2 弓張月

半分暗くて、半分明るい月がきれいだったから、するりと家を出た。

相変わらず、夜は静かだ。昼間と違って余計な物音や話し声がしないから、落ち着く。

朝もそれなりに静かだが、大抵の人は会社や学校に通うための準備で忙しない。それに朝日を見ると、また一日が始まるのだということを思い知らされる。

夜は違う。これからに辟易することなく、明日に勝手な期待を持ったまま眠ることができる。夜というのは、終わるしかないものだから。

今日もあてはなく、放浪者か幽霊のように彷徨う──予定だった。


「……うわ」


ふと荘重な雰囲気の建物を目に入れてしまった時点で、わたしの負けだ。

鳥居の先、お賽銭箱の横に座っていた少年と目が合う。

お上品に手を振っている彼は、猫鳥ねこどりくん。本名は知らないけれど、わたしが仮の名前を付けてあげた。

彼は電波というか、不思議ちゃんというか、とにかく少し変わった人だ。

明らかに不審者なのだけれど、なぜか嫌いになれない。

今日だって、なんだかんだ彼と約束したとおり、ここまで来てしまっている。


「こんばんは、小夜さよさん。てっきり来ないかと」


ひらひら手を振る彼に、こんばんはと返す。


「きみが来てって言ったんだよ」


お賽銭箱を挟んで、彼の横に腰掛ける。

ふ〜、と息を吐いた。


「さすがに、ちょっと疲れるな」

「家、遠いの?」

「いや。適当に歩いてたら結構な距離になってたりするから、それで疲れてるんだと思う」


深夜に疲れるほど歩くのはどうなんだと非難されるかなと一瞬思ったが、よく考えなくても、彼は深夜徘徊仲間だった。わたしだけを批判する権利はない。


「そういえば、きみっていくつなの?」


腕をだらんと伸ばして膝で支えさせる。

片腕に頭の重みを預け、流し目で彼の方に視線を向けた。


「さあ。いくつだったとしても、僕は僕だからね。あまり言う意義を感じないかな」


彼は素知らぬ顔で答えた。

言わない理由もないだろうに。彼には秘密主義の気があるらしい。

わたしもそこまで気になるわけではないので、そう、とだけ呟いて、それ以上は追求しなかった。


「……あの。お悩み、聴いてくれるって言ってたよね」 


沈黙が辛かったので、こちらから切り出した。

彼は微かに目を見開く。


「うん」


快諾してくれて、わたしは胸を撫で下ろす。

今日も含めたとしても二回しか会ったことのない人にお悩み相談なんて、わたしもわりと変な人かもしれない。いや、逆にあまり知らない人だからこそ、気軽に話せるのだろうか。

自分のことなのによくわからなくて、わたしは一旦そこについて考えるのをやめた。


「きみは、人に迷惑をかけるなって言われたことある?」


彼は頭のメモリからその言葉を探しているらしい仕草をした。


「いや、ないかな。思い出せる限りでは」

「そっか……」


わたしは幾分か驚いた。みんな、一度は言われたことがあるだろうと心のどこかで思っていたのを、改めて認識する。


「わたしは、ある。一回言われただけなのか、何回も言われたのかは定かじゃないけど……とにかく、その言葉がずっと頭の中に居座り続けてて」


彼は黙って聴いていた。

横顔が見える。何を考えているかよくわからない。


「幼くて、生きていく上での指針みたいなものがなかったから、渡りに船だったのかも。何でもよかったんだと思う。たまたまわたしの中に入り込んできたのが、それだっただけ。ほら、指針があれば、楽でしょう。そのとおりにすれば何とかなるって思えるし」


幼少の記憶がまざまざと蘇る。


「言われた後、わたしは実践した。人と話すとき、この話題はよくないかな、とかしっかり考えて、なるべく人を傷付けたり、迷惑をかけたりしないようにしたの」


思い出すのが辛くなってきて、月を見上げた。

今晩は上弦の月だ。


「でも、思ったんだ。迷惑の定義があやふやだなって。もちろん、辞書を引けば出てくるけど、そういうのじゃなくて。どこからが迷惑になるのかなって。例えば、わたしを嫌いな人がいたとするでしょ。その人はわたしがおはようって挨拶をしただけで、嫌な気分になるかもしれない。でも、わたしを好きな人もいるとする。その人は、挨拶をされたら嬉しいなって、幸せな気持ちで一日を始められるかもしれない」


彼は真剣そうな顔をしているように見えるけれど、実際どうなのかはわからない。


「そんなことを考えて、少しでも可能性があることはしないようにしていったの。そうしたら、何にもできなくなっちゃって」


縋るように月を見る。

きれいなものは、いつも心を洗い流してくれる。


「結局、何もしないで透明人間みたいに過ごすのが、一番迷惑がかからない。そういう結論に辿り着いてから、人と関わることがめっきり減って。学校でも、ひとりで……」


痛々しい沈黙。

何か言ってくれるだろうかと、横顔に期待を寄せる。

いろいろ考えていたのか、固まっていた彼がようやくこちらを向く。


「君は、人と関わりたいの?」

「うん……」

「なら、例の言葉はなかったことにしよう。君を縛り付けるだけの言葉なんて、さっさと捨ててしまえばいいんだよ」

「でも……人に迷惑をかけちゃいけないのって、常識みたいなもので」

「常識って、誰かが勝手に常識と決めたものだよね。そんなの、常識とは呼べないよ」

「屁理屈だな……。そんなこと言い出したら、常識そのものがないことになっちゃうよ」

「なくていいんじゃないかな。なくたって生きていける」

「社会的に死んじゃうかも……」

「そのときはそのとき。というか、君はその言葉を、絶対的なものとして捉えすぎだよ。何事も、ある程度は妥協しないと」


妥協。

できたら苦労していない。


「妥協って、積み重なったら全部がどうでもよくなってくるから……苦手」


涼しげな黒が、悟ったように光る。


「なるほど、極端なんだね。何事においても」


わたしはう、と唸った。思い当たる節があったから。


「わ、悪い?」

「いや。この世に悪い人なんていないよ」

「……きみはスケールが大きいよね。何事においても」


何だかキザというか芝居がかっているというか、こそばゆくて、物語の登場人物を見ているような気分になる。


「それはどうも。実のところ、善い悪いなんてものは存在していない。人が好き嫌いのことを善い悪いと、都合のいい表現をしているだけだと思うんだ、僕は」


自分の考えをしっかり持っているところは素直に称賛できるから、逆に気に食わない。

他人の受け売りを、いつの間にやら自分の考えと勘違いしてしまう人は多いけれど、少なくともわたしの目には、彼は違うように見えた。

己の頭で考えて、それを言葉にしているような。


「違う、そんな話じゃなかったよね。ああもう、きみと話してると論点がズレにズレる! たぶんディベートとか向いてないよ、きみ」


渾身の悪口だったのだが、さらっと流された。


「ディベートか。いつかやってみたいなとは思っていたんだよね。君はやったことある?」

「ほら、言ったそばからズレてる……」


彼は悪びれもせず、からからと笑う。


「ごめんね。横道に逸れるの、楽しくて」

「わかるけどさあ……」


ズレた話をしているうち、暗澹とした淀みは霧散してしまった。

カウンセラーは向いているのかもしれない。


「えーっと、さっきの話をまとめると……例の言葉は一旦忘れて、妥協しようってことでいいの?」

「そうだね。万人受けする人間なんて存在しないんだ。存在しないものを目指すのは馬鹿らしいよ」


桜に攫われそうな容姿をしながら、結構強い言葉を使う人だ。

でも、それくらい強く言ってくれた方が説得力があって、安心できる。


「ありがとう。すっきりしたかも」

「お役に立てたようで何よりだよ」


にこりと人の良さそうな笑みを浮かべる彼。

相変わらず得体が知れない人だけれど、悪い人ではなさそうだし、信用してみてもいいのかもしれない。


「じゃあ、また。月のきれいな夜に」


ひらりと手を振って、わたしたちは別れた。











毛布の柔らかな感触に、優しさを感じる。無機物だから優しさも何もないのだけれど。

ふと月を見れば、家を出たときから若干動いていた。

いつもよりクレーターが鮮明に見える気がする。


「ちょっとわかってきた……かも」


ふふ、と口元を緩ませて、その日は穏やかな眠りについた。

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