉を見つめていたクラネは、あれ、と思った。
「魔核表現ができない人の魔核も表現されるんですよね」
「うん、そうなんだけど。一切魔法が使えない人間の魔核は透明で、これを用いても視認できないんだ」
自分が非才の中の非才であることはよく分かっているし、そのことに対して今更悲観はしない。それでも、魔法道具を使っても魔核が見れないほどだったと思うと、ほんのちょっぴりだけ残念な気持ちにはなってしまう。
「なんか、ごめんね。でも、ここでの仕事にこの上なく適してるってことではあるから。ほら、募集条件にあっただろう。出来うる限り魔法が不得手であることって」
「本当に全く使えなくても、大丈夫ですか?」
「もちろん」
「あの」
「ん?」
先に疑われたばかりでこんなことを問うていいものか、と思うも、しかし、かねてからの疑問を堪えることはできなかった。
「どうして、ここの研究所は、出来うる限り魔法が不得手である人を求めているのでしょうか。それこそ、珍しい、ですよね」
少しの間、キャロテはクラネを見つめて、それからわずかに眉を下げて微笑んだ。
「ここのご主人がそれを望んでいるからだよ。そしてそれは、きっと、クラネ君も知っている人だ」
「知っている人って……研究者の知り合いはいませんし、テンガイ研究所という事業所名も昨日初目的居たのですが」
「ううん、魔法道具に恩恵を感じている君なら、きっと知ってる」
キャロテはマグカップを手に持つと、ココアを口にする。
「これが飲み終わったら、ご挨拶に行こうか。この研究所のご主人——ジーヴル様のもとへ」
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