3 十三夜月

とんとん、と地を叩き、踵を合わせる。

今晩の月は中途半端な満ち方をしているけれど、むしろ歪できれいだなと思って外に出た。純粋なキャラクターより、屈折した性格のキャラクターの方が心惹かれたりするのと同じだ。

空を仰げば、無数の星たちがきらきらと煌めいており、その真ん中、控えめながらもしっかりと月が輝く。

わたしは月だけをじっと眺めてから、夜の散歩を始めた。


「……こんばんは」

「こんばんは」


今日も今日とて、来てしまった。

来たのは月がきれいだったからだ。決して、彼の不思議な魅力に吸い寄せられたとか、そういうわけではない。


「今日は星が見えるね」


彼が空に手を掲げる。瞳には、たくさんの星々が映り込んでいる。


「そうだね……」


声のトーンからテンションが低いことを察知されてしまったらしく、彼は首を傾げた。


「どうしたの?」

「いや、別に」


そっぽを向いて、視線を逸らす。

ちらりと見た彼は、珍しく眉を下げていた。


「……ごめん、何かしてしまったかな」


しょんぼりとした子犬のような様相に、わたしはあわあわと慌てて訂正した。


「い、いや、きみのせいじゃないから……!」


ぶんぶんと手を左右に振っていると、必死さが伝わったのか、彼の顔が綻ぶ。


「うん、ありがとう」


ありがとうと言われるような要素はないだろう。

彼の不思議なマインドにはもう慣れたが、それでもやはり引っかかってしまった。


「何に対してのありがとうなの?」

「僕が落ち込むんじゃないかって気にしてくれたこと」

「ふ、普通だよ……」

「普通のことが当たり前にできるって、すごいことだよ」


特に頑張っていなくても、褒められるというのは気持ちがいいことだ。わたしはそこそこに調子に乗った。


「君は怖がりで極端だけど、優しいね」

「褒めるか貶すかはっきりしてよ」


思わず吠えてしまったが、彼は全然気にしていなさそうだった。

子供でも見るかのように、にこにこしている。


「それで、何かあったのかな」

「ほんとに大したことじゃないよ。その、わたし、星があんまり好きじゃなくって……」


頬を掻きながら、地べたにずずずとゆっくり座り込むような心境になった。

驚かれるかと思ったけれど、彼の瞳に力が宿る。


「へえ。月は好きなのにね」


ぷちっ。

月と星を一緒くたにするみたいな言い方に、頭のどこかで糸が切れた。


「全然違う! 星は腐るほどあるけど、月はひとつしかないし、月は満ちも欠けもする儚さがあるけど、星はどっちもしなくて、見てて退屈だよ! あと、星座ってあるけど、周りと繋がらないと目立てないなんて、その時点で二流だよね。星座って言われなきゃわからないし。それに比べて、月はいつもひとりで頑張って光ってるんだよ。見習ってほしいよね! それに、月に関する逸話とか習慣っていっぱいあるけど、星は月ほどないんだよ! そのあたりからも、格の違いが出てるよね。ほら、月見酒や月見団子はあるけど、星見酒や星見団子はないでしょ。そういうことだよ!」


はあ、は、と肩で息をする。

彼はふむふむと黙ってわたしの話を聴いていた。

冷静な彼との温度差に気が付いて、はっとする。


「ご、ごめ……引いたよね」

「いや、何かに夢中になれるって素敵なことだよ」


彼は笑顔だったが、いつもより淡白な声色のように思われた。


「ただ、って言い方は、僕がって返すのを誘導されているみたいで不快だったかな」


薄らとした笑みのまま言うものだから、わたしは萎縮してしまった。


「ごめん」


地雷がどこにあるのかわかったものではない。

昨日たくさん話してわかったような気になっていたけれど、そんなのはひどい驕りだ。一日や二日で、その人を理解することなんてできっこないのに。


「いいよ。僕は君がここへ来てくれるだけで嬉しい」

「……何で?」


自分で言うのも何だが、わたしには大した魅力がない。

顔は整っているほうだと思うけれど、美人かと問われたらそれは違うと自信を持って言える。勉強も、人並みにはできるけれど、難関校に入学できるほどかといえば、そうでもない。

