4 小望月

もうほとんど満ちきったように見える月に、未完成ならではの良さを感じて外に出た。無駄に成熟した大人より、青臭い子供の方が美しい、みたいな。

こういうポエミーなことを突然言い出しても、彼なら真摯に受け止めてくれるのだろうなと思う。彼も彼で、ある意味ポエミーというか、変わった世界観で生きているから。

最初に会ったときはもう二度と会うこともないだろうね、なんて吐いていたのに、絆されてしまったものだ。彼の手のひらの上で転がされているようで気に入らない。

神社の社が見える。もう何度も場所を借りているのだから、一円くらいは入れてもいいかもしれない。

そんなことを考えながら、鳥居の影を踏む。


「こんばんは、猫鳥ねこどりくん」

「あ……小夜さよさん。こんばんは」


地面を睨んでいた彼が顔を上げる。

笑顔はいつもどおりに見えるのに、この前と同種の違和感が散りばめられているような気もする。

わたしは先日の彼の言動を思い返し、自分なりに仮説を導き出した。


「ねえ、違ってたらすごく恥ずかしいんだけどさ……」


ない勇気を何とか引っ張り出してきて、切り出す。


「昼間に無理しすぎて、疲れちゃったとか?」

「ごめん。掠ってもないよ」


真顔で言われた。とても恥ずかしい。


「じゃあ何? わたしに恥かかせたからには、ちゃんと話してもらわなきゃ困るんだけど!」

「かなりの暴論だね」


淡々とした調子で正論を投げるのはやめてほしい。

彼は一瞬の逡巡ののち、ふうと息を吐いた。


「君とのこれからに関係してくることだから、言いづらいんだ」

「わたしとの、これから」

「うん」


言われる前に考察してみようと脳の電源を入れたものの、のみほどもわからなかった。


で、なんだ」


当たり前だ。朗報ならここまで躊躇うことはない。

いつにも増して弱気な彼に、わたしまでじめじめとした心模様になってくる。


「……さっきはああ言ったけど、言いたくないなら別にいいよ。秘密とか後ろめたいことなんて、人間、星の数ほどあるもんね」

「そこは共感しかねるけど」


一言多い。さらっと流せばいいものを。

とはいえ、軽口を叩いているうち、気分も軽くなったらしい。顔色が大分良くなっている。


「言うよ。どのみち言わなくちゃいけないことだから」


夜風が頬を撫でる。

太陽がなければ、街灯もなく。月明かりだけがわたしたちを包んでいた。

すう、と酸素を取り込む音が聞こえる。











「僕、幽霊なんだ」











木の葉が擦れ合う声だけ、響いている。

華奢な体躯と、きめ細やかで白い皮膚、遠くを見据える瞳。そのどれもが、月に帰ってしまいそうだった。


「僕が還ったのは土だよ」


はは、という笑い声。

心を読んだみたいな台詞とブラックジョークにも追求すべきなのだろうけれど、先程の発言を無視してそうできるほどの胆力はなかった。


「……え……でも、透けたり浮いたりしてないし」


驚きのあまり、ズレた指摘をしてしまった。


「前時代的な考え方だね。宇宙人はみんなタコ型だって言ってるのと変わらないよ」


わからづらい例えだ。さりげなくディスられているし。


「まあでも、君は幽霊じゃないし、仕方ないのかな」


独り合点されるし。こっちはこの突飛で非現実的な状況を飲み込もうと必死なのに。

ただ、普段と何ら変わりない会話をしていると、彼が幽霊らしいという衝撃の事実もさほど気にならなくなってくる。そういう観点では、助かっていると言えなくもない。


「あ、透き浮きに加えて、生身の人に触ることもできないよ」

「すき焼きみたいになるから略さないでよ……」


呆れた。だから、対応できなかった。

わたしのツッコミを無視した彼の手が伸びてきていることに。

あ、と声が出そうになったところで、胸元に置いていた手に彼の手が触れる。


「痛っ」


反射的に手を離す。

ストロング版静電気を受けたみたいな感覚の余韻が、まだ残っている。


「ね。どういう原理か知らないけど、こうなるんだ」

「ね。じゃないよ。わざわざ実践する意味あった?」


彼は吹っ切れたようにからから笑う。秘密を打ち明けて、すっきりしたらしかった。

しばらく控えめに肩を震わせていたが、不意にその動きが止まる。


「ああ、ごめん。大事なことを言い忘れてた」


能面のような顔で、わたしの平凡な瞳に焦点を合わせた。


「次の満月の日、消えるんだ」


僕、と。

何の感慨もなさそうに放たれた言葉に、頭が混乱する。

安心しきっていたところを、金槌で思いきり殴られたみたいな。


「次の満月、って……明日じゃ」

「そうだよ。明日の晩、僕は消える」


光の粒子みたいになって、跡形もなくなっちゃうんだって。

消え方なんか訊いていない。わたしが気にしているのは、そんなどうでもいいことではない。


「幽霊が成仏するまでには、猶予期間があってね。僕の場合、次の満月までなんだけど」


幽霊の決まりに興味はない。

わたしが聴きたいのは……。


「ねえ、幽霊じゃなくて、きみの話をしてよ。消えちゃうってことは、もう会えないの?」

「墓ならあるよ。話はできないけどね」


要するに、答えはイエスらしい。

ぎゅっと服の裾を掴む。絞り出すようにして尋ねた。


「どこにあるの、お墓」

「図書館と市民プールの間」


アバウトな説明だが、地元なのでさすがにわかった。


「名字は?」


そこがわからないことには、参れない。

純粋に必要だから訊いたのだが、うーん、と微妙な反応をされた。


「帰り際に言うよ」


今言うのと何が違うのか理解できなかったが、彼なりに意味があるのだろう。そっとしておいた。


「わかった。じゃあ行くね、お墓参り」

「ありがとう。……結構すんなり受け入れてくれるんだね」


こてん、と首を傾げられる。


「いや、よく考えたら、幽霊でもきみはきみだし、あんまり変わらないかなって。それに動揺してる時間がもったいないよ。だって、もう今日と明日しか話せないんでしょ」

「いや、今日だけだよ。明日は無理だ」

「えっ。消える瞬間までは話せるんじゃないの?」


彼は静かに目を伏せる。


「消える瞬間なんて、見られたくないよ。もう一度死ぬようなものなんだから」


死んだことがないわたしにとって、そこは未知の領域だった。

そっか、と無難な言葉を選ぶことしかできない。


「あれ、待って。じゃあ思ってたより時間ない……?」


今のうちに、疑問は解消しておかなければ。本当に墓まで持って行かれてしまう。

わたしはぐい、と彼に近寄った。


「本名、教えてよ。名字は後でいいから、下の名前だけでも」

「さあ。どんな名前だったんだろうね。名字はかろうじて覚えてるんだけど」


幽霊になったことがないからわからないけれど、死んだらそんな大切なことまで忘れてしまうのだろうか。まあ、そういうものなら致し方ない。


「っていうか、わたしも死ねば天国で会えるんじゃ……いや、やらないけどさ」

「やるやらない以前に、自分を天国に行けるほどできた人間だと信じていることに驚きを隠せないよ」

「今のは確実に悪口だよね?」


平然とした顔に、白い目を向ける。

彼は鳥みたいにラフな動きで、わたしに目線を合わせた。


「まあ、天国だか地獄だか知らないけど……会えたらいいね。百年後くらいに」


柔らかく細められた双眸と、繊細に揺れる髪、口からまろび出る流暢な言葉。

この状況にしては的外れかもしれないけれど、改めて、きれいだ。


「……やっぱりきみって、月みたいだよね」


豆鉄砲を食らった鳩みたいな面をされた。

さすがに脈略がなさ過ぎただろうか、とやや落ち込む。


「どのあたりが?」


今度はわたしが驚く番だった。よもや掘り下げられるとは。


「えーっと、まずはやっぱりきれいなところかな」


きれい、と彼が口の中で転がす。


「見た目はもちろん、中身も何か……浮き世離れしてて、儚げっていうか。だから、きれい」

「あとは?」


意外にも、催促の圧が強い。

とはいえ、自分の思ったことをそのまま垂れ流せばいいだけなので、お安い御用だ。


「あとはね、二面性があるところかな。すんとしてるときと、にこにこ笑ってるときでコントラストがはっきりしてる。月の表と裏みたいに」


彼はふむと顎に手を添え、ちらりとこちらに視線を寄こす。


「君はそう捉えるんだね。……ちなみに僕は君のこと、幽霊みたいだと思ってるよ」


予想外の方向からラリーが返ってきた。

ここは人を何かに例えようコンテストの会場ではない。


「毎晩、街をふらふら歩いてるから」


幽霊に幽霊みたいと評されるとは、何だか妙な気分だ。

彼はその後、思い出したように言った。


「あ、深夜徘徊はやめた方がいいよ。危ないから」

「……今更?」


本当にやめてほしいなら、もっと早くに伝えるべきだろう。少なくとも、わたしならそうする。


「だって、君の寄る辺になりたかった」


当然のように、つらつらと吐く。

見ようによっては、ただの言い訳。けれど、わたしには心の底から導き出されているように聞こえたから、そんな風にはとれなかった。


「なれたかな」

「……教えない」

「意地悪だなあ」


ふふ、と小さく声を上げて、彼が笑む。

後に、しばしの沈黙が訪れる。それは気まずく澱んだものではなくて、ただただ穏やかだった。


「帰ろうかな。そろそろ」


沈黙を破ったのはわたしだった。


「そうだね。その方がいい」


もしかすると引き留められるかな、とも思ったけれど、そんなことはなかった。

寄り添ってはくれるけれど、こちらの手を掴むことはしてくれない。

それでよかった。


「そういえば、名前を教える約束だったね」


わたしに向き直った彼は、月光に包まれるまま、口を開く。


「僕の名前はね――」

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