南へ行きたい話(報告書)

魔法開発局のデスクにもたれかかり、部屋の主は頭を抱えていた。


「河の横断が難しいとなれば、西の海から下るしかありません。気候も海流も最悪で、船も絨毯もまともに使えないうえ、迂回ルートの中では最も時間がかかる」


そう愚痴をこぼす主任の周囲には、困り顔の職員たちが数人、黙って立っていた。


「最善案としては、やはり横断でしょうか?」

「というより、穏便にオルメリアの“文化”を避ける方法を見つけたいものですね…………熟慮は重ねましたよ」

手元の資料をめくりながらそう答える彼女の視線の先には、中央南区魔法開発局第三支部──対策魔法部門、つまり彼女の管轄する研究所に配属された新人の青年・シュインが、真っ青な顔で床に転がっていた。


「初めての開拓プロジェクトでしょう? まさか、たった三日で帰ってくるなんて思いもしなかったでしょうね」


泡混じりの唾液を垂らしながら浅い呼吸を繰り返すシュインは、遠い目をしたまま恨めしそうに呻き声を漏らし、やがてそのまま気を失った。


主任のリニーウナは、一連の症状を確認すると、病院への連絡を終え、深いため息を吐いて窓の外に目をやった。ちょうど眼下のセントラルの街はにわか雨に見舞われ、普段の鮮やかな屋根瓦の彩りが、わずかに曇り始めているところだった。


──では、シュインがこうなった経緯を説明するために、話は一週間前へと遡る。




◆1◆



シュイン・ウォスは、南の大陸を横断する列車の客室へ戻ると、出張には些か頼りない大きさのトランクを床に落として革張りの椅子へ音もなく沈み込んだ。


魔法省の権威を掲げて乗り込んだ一等車は手持ち無沙汰になるほど広い。ビロードの絨毯と穏やかな色調で統一された内装の中に、南の花だけが場違いに咲いていた。不相応の鮮やかさは人の緊張を削いでいくものだ。シュインは南国の象徴を視界から外すように少しだけ腰の角度を調整する。


杖をひと振りすると、“再提出”の札を付けられたレポートが三枚、そして主任であり、つまり彼の上司でもあるリニーウナからの未読の手紙が二通──彼女特有の、陰湿な微笑を宿した筆跡とともに、空中に現れた。

だが、これに付き合っていてはキリがない。シュインはもう一度杖を振り、宙に漂う数枚の羊皮紙を淡い光とともにしまい込んだ。


今日は、あまりに疲れる一日だった。

ようやく魔法省に来て初めての開拓プロジェクトに参加できたというのに、本来のメンバー──探査局の女性と、開発局の親愛なる同僚たち──のほかに、突如としてまったく無関係な部署の研究者が乱入してきたのだ。


しかも、その人物は中央南区魔法開発局第四支部の総合責任者。主任よりもさらに上の立場にあり、正直、言葉を交わすことすら滅多にないような地位の男である。……肩が凝るにも程がある。


そのうえ、彼が同行した理由といえば「里帰り」なのだから、シュインは喉の奥からこみ上げる文句をどうしても飲み込みきれずにいた。


「大河を越えて南へ下るルートをセントラルからつなげるために、現地の協力が必要──そういう話だろう? なら、同郷の存在がいたほうが都合もいい」


「そう渋い顔をするな」

まだ聞き慣れない低い声が、客室の扉のほうから響いた。

シュインがそちらへ視線を向けると、列車の天井に頭を擦りつけそうなほどの長身の男が、ドアにもたれかかりながら彼を見下ろしていた。


「助かります、が……しかし、なぜもっと早くにご連絡をいただけなかったのか、理解しかねます」


デンドロアスピスは片眉をわずかに上げ、赤い鱗に覆われた仏頂面を窓のほうへ向ける。流れゆく島々の景色を眺めながら、目を細めた。


「もっと早く、あの女にレポートを公表させろ」

「うちの主任は完璧主義ですから。ご存じのはずでしょう」

「その完璧主義がなければ、私も早めにお前たちと連絡が取れただろうな。それに、私は別部署の仕事に口を出すような嫌な奴ではない。……ガイド程度に思っておいてくれ」

「難しいですね」

「残念だ」


シュインはため息をつき、ビロードのローブの皺を指先で整えると、デンドロアスピスを見上げた。


中央南区魔法開発局第四支部の総合責任者にして、重力魔法則理論の権威──

魔法使いデンドロアスピスは、南の大陸にルーツを持つサラマンディドラゴンボーンの成竜であった。


「オルメリアは、少々変わった街でな。気質は穏やかな者が多いが、問題もある」

「問題?」

「頑固なんだ」


シュインは杖を軽く振り、これから向かう街──オルメリアの資料を数枚、空中に浮かび上がらせる。紙面に目を通しながら、首を傾げた。


「しかし、デンドロアスピス支部長。国民性というのは、どの地域にもあるものでは? イェレルの人々は太陽の光を浴びないせいで鬱病になりやすいそうじゃないですか」

「ディディで構わない。……そうだな。対話が成立するなら、今回も上手くやるだろうよ。魔省は」

ディディはそう言って鼻をならすとそのまま踵を返して客室を去る。去り際、「リニーウナの手紙を読んだ方がいいぞ」と言い残した為、シュインは慌てて杖を振った。

3通に増えた手紙にうんざりした顔で手を伸ばす中、オルメリアは窓の外に小さく見え始めてきたようだった。





魔法省南部開拓プロジェクト。


セントラルを中心とした魔術師たちは、未だ未踏の地が多く残る星海全土の地図を完成させるため、日々開拓の旅を続けている。

今回、シュインに与えられた職務は、その開拓プロジェクトの第162回──星海南部の大河を越える、中継拠点を南端の竜の街、オルメリアへと設けるための現地調査だった。


もっとも、厳密に言えばそれはシュインの職務ではない。今回の指揮官は、開発局の同僚の一人だったのだ。

むしろシュインは調査隊の中でも最も経験が浅く、彼が指揮を執る状況とは、すなわち他の開発局メンバーが全員倒れた時を意味していた。


現在シュインはオルメリア現地の宿泊施設でチェックインレポートその他諸々の雑用を済ませ、白い壁に縁取られた窓の向こうを飾る青空と入道雲を茫然と眺めていた。


「さて。探査局の彼女も倒れてしまったわけだが……レポートは取ってもらうぞ、リーダー?」


そう言うと一方的に杖の羊皮紙を片付けたディディは、今回あくまで付き添いとして同行しており、正式なメンバーではない。


──つまり、そういうことである。


オルメリアの病室。

同僚たちが病床に伏す中、シュインはただひとり、途方に暮れていた。


まだ辛うじて意識の残っていた探査局の局員──ユルムのベッドへ向かう。

(すさまじい体力だ。探査局って、化け物と脳筋の集まりなんだろうか?)

彼女は髪とともに伸びるアカシア色の蛇をもつれさせながら、よろよろと体を起こしてきた。

(……二回目になるが、本当にすさまじい体力だ。)


「必要なものはありますか?」

「あっ、喉乾いたんで水ほしいです! 正直、立って移動するのも厳しいので!!!」

「喋っているのは、もはや貴女だけですよ。オルメリア到着後の現地調査で、一体何があればこの勢いで全滅するんですか」


シュインは水を注いだコップをユルムに手渡し、傍らの椅子に腰を下ろした。


「と言っても、調査自体は滞りなくって感じです! うわーでっかい川だー! ってなって、川の水もおいしかったです! 開発局の人には怒られました!」

「それは良かった」


シュインは指先をとんとんと叩き、平静を装いながら続きを促した。


「私は宿泊施設と荷物の管理、それに主任への報告で外に出なかったので、その“滞りない調査”の一連の流れを詳しく知りたいんです。報告を」

「うーん……まだ民間の人のお話を聞いたのと、土地のざっくりした印象くらいしかわかってないです。中継拠点を作るって話にも、みんなそこまで嫌な顔してなかったですよ! 賑やかになるって喜んでました。土地の毒性や周辺生物も問題ないし、ちょっと乾燥ぎみなくらいで……」

「聞けば聞くほど、倒れた理由が不明なように思えますが……。彼らの話で、何か気になった内容はありませんか?」

「…………そうだな……あ、ひとつだけ。調査した今日と昨日は、特別な日だって聞きました」

「特別な日?」

「さばすーへん? みたいな……現地の言葉を訳すなら、そうだな〜」


ユルムはそのまま限界が来たのか、ベッドに倒れ込むように横になると、シュインに顔を向けて言葉を続けた。


「餓旅喪(サヴァ・スー・ヘン)。セントラル文字に直すなら、そうなります!」

「意味はわかりますか?」

「まだ。でも、探査局のみんなを呼んだほうがいいと思います! 皆さん、調査を終わらせるためなら命を落としてもいいってタイプの人しかいないです!」

「探査局ですからね」

「はい! 探査局です!」

「じつに馬鹿らしいアイデアをありがとうございます。………餓旅喪については、こちらでも調べてみます。余計なことはせず、安静にしていてください」

「安全性を高くする感じで、調査計画を出します?」

「却下します。倒れた方々はセントラルに帰します」

「そんなあ…………」


シュインは小さくため息をつくと、静かに席を立ち、ベッドを背にして病室を後にした。


明るい病棟の廊下には穏やかな音楽が流れていたが、それとは裏腹に彼の纏う空気は重く沈んでいた。

どちらにせよ、まずはディディに餓旅喪について聞くべきだろう。彼はこの街の出なのだ。


ディディの自宅は宿泊施設から程近かった。足早に幾つかの信号を超えて高台へと登り、書斎へ通されればそこに彼は寛いでいた。

「シュイン研究員、私は言ったはずだ。問題があると」

ディディは自室の椅子を回し、シュインの方へ向き直った。


「確認不足で申し訳ありません。それで──なんなんです? この街の“特別な日”というのは」

「サヴァスーヘンは、オルメリアを含む南国家に伝わる“選日文化”のひとつだ」

「選日……?」

「確か、ボルシュバのさらに東にも似たような文化があったはずだな。古くから暦に書き込まれてきた注釈のようなもので、この曜日は戦に良い、この日は祝事に良い、この日は運が悪い……といった具合に、日ごとに定められている。いわば占いの一種だ」

「実害は?」

「あるわけがない、と言いたいところだが。実際にお前たちが倒れたのは、この“餓旅喪”にまつわる文化が原因だろうな」

「失礼を承知でお聞きしますが……その、本気ですか? たかが占いで人が倒れるなんて、たまったもんじゃない」


シュインが眉間に皺を寄せるのを見て、ディディは静かに頷いた。


「“餓旅喪”の日は、旅人をもてなさねばその家は滅ぶ──そういう言い伝えがある。オルメリアで客人をもてなす際に使われる食材は、“ドラゴンベリー”という」

「……ディディ、まさか」

「この地域特有の果実だ。竜種が好むほどの強い甘味を持つが、大半のヒューマン種にとっては有毒物質になる」


そう言って、ディディは手の中で転がしていた赤い果実をシュインに見せた。


「お前、到着してしばらくはセントラルから持ち込んだ保存食で済ませていたな。……今日のホテルのバイキングは、食ったのか?」


そう言いながら果実を口の中へ放り込むディディに、シュインは思わず悪態をついてしゃがみ込んだ。

先ほどからじりじりと増していた胃痛の正体に、ようやく合点がいったようだった。



◆2◆



──倒れたシュインおよび開発局・探査局の全員を病院に搬送してから、数日後。

リニーウナは会議室に集まった開拓プロジェクトのメンバーへ、事態のあらましを説明していた。


左隣には、階級が自身より二つ上の管理職──デンドロアスピスが座り、その隣には第三支部の支部長、つまり直属の上司が魔法杖を忙しなく動かしている。

会議室の奥側には、第二衛星支部の所長が足を組んで控えていた。この二時間の会議のためだけに、わざわざ月からここまで飛んできたのだ。


探査局の南西調査局長は欠伸を噛み殺しながら、半ば睨むように資料を見つめ、時折杖を動かして今回のプロジェクト遅延によるスケジュール調整を行っている。

少し遅れて、探査局の現地調査員であるユルムが、自身の上司を引き連れて駆け込んできた。


「では、全員揃ったようですので──ここから先の“餓旅喪”に関する影響および詳細については、開発局第四支部総合責任者、デンドロアスピス魔法使いにご説明いただきます。よろしくお願いします」

「はい。では、ここからは私が」


ディディは軽く会釈し、立ち上がった。


「“餓旅喪”とは、南方の竜種を主たる文化圏とする地域で“凶日”とされる暦注のひとつです。この日に遠方から旅人が訪れた際は、近隣に自生する“ドラゴンベリー”を用いてもてなす──それを怠れば、その家に災いが及び、自分だけが栄えるという言い伝えがあります」


