夜の寄る辺

依和

1 こんばんは

窓から見える三日月がきれいだったから、何となく外に出た。

今は夏。とはいえ、夜は夜なので空気がひんやりとしている。わたし好みの空気だ。

玄関の扉を後ろ手で閉め、たったと軽い足取りで歩き出す。夜というのは少しの音でも出すのが憚られるものなので、なるべく足音は立てないように。

コンクリートを踏んだところで、きょろきょろとあたりを見渡す。知ってはいたが、やはり人っ子ひとりいない。その事実で、わたしの気分はぐぐぐと上がった。

本当に何のあてもなく、心の赴くままに深夜の街を徘徊する。空を眺めければ上を向き、自分が地に足つけていることを確かめたければ下を向く。

そうやって猫みたいに過ごしていると、やがて近所の神社に漂着した。鳥居を潜って敷地内を進んでいく。

正面のお賽銭箱が目に入った。あいにく今は一銭も持ち合わせていないので、神社に貢献することはできない。持っていたって入れるとは限らないけれど。

せっかく来たのに何もしないで帰るのはもったいなく思えて、わたしは手を合わせ、目蓋を閉じた。ここの神社は二礼二拍手一礼をするのが礼儀だった気がしなくもないけれど、そんなことは些事である。

わたしは目を閉じたまま、何をお願いしようか考えて、でも何も出てこなかったから、適当に呟いた。


「──何か面白いこと、ありますように!」

「へえ、結構漠然としたお願いなんだ」


えっ、と声が出た。

わたしはばっ、と後ろを振り返る。


「あっ、ごめん。人のお願いを盗み聞きするのも、その内容にけちをつけるのもよくないことだよね」


そこには、少年がいた。

夜風に揺れる、さらさらとした黒髪。冬の夜空みたいに澄んだ瞳。パーカーに半ズボンというありがちな格好のわりに、どこか神秘的な雰囲気を有していた。

わたしは心を落ち着かせようと、少年の整った顔を観察しながら、彼の言葉の意味を咀嚼し、理解するため頭を回す。


「いや、そこは気にしてないよ……。急に知らない人に話しかけられて、びっくりしただけ」


咀嚼して、彼の問題視している点がおかしいことに気がついたので、とりあえず訂正しておく。

彼は安堵したのか、にこりと笑った。


「よかった。人のお願いを盗み聞きするのと、その内容にけちをつけるのは悪いことじゃないんだね」

「悪いよ」


思わず指摘してしまった。

彼は難しいな、とまったく難しくなさそうな顔でこぼす。


「悪いなら、何で僕は許されたんだろう」

「……ええ? わたしは不快じゃなかったけど、他の誰かは不快に思うかもしれないから、とか?」


どうして初対面の人間とこんな込み入った話をしているのか、自分でも不思議でならない。

こてん、と首を傾げられた。


「可能性の話だよね?」

「そうだけど……一パーセントでも人を傷付ける可能性があるなら、しない方がいいんじゃないかなって」


わたしは思う、と。

どんどん尻すぼみになっていく自分の声に、 若干嫌気が差す。

向こうからは、へえ、とそこまで興味なさげな声が返ってきた。いろいろ訊いてきたくせに、とは言いたかったけれど言いにくくて、結局言わなかった。


「君は怖がりなんだね」


初対面なのに失礼な奴だな、何だおまえという罵倒が十二指腸くらいまでせり上がってきた。

ただ、やはり不満をぶつける気にはなれない。

褒めるでもなく、批判するでもなく。淡々と、頭の中にあった感想を吐き出しただけ。そんなふうに聴こえたから。

わたしははあ、とため息をひとつ。


「……きみ、名前は?」


彼は一瞬、目をぱちくりさせて、それからすっと目を細めた。


「君が決めてくれないかな」

「ええ……」


深夜、初対面の人間に声をかけるくらい不用心なのに、名前は教えてくれないらしい。変なところでガードが固い。


「まあ、いいよ」


名前を考えるのは好きだった。


「やった。ありがとう」


やたら嬉しそうにお礼を言われた。ツボがわからない。

とにかく、わたしは彼の名前を考えることにした。

容姿からとろうか、性格からとろうか、などと考えているうち、ぴこんと天啓が降りてきた。

びっ、と自信満々に彼の方を指さす。


猫鳥ねこどりくん、でいこう」


彼は興味深そうに、わたしの瞳を覗き込む。


「猫鳥って?」

「よくぞ訊いてくれました。フクロウの別名らしいよ、この前本で読んだんだ」

「僕にフクロウ要素、あるかな」

「いや、きみ自身っていうより、きみが今ここにいることの方が大事」


ふむ、と彼は考える仕草をした。

数秒後、顔が上がる。


「わかった?」

「いや、まったく」


鋭いのか鈍いのか、よくわからない人だ。

仕方ないとでも言わんばかりに、わたしは解説を始める。


「フクロウって夜行性でしょ? そして、きみはこんな夜中に出歩いている……」

「ああ」


納得したらしい。彼はぽんと手を叩いた。


「その理屈でいくと、君は猫鳥さんになるね」

「ならないよ。わたしにはちゃんと、小夜さよっていう、親に付けてもらった大切な名前が──あ」


咄嗟に口を押さえたけれど、もう遅い。

気まずくなって、ぎゅうと目蓋を閉じる。


「……とりあえず、君は今から猫鳥くんってことでよろしく。まあ、もう会うこともないだろうけど」

「うん、よろしく。小夜さん」


聞かなかったふりをするとか、スルーするとか、そういう気遣いの精神はないらしい。


「ちなみに僕、毎晩ここにいるから」

「はあ、そうなんだ」


だからどうした、という顔で彼を見つめる。

しかし、彼は爽やかな微笑を浮かべるばかりだった。


「また来てよ」


そんな台詞と共に。


「来ないよ。寝るよ」

「そう、残念。でも、月がきれいだったら、君は来るよね」


どくん、と心臓が跳ねる。

どうして外に出た経緯を知っているのか。

わたしの動揺など知ったことではないらしい。またもやにこりとした笑顔が形成される。


「なんで知ってるの」


彼は心底、不思議そうな顔をした。


「こんな時間に出歩く理由なんて、月見くらいしかなくない?」


そんなわけ、と思ったけれど、彼の不思議な価値観の中では普通のことなのだろう。もしくは、彼もきれいなものが好きなのだろうか。


「……きれいなもの、好きなの?」


上目遣いに尋ねてみる。


「それなりに」


抽象画みたいな複雑な気持ちになった。

この変人と、共感できるポイントがひとつでもあるという事実に。

しばらくわたしのことを眺めていた彼が、顎に手を当てる。


「あんまり乗り気じゃなさそうだね?」

「それは、そうだよ。確かに、きれいなものがあったらまたふらっと来るかもしれないけど……なければ来る理由がないし」


黒くて温度のない瞳が、しっかりわたしの瞳を捉える。

野生のフクロウみたいな、剥き出しの目だ。


「つまり、理由があればいいんだね」


ぱっ、と両手が広げられる。

月の光が逆光になって、彼の後ろを照らしていた。


「じゃあ、こうしよう。君はさっきここの神さまに、何か面白いことがありますようにって願ってたよね」


さながら推理小説に出てくる探偵のように、先程のわたしの発言を持ち出してくる。


「僕がその、になるよ」


犯人を論破して追い詰めるときのように楽しそうな声色。静かな煌めきを宿した瞳。

わたしは彼の気迫に圧され、何も言えないでいた。


「話をする程度のことしかできないけど、それでも、何もしないでいるよりかはいくらか面白いよね」


ね?

期待に満ちた、何かに酔っているような面持ちの彼は、少し幼く見えた。道理を知らない、理屈なんて塵ほども気にしない、子供。

どうしてそこまでしてわたしと会いたいのとか、何を考えているのとか、訊きたいことは尽きないけれど。


「き」


気まずくて、顔を逸らす。

でも、良くないよな、と思って、視線を正面に戻す。


「気が、向いたら」


彼の顔がぱあっ、と明るくなる。夜なのに、太陽が出たみたいだ。


「ありがとう。もう遅いから、今日のところは帰ろうか」

「えっ、もうそんな時間?」


水色のパーカーのポケットから、するりと懐中時計が現れる。表側はわたしの方に向けてくれた。

見ると、針は深夜の三時を指していた。


「あー……ほんとだ。そろそろ帰らないと」


明日に響く。一応、学生なので。

彼も歳は知らないが、たぶん同い年くらいだと思われるので、早く帰った方がいいだろう。そもそも、未成年が深夜徘徊するなという話なのだが。


「じゃあ──ああ、待って。忘れてた」


彼は改めてわたしに向き直り、ふんわり笑った。


「こんばんは、小夜さん」

「……今更?」


このタイミングなら、おやすみなさい、の方が適切だろう。

最後まで、ちょっとズレている。


「ま、いいか。じゃあね、猫鳥くん」


手を振って、わたしは神社から遠ざかる。彼も小さく手を振り返していた。











自室に帰ってきたわたしは、ぽふんとベッドに身を預ける。

顔だけ動かして窓の方を見れば、三日月は微妙に移動していた。

わたしは天井に目を向ける。


「変な人に会っちゃったなあ」


ぽつりと呟いて、毛布を被った。

肌触りのよい布の適度な温もりが、わたしの心を落ち着かせる。


「……」


目を閉じると、先程から主張していた眠気が急激に増してきて。

わたしは心地よく眠りについた。

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