雨と風邪

 ああなる前はどうしてたんだっけ。今日に限って雨がひどく、馬車が高騰したからボロボロの傘をさして帰っている。頬を伝る水滴が涙か雨かわからないくらいに僕の心はやつれていた。

 馬車が水溜まりを蹴った。それが顔にかかった。散々な日々の初めを知らせる音が鳴った。あれは僕を笑う向かいの貴族夫婦たち。

 時計塔の文字は午後九時。いつもなら自宅についている時間なのに、こうも遅いのは馬車のせいだけではないらしい。僕は見つけた公園の屋根の中に座る。

 先客がいたようだ。ずいぶんとひどい服で寝そべっている。男は長い髭を掻きながらこちらを覗いた。


 「今日は冷たい雨が降るなぁ。そこのあんたもそうだろう……すまないね。すぐに退くよ」


 男は得体が知れない。優しそうに振舞うものの、薄汚い服装だった。隣りに座れば何か悪いものをうつされるような汚さだった。だから諦め、無視して帰ろうと思ったのだが、足はちゃんと疲れていた。どうせ僕はしばらく以上に休みだ。ならここで休んでもいいだろう。僕は座った。

 雨が水溜まりを何度も弾いた。その水滴が僕の靴を何度も叩く。馬車は向こう、電灯と人混みの道を通り過ぎていく。湿った風が顔を煽る。僕はどこか失ったこころの、その穴に漏れてくる水滴を払った。靴の中に入ってきた水を出すように。

 男は長い髭を掻きながらこちらを覗いた。


 「あんた。仕事は? 儂はこの前まで教師をやっていた」


 僕は失礼と知りつつ首を振った。男は「そうか。残念だったな」と一言だけ返した。居心地が悪くなったのか、タバコを寄越してきたが、これも首を振った。

 男は「じゃあ、これをやろう」と飽き足らずまた出してきた。何であってもこうなれば断る気分になっていたから、首を振った。男はおもむろにがっかりした。がっかりしてその飴のついた棒を咥えた。


 「こりゃあ、子供がくれたもんで。結構特別なもんを譲ったつもりなのに。ああでもまだ間に合うぞ。もう一本あるから」

 「いらないです」

 「ああそうかい」


 公園の木の陰からピエロの恰好をした不審者がこちらを覗いていた。男に恨めしい視線を送りながら指を咥えていた。男はちょうどどうでもいい話を雨雲に浮かべていたからピエロは血走った目で指を喰らい始めていた。

 僕は男の話を訊くつもりはなく、こんなみすぼらしい人間が何を言っても価値が無さそうだから、ただ水溜まりを見ていた。すると男の声量がだんだんと上がってきて、参ったからちゃんと訊くことにした。


 「だからね。うちの孫が儂のタバコを勝手にフライパンで焼き始めてね。さすがに儂も叱ったんだ。そしたら孫が泣いてしまって、あと婆さんにタバコを吸う方が悪いと怒られて、ここまで逃げてきたんだ。この歳になっても子供に厳しくしすぎるなんて情けないもんだよ。雨がひどく甘い」

 「いや、それは孫が悪いですよ」

 「そうだな。でもそれを産んだのは儂の子で、その子を産んだのは儂だから結局儂が悪い……って婆さんによく言われるからなぁ」

 「いや、それは婆さんが悪いですよ」

 「そうなんだけど。でもそれを選んだのは儂だからな……って婆さんに言われるからなぁ」

 「いや、それは婆さんが悪いのでは」

 「そうなんだけど。でもそれを選んだのは……」


 この男は壊れているのか。また僕は負けて「じゃああなたが悪いです」と返した。けれども男は懲りずに「ってことはこの国か、神様が悪いってことだな」と開き直ったから、しょうもない。そのうえタバコを吹かし始めたから嫌になってきた。


 「まぁこうやって煙ひとつ咥えれば楽になるもんだからいいんだけどな。あんたはそうじゃないようだから大変そうだ。え? 高いから吸わない? ってことはこの国が悪いってことで」


 僕は腹が立っていた。公共の場で好き勝手している男に。僕はあてつけに「なんでも人のせいにするのはよくないですよ」と云った。たばこを吸ってさらにイライラすることもあると知らしめようと。それがこの男は最悪で「では二本」ともう一本咥え始めた。僕はもう何も言わなくなった。


 「君はまだ神様なんかを信じているのか? でなかったら全部人のせいだろう。ではないからこそ、自分のせいにしたりするんだろう。儂はこう人のせいにするけれども、実際は一喜一憂に過ぎず、行動までする元気はもうない。もう体力が無いとわかっているからな」男は煙で顔を隠した。


 くだらない男の話は聞き飽きた。自分より年上への尊敬はなくもないが、それを甘んじて傲慢にふるまう人間と話すことはない。僕はそろそろ足も癒えてきたから歩くことにした。男は懲りずその背中へ色々と云ってくるのが余計に腹が立った。

 僕はもう歩いた。ピエロが待ってましたと木の陰から出てくるも、僕は構う気になれず無視した。

 時間を無駄にした。僕は雨の中を傘もささずに家まで帰った。そして風邪を引いて寝込んだ。風邪が治ったら、いくらかの悪夢から覚めたから、さっさといつも通りにした。

 この風邪をどこかではコロナと云い、どこかでは嫉妬と云うらしいが、いいや違う、これはただの風邪だろう。

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Avenger 緋西 皐 @ritu7869

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