何か突出して優れたものがなくて、二位にはなれても一位にはなれない。

だから心底不思議だった。初めて会った日、彼はなぜこんなわたしに声をかけたのか。


「君といると、静かなのに寂しくないからね」


彼の口から、寂しいなんてワードが飛び出すのは意外だった。

喜怒哀楽のうち、喜、怒、楽を目にしたことはあれど、哀に近いものは表出しているのを見たことがなかった。


「わたし、そんなに静かじゃないと思うんだけど」

「物理的な静けさじゃないよ。雰囲気とか、空気とか、そういう静けさ」


存在感がないと言いたいわけでもなさそうだ。やはりよくわからない。

いずれにせよ、褒めているつもりなのだとすれば、保育士には向いていないなと思った。


「まあでも、ありがとう。嬉しいって言ってくれて。何か、きみの特別になれた気になれる。きみからしたら、迷惑かもしれないけど……」


そこまで言葉を紡いで、ふと気が付く。


「わたしが月を好きな理由のうちのひとつ、わかったかも」

「そんなにたくさんあるの?」

「うん。今わかったのはね……月が特別だってこと」


彼が明後日の方向に視線を向けて、思案する。


「好きだから、特別なんじゃなくて?」

「好きになる前から、特別だったよ」


特別でなかったのなら、わたしは月を好きにはならなかっただろう。


「特別って、すごくいい響きだよね。だって、その人の唯一なんだよ。誰より、何より、いつだって優先されるの」


惚けたように語るわたしを、彼がじっと見つめていた。


「君はさっき、僕の特別になれた気になることが、僕には迷惑かもって言ってたけど」

「うん」

「勝手に僕の気持ちを推し量った気になられる方が、僕は迷惑だよ」


手のひらの汗腺がぎゅっと収縮して、無駄に冷たい汗を絞り出している。

わたしのちっぽけな手は、夜風に触れてさらに冷たくなった。


「君はもう、僕の特別ゆいいつなのに」


もったいないことするんだね、と不思議そうに笑われる。


「あ、え……」


さっきまで冷えていた頭が、熱湯をかけられたように火照る。

その言い方だと、まるで。


「き、きみは……わたしのことが好き、ってこと?」

「うん? いや、違うよ」


何だこいつ、と思った。思わせぶりなことを言っておいて、あっさり否定するのか。

乙女の純情を弄んだ罪は重い。


「や、でも、よく考えたら、わたしも別にきみのこと好きじゃないな」


恋人になりたくはないし、友だちとも違う。


「そう、特別。きみと一緒だよ」

「へえ、じゃあ両想いだ」


彼はにこりと笑っている。

からかわれているのか、本気なのか。


「そうだね」


真意はどうあれ、彼がわたしを特別と思ってくれているという事実は揺らがない。深く潜って考える必要はないのだ。


「ねえ、夜以外のきみも見てみたいな」


思い立ったが吉日ということで、素直に思ったことを出力してみる。

いいね、と朝みたいに爽やかな笑顔で快諾してくれるものと思っていたのだけれど、予想に反して、彼の顔は曇った。


「昼間の僕は……夜の僕とは、随分違うよ」

「えっ。どう違うの」


彼の長い睫毛がそのかんばせに落ちて、影を感じさせる。


「無理をしているんだ。わりと」

「飾ってるってこと?」


彼は首肯する。


「夜は飾らなくていいから、楽なんだけどね」

「ふうん」


彼でも、飾ることがあるのか。

キャラを作ったり、猫を被ったりしている可能性も出てきた。想像すると、そこそこ面白い。


「そういうわけで、夜以外に会うのは難しいかな。ごめんね」

「いや、大丈夫。こっちこそごめん。センシティブなところを……」


お互い妙にへこへこした状態で、その日は解散した。

同時に、どこか満たされた自分もいた。











毛布に染み込んだ柔軟剤の香りがわたしを包む。

身体が沈み込んでいく感覚に安心しながら、ごろんと横になる。

窓から見える月はかなり丸みを帯びてきていた。


「んー……何か引っかかるなあ」


彼との会話を反芻する。思えば、今晩の彼は微妙に不自然だった気がする。

違和感の原因がどこにあるのかすらわからないけれど。


「次……会ったら訊こう」


好奇心より眠気が勝ってしまったので、わたしは抗うことなく目を閉じた。

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