第三支部の局長が挙手した。

「該当日は、いつになるんですか?」

「配布資料の2ページ目をご確認ください。毎月1日から2日──1・4・7・10月は“赤鱗の日”、2・5・8・11月は“黒鱗の日”、3・6・9・12月は“金鱗の日”が餓旅喪に該当します」


続いて、第二衛星支部の所長が顔を上げた。

「3ページ目にある“年間餓旅喪”とは?」

「一部地域では、“黒鱗の年”に限り、一年間まるごと餓旅喪が続きます」


会議室がざわめいたが、二秒ほどで再び居心地の悪い静寂に包まれた。

ディディは表情を変えぬまま、一拍置いて淡々と続けた。


「この迷信の厄介な点は、“自分は無事だが周囲に被害が及ぶ”という内容にあります。噂を信じていなくとも、外聞を気にしたり、家族との不和を避けるために風習として受け継がれ、伝播していったのです。

また、ドラゴンベリーの毒性はヒューマン種の場合、最長でも三日で解毒可能である──という点も、迷信を助長しています」


「“もてなさねば裏切り者”というローカルルールが、街全体に根付いているわけか」

南西調査局長が苦笑交じりに呟く。


「はい! 保存食をたくさん持って行く、というのは駄目ですか?」

ユルムが挙手したが、ディディは首を横に振った。


「外から来た旅人たちが一斉にもてなしを拒めば、オルメリアの人々に強い反発が生じるでしょう。中継地点の建設には、深い不和が残ります」

「しかし、オルメリアを中継地点にしなければ、大河を越えるのは難しいかと」

リニーウナが眉間を押さえながら言う。


「現時点でオルメリアを経由せずに南下した場合、プロジェクトが一年以内に完了する確率はどの程度ですか?」

「……回答はしかねます」


ディディはそう言って静かに着席した。


「……しかしながら、オルメリアとセントラルの間に大きな繋がりが生まれるであろうこのプロジェクトを、私としても成功させたい。

我々としても、協力を惜しむつもりはありません」



会議が終わり、またいくばくかの時間が過ぎた。

リニーウナはコーヒーを啜りながら、眉間に皺を寄せ、机に広げられた数冊の魔導書と大量の羊皮紙に向き合っていた。


彼女が普段愛飲するボルシュバ産のダージリンから、深煎りのコーヒーへと燃料を切り替えるのは仕事が普段にも増して苛烈になった証拠であると、研究員たちの間で広く知られている。


