魚
八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)
魚
前略
魚という小説をお探しだとお書きになられておりましたのを拝見致しました。ふと私の存ております「魚」と名のつく小説を思い出しまして、蔵書を探したのですが、数日前まで確かに目についておりましたのに見つける事が叶いませんでした。勝手ではございますが、記憶しております限りで書き添えますので、お読みくだされば幸いと存じます。
私がこの小説と出会いましたのは、大正天皇が崩御なされ、昭和天皇が御即位なされた年のことであったと記憶しております。
片田舎のバス停脇にありました小さな古書店の隅で埃を被っておりましたのを偶然目に致しまして、誘われるように手に取ったので御座います。上製本のうえに布貼りという大層に立派なものでして、青海波模様の布地で覆われておりましたが、布地の鱗のような感触と、夏だというのにも関わらず水底のように冷たさを纏っておりましたことに、甚く驚いたことを覚えております。
題名は仰られておりますように「魚」でございます。筆文字であったか、活版文字であったか、忘れてしまっておりますが、ただ、一言添えて申し上げますならば、生命の如き輝きを放っていた事は確かでございましょう。
私は当時女学生で、友人の別荘へと遊びに参るところでした。汽車とバスを乗り継いでの長旅で疲れているのだろうと、その違和感達を疲れの為としてしまった事が、後の悲劇に繋がってしまったのかもしれません。
気がつけば私はバスの座席に座っておりまして、手元にはその本がございました。本当にどう支払いを済ませたのか、どう、バスに乗ったのか、それすらも記憶になく、不思議でありましたのは、これだけ立派な本なのにも関わらず、支払いをしたであろう財布を確認いたしますと二銭銅貨一枚だけが減っておりました。
別荘までの道のりは長いもので、山奥には軍研究所がございましたので、走りやすいよう道は固められて平坦で、山々の景色は変わり映えもせず、緑と蝉の鳴き声が少しでも冷気を入れようと開けられた窓から一緒くたに吹き込んできて、騒がしい限りでございました。齢を重ねた今でございましたら、手にしております本など開くことも難しいでしょう、けれど、女学生の私にはその不思議な本への好奇心が心中で湧き上がりますと、開かずにはいられませんでした。
表紙を開きますと、中表紙に同じく「魚」と記されておりまして、著者名につきましては、何処をどう探しましても見つける事が叶わず、どの作家様のお書きになられた本かも解らぬままに私は頁を捲りますと活版印刷の鮮やかな文字がびっしりと紙面を埋め尽くすように記されておりました。要約いたしました事柄を記させて頂きたいと存じます。
この本は魚の本である。であるからして、魚について綴っているはずなのだが、綴られていることは魚ではない。そもそも、魚とはなんであるのか、それを定義する必要から始めねばならない。誰しもがこの漢字を目にすれば大変につまらぬが「海あるいは川を泳ぎ、鱗と背鰭を持った生物」と思われるであろう、いや、ある者は魚河岸などで売られているモノと考えるであろう。本書ではその魚ではない、魚について論じたいと思う。魚は2種類に分類する事ができる、即ち、海を泳ぐか、空を泳ぐかである。海を泳ぐモノについては最早説明など不要であろう。食卓や釣りで見慣れたものである。だが、そらを泳ぐ魚について論じる時、必ず軍や内務省の検閲を受け発禁、黒塗りで握りつぶされ固く口止めをされる事柄なのだ。天を泳ぐ魚を私が発見したのは大正〇年の夏のことで、青く澄み渡るほどの素晴らしい空を眺めていた私は、鰯雲の中に蠢く何かを目にした。双眼鏡を手に取り眺めてみるとこれは鰯のような魚であった。天の青を纏い光輝く天翔る鰯の群れであった。
このような書き出してございます。
この本には天を泳ぐ鰯につきましての生態が詳しく記されておりました。それはもう小説のように読み易く、私をその世界へと誘ったのでございます。ただの物語であるとお話であると、バスの中で読み耽ってしまった私は軍の研究所のバス停まで乗り越してしまうほどに恥ずかしながら熱中してしまったのです。
ですが、これは軍の仕掛けたものでございました。軍はこの本の執筆者と共にその鰯の研究を行なっていたのです。天翔る鰯は人の力を数十倍にも高めてくれる酵素を持ち、目下、戦時中である軍にはその力が大変に必要なモノでした。
捉えるには能力というものが必要でございます。
本を見つけられる能力が初等。
空を眺め鰯の群れをお捉えるのが中等。
鰯を捕まえる事ができるのが大等。
などと呼称されております。全てがこの本を読むことにより発芽する能力でございまして、大等には鰯を惹きつける能力が備わるのでございます。
お分かりでしょうか、私は今、年老いて輝きを失い力を失いかけた胸が、張り裂けんばかりに躍動しております。
お書きになられた内容に狂喜乱舞しているのでございます。研究所は体裁こそ変わりましたが、日章旗より星条旗の元に研究は引き継がれ、私も所長として励んでおりますからご安心ください。
担当官がお伺いしたしますのでご協力ください。お会いできる日を心待ちにしております。
草々
魚 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます