詩人の死

禾子

第1話

 ずっと言葉があった。言葉は私の武器で、防具で、片思いの恋人だった。あいつらが「ヤバい」とか「エモい」とかいった目の粗いザルで仕分ける感情を、私は慎重に両手で掬い上げて、その微妙さに合わせた色の言葉で丁寧にラッピングしてあげられた。


「恐らく、レビー小体型の若年性認知症ですね。脳の中にレビー小体という物ができて、認知機能や身体の動きに障害が出る病気です。根本的な治療法はありませんので、症状に応じてそれを抑える薬を飲んでいただく形になります」

 中年の痩せた男性医師の顔は私のほうを向いていたが、目は合わなかった。合わせられなかったのかもしれない。余命は大体7年だそうだ。

 医師がかけている赤い眼鏡の半透明なフレームの中で、病的に白い蛍光灯の光がぱきぱきと砕けて綺麗だった。若年性認知症になった自分の気持ちを詩にすれば、もっといいものができるかもしれないな。私の心はまだ診断前と同じ温度を保ったまま、消毒臭い診察室をゆるゆると泳いでいた。

 

 特に、夜だ。

 私は夜が好きだった。この時間は心の平静が揺らいで、ねばついた記憶や自己嫌悪が尻尾を出すから、それを掴まえてたくさんの詩を作ることができた。私の首を絞めるような感情であっても、詩に昇華できたときは少しだけ愛着のようなものが持てた。そして、中学のとき私を笑っていた奴らを可哀想だと思えた。新月の闇に覆われた嗚咽の夜が無い人生なんて、言葉にできる感情が少ない人生なんて何の意味があるだろうか。うわぁ、根暗、キモい、臭くね?、カヨコ菌がついた、ブス、死ね。そんな日本語は、広くてつめたい私の世界を何一つ反映できていないのだ。

 ざまあみろ。お前らは、汚いだけの貧しい言葉で私を表せた気でいればいい。私はもっと高いところへ行く。台風のように鋭い風の吹く寒々しい夜空の高みこそが、私の居場所なのだから。


 そのはずだった。


 いまの夜は、症状が特に酷くなる。詩を作ろうと思い立ってペンを持ったとしても、適切な言葉がどこにも見つからない。脳がショートしてしまった。ああ、「頭に靄がかかったよう」なんて、そんな陳腐な言葉じゃ駄目なのに。言葉を考える回路は次第に粉々になっていく。ペンの先は空中をさまよって、どこにも着陸できないことを悟り、コトンと寂しそうな音を立ててテーブルの上に落ちた。


 血流が滞ると良くないそうなので、今日のお風呂では湯船に柚子の香りの入浴剤を入れた。42℃のお湯に浸かっても、緑と薄紫の血管が透けた肌は冷えたままだった。

 このままいけば、言葉が私から全部離れる。無数の小さなオレンジ色の泡の中で、入浴剤は何もできずにしゅわしゅわと死んでいく。いずれ残るものは、果たして私だろうか。


 私は言葉を使える私を愛していた。他人の笑い声が全部自分に向けられていると錯覚する日も、実際そうだった日も、言葉があるから、未来に対して希望のようなものを持ちながら眠れた。言葉は私の最愛だった。どんなにきつく捻っても水が垂れ続ける蛇口のように、大事なものがぽと、ぽと、と音を立てて零れていく。


死んでしまおうと思った。最後に、とびきりの遺書をしたためて。

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詩人の死 禾子 @takuansuki

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