ノックの音が響き、リニーウナは手を止めて顔を上げた。

扉の向こうには、探査局の男が立っていた。


「ルー! 何かありましたか?」


ローブをきちんと着込み、長い髪を束ねた長身の男──ルー。

彼はリニーウナの夫でもあった。


リニーウナは予期せぬ訪問者に緊張の面持ちを緩め、思わず頬を綻ばせる。

椅子を鳴らして立ち上がると、慌ててルーの胸元に飛び込んだ。


「なんだ、仕事がよほど忙しいようだな。邪魔したか?」

「いいえ、いいえ! 休憩は必要ですね」


リニーウナはルーにしがみついたまま頬を擦り寄せ、少し息を弾ませながら言った。

「会えて嬉しい。どうかしましたかね?」

「探査局からの言伝だ。あまり聞いて嬉しい内容ではないぞ」


その言葉に、リニーウナは小さく「ああ……」とため息を漏らした。


会議の結果、決定した開拓プロジェクトの方針はこうだ。

《餓旅喪に該当する日を把握し、それを避けて調査・建築・開拓を行う》


もちろん、月に一〜二度発生するその日を特定することは可能だ。

だが、餓旅喪の日を避けるようスケジュールを組み直すのは、現地活動を主とする探査局にとっては大きな負担となる。


結果として、会議の議長を務めたリニーウナは、この数日間繰り返し説明責任を問われ続けていた。


「リニーウナはよくやっているよ」

ルーはそう言いながら、優しく彼女の背を撫でた。


リニーウナは小動物のように短い泣き言をいくつか漏らし、申し訳なさそうに夫を見上げる。

「ごめんなさい……一度決めたことですし、これ以上の方法が思いつかないんですね。

スケジュール調整が大変なのは分かっています。だから、ルーからも探査局の皆さんに伝えてくださいね……」


それを聞いたルーは、「構わんよ」と穏やかに答えた。

そして内心で──そろそろ主任には、少し息抜きの時間を与えた方が良さそうだ──と、静かにそう思った。



◆3◆



「それで……次の調査日が今日なんですよ。ここまで進んだので、ようやくお休みがいただけたんです」

「やっとか?」

「お疲れ様をどうも」


そう言いながら、机に広げた星海地図の下辺を指でなぞるリニーウナは、ようやく一息つけたというような安堵の表情をしていた。

セントラルで彼女がよく足を運ぶお気に入りの場所──それは開発局から少し離れたウエストウイングにある小さなカフェだ。

休日の昼間は混み合うが、午前中はほとんどがらんとしており、常連らしき魔術師がひとりコーヒーを啜っているだけである。


「インプンドゥールの休憩室? 変わった名前」

「少し路地の方にあるのも魔女の隠れ家みたいでしょ?」

「気に入るのも納得って感じだな。雰囲気もなかなかだけど、味が特に最高」

「手作りらしいですよ」


「なるほどね」と言いながら、地図の右側から覗き込んできたのは、彼女のボードゲーム仲間でもある友人のソールだった。

リニーウナの左隣には脚を組んだルーが座っており、向かいにはソールの紹介で呼ばれたピクシー種の男が、頬杖をついて話を聞いている。


「オルメリアって、そんなに人口の多い街じゃないでしょう。ピクシー種なのに詳しいんですか?」

「南の海沿いならね。噂好きなんだよ」

男はそう言って杖を軽く振ると、何枚かの羊皮紙を地図の上に重ね、話を続けた。


「ちょっと!」

「サヴァスーヘンは、もともと六百年ほど前に広まった迷信だよ。由来も曖昧なんだけど、後になってこじつけのように付け足された逸話があってね。地元の人たち──特に歴史好きの連中が持ってる資料に残ってるんだ」

「六百年も!?」

「そ。噂なんてほとんど流行り神みたいなものでしょ? でも性質が悪くてね〜、生き残って広がって、もう収拾がつかなくなっちゃった」

「固着してるんですね……」

「そうそう。まあ逸話の内容はどこにでもあるような話だよ。昔々あるところに仲の良い家族がいて、そこに訪れた旅人の身なりが見すぼらしかったから、粗末に扱った。旅人はオルメリアで倒れて帰らぬ人となったけど、その家族を祟った〜〜〜って、そんな話」

「……わざわざ有毒な果実を使う必要はない、って街の人々が気づいてくれるといいんですが」

「六百年も続いた風習だろ?」

横からソールが口を挟む。

「代わりの食材を使うにしても、どうせ現地の縁起物を代用にするだろうしな。竜種が好む食材なんて、だいたいヒューマン種には毒だ」

「とにかく、良いアイデアが思いついたら教えてくださいね。毎日、南国の因習の話を聞かされて頭がパンクしそうです」


そう言ってリニーウナは、手にした温かいカップをそっと口に運んだ。

紅茶を一口啜ると、彼女の杖が淡く光を放つ。


──魔省からの連絡だ。


『開拓プロジェクトの調査隊、同症状により全滅。セントラルに帰還中』

「………………はあ?」


リニーウナは勢いよく席を立った。

「どうしたの」と尋ねながら羊皮紙に浮かんだ文字を覗き込んだソールは、「うげ」と短く声を漏らし、哀れみのこもった目で彼女を見送った。

向かう先は――もちろん、我らが麗しの開発局である。


探査局の先行調査とディディからの情報提供によって、餓旅喪の日は本来、今週末に当たると把握されていたはずだった。


第三支部へ駆け込むと(休日出勤だ)、ちょうど同じ連絡を受けたらしいディディが、私服のまま反対側の入口から大股で入ってくるところだった。(休日出勤二号である。)


ディディはリニーウナの顔を見るなり、眉間に皺を寄せて近づき、彼女の隣にしゃがみ込んだ。

これは彼の紳士的な気遣いからではなく、単にリニーウナが非常に小柄で、立ったままでは声が届きにくいと判断したからだろう。


「何が起きてる?」

「こちらが聞きたいですよ。オルメリアって、特別な一日どころか、毎日旅行者に毒を盛る街なんですか?」

「まさか。ヒューマン種の弱点が胃であることくらい、ドラゴンボーンなら誰でも知っている」

「シュインとユルム、復帰してすぐ今回の調査に行ったはずですよね。二人は――?」

「今、杖で連絡を……。ちょうど今だ、繋がっている」


ディディが杖を軽く揺らすと、一枚の羊皮紙にインクが滲むように像が浮かび上がった。列車の中で同じく杖を構えるユルムの姿である。

彼女は息も絶え絶えといった様子で肩を上下させ、背後ではシュインが完全に意識を失って倒れていた。


「ユルム、原因はドラゴンベリーじゃなかったんですか? 日にちはずらして向かわせたはずですよね」

「はい! その……本来の定められた餓旅喪は避けられていました。その……」

「その?」

「現地では、“隠れ餓旅喪”とか“裏餓旅喪”っていう、暦に載っていない日もあるらしくて……」


ディディとリニーウナは、たっぷり一秒ほど固まったのち、息を合わせたように文句を言い始めた。


対策魔法部門へ向かいながら、二人は同時に口を開いた。


「ディディ! 今回ばかりは共有不足にも程がありますよ。どうしてこんな大事なことを黙っていたんですか!」

「言うとも、報告するに決まっている――もし私が把握していたのならな!」

ディディもリニーウナの圧に負けじと、噛みつくように言い返す。

「愛しき我が故郷を離れたのはおよそ二百年前だ! その間に新たなルールが追加されていたなど、誰が想像する? 二百年だぞ、たった二百年! 赤子が学校を出るようになるまでの短い期間で暦が変化するなんて、想像できるか!」

リニーウナはすっかり余裕を失っている。今にも杖を床に投げつけそうな様子だ。

「信じられない…………」


「隠れ餓旅喪の法則はどうなってるんだ」

うんざりした様子でディディが尋ねると、羊皮紙の紙面からユルムの困った声が返ってきた。


「ルールが四つほどあるらしくて……」

「ボードゲームか何かの話をしていらっしゃいます?」

「本来の餓旅喪の日の間に、“餓旅喪になり得る”赤鱗の日と黒鱗の日というのがあって、それが該当するらしいんです」

「何?」

「どういう……ああ、えっと……」

「月を跨いでも発生するらしくて、つまり具体的な例を挙げると――一月末の餓旅喪に該当する赤鱗の日と、二月初旬の餓旅喪となる黒鱗の日。その間にある赤鱗の日が“隠れ餓旅喪”なんだとか」

「流行らなかったタロットバトルの話ですか?」

「二月は黒鱗が凶日だろうが」

「はい、なので……ええと……」


ユルムの声は心底困ったように続いた。


「“隠れ餓旅喪”は、おそらく暦のルールを知らない地元の人たちが考えた、法則に破綻のある新しい迷信みたいです」


リニーウナは今にも倒れそうな表情で顔を覆い、人生で一番深い溜息を吐いた。



◆4◆



「…………それで、結局どうなった?」

「年間・日別・隠れ──三つ巴で襲いかかる、有害風習な」


そう言って笑いながら、ソールは蓄音機についた目盛りをカチカチと弄っている。

蓄音機──のように見えるその魔道具は、星海星系では「蓄音ラジオ」と呼ばれる放送受信機だ。

ソールの隣では、ルーが足を組みながら紅茶を啜っている。二人はどうやら同じ番組を聴いているようだった。



『……で、その魔省の職員さんが文化発祥の地まで行って、いろいろ聞き書きしてきたんだってね〜。

これはもう、“誰も知らない大発見だ!”って思ったら――既に報告済みだった、らしいんだよね』


ラジオから流れるのは、アルハンブラ海上に放送局があると噂される人気パーソナリティ、

ノイズピクシーによる海賊番組『エコーズ・オブ・ザ・ノイズ』の放送だった。

そのやや中性的で柔らかな声は、音量を上げずとも耳に届き、聞く者の意識を離さない。



『資料が……ああ、これだな。先人の貴重な報告を、みすみす見落としていたというわけだ』


本日は特別ゲストが来ているらしい。

ややくぐもった低い声――ディディのものだ。


『そうそう。なんと黒時計さんたちが先に調査してたっぽいんだよね!

……ああ、セントラルに来たばかりのド田舎リスナーのみんなのために説明すると、黒時計ってのはね〜、魔法省の管轄下にある調査組織で、金銀と違って経済や金融の研究をしてるところなんだ。

セントラル金融公庫さんとか、あの辺だね』


『餓旅喪は観光客への健康被害や食料購買の不信を招く。つまり、経済的にも損失の大きい風習というわけだ。

彼らが警戒していたのも頷ける』『管轄が違えば、調査にも時間がかかるものだ』


穏やかなBGMと波音の中、スタジオには笑い声が混じる。

放送局内には普段と違うものが二つあった。

ひとつは、窮屈そうに椅子に腰を下ろすサラマンディドラゴンボーンの姿。

もうひとつは、二人の前に浮かぶ一枚の大きな羊皮紙――

そこには対策魔法部門からの映像が映し出され、部屋の中で固唾を呑んで見守るリニーウナと研究員たちの姿が投影されていた。





『それで、このうっとおしい迷信を打ち破るための対策を編み出していたんだな』

ディディの言葉に、パーソナリティは嬉しそうに返す。


『そう。それも、地元の人たちがね』

『オルメリアの一部地域では、日別の餓旅喪は暦で避けるようにされていた。

だが年間餓旅喪については――餓旅喪の年に入る前の年、宿泊予定地へ“呪的な人形”を郵送することで祟りを避ける習慣があったらしい。これが“仮喰らいの神事”と呼ばれているようだな』

『つまり、旅に出る日を“偽装”しちゃうわけだ』


なるほど、とルーとソールは面白そうに頷いた。


「配送者は旅人としてカウントされない、というわけか」

「自国民はセーフってことだろ? そりゃ外からじゃ気づけないわけだよなぁ。事前に送っておけば大丈夫、っていうのも、まさにローカルルールだ」


ラジオからは、家庭でも再現可能だという“魔呪人形”の作り方が丁寧に説明されていく。


『そもそも────』

ディディがほんの少し間を置いて語り始めた。

『最も古い時代の言い伝えによれば、餓旅喪の起源は〈河領喪(サバ・スゥ・ヘー)〉──すなわち “河の領を喪うな” という言葉に由来するとされている。つまり、河周辺の生命体を保護するため、国が定めた但し書きが誤って伝わっていった、というわけだな』


対策魔法部門でこの言葉を聞いたシュインは、ユルムと顔を見合わせ、緊張ぎみに身を縮こませた。

それは昨夜、二人でようやく捻り出した同音異義語であり──はっきり言って、大嘘以外の何ものでもない。


リニーウナとディディにこの言葉を提案した時、二人は少し驚いたような顔を見せてから、それぞれの研究室に引っ込み、しばらく類似の事例がないかを調べていた。そして戻ってきたとき、「良いでしょう(面白い)」と、ほとんど同じ表情で答えたのだ。

その瞬間は“しめた”と思ったものの──今この時、シュインの胸を占めるのは、ただただ不安ばかりであった。


『当時のオルメリアでは、大河に生息する魚の乱獲が相次いでいた。それを国が憂慮し、“果実を育み、自国の民と人々に振る舞うように”と通達を出したのだ。現在でも屋台でその魚は食べられるがな』

『あれ、ヒューマンでも食べられるんだったよね?味は何に似てるんだろうな〜』


シュインの不安を知ってか知らずか、ディディは淡々と、まるで自らをも欺くような声色で“新たな迷信”を語り続けた。


ノイズピクシーのパーソナリティがこの放送を取り上げる際に提示した唯一の条件は、ディディ本人の同席だった。

オルメリア出身にして、魔法省支部の総合責任者であり、また著名な研究者でもあるサラマンディ=ドラゴンボーン。

彼がそう語るのなら──と、新たな迷信が根付くことまで計算していたのか。それとも、ただの気まぐれだったのか。


パーソナリティはそのまま文化発祥にまつわる言い伝えや、今日の一曲、そしてファンレターの読み上げなどを滞りなく進行し、やがて静かにマイクのスイッチを落として放送を締めくくった。


『…………ああ、これ。まだ対策室の方とは繋がってるんだよね? 今ちょうど放送を聴いてたオルメリアの人からファンレターが届いたよ。読み上げようか』


そう言って、彼はかさかさと細い指で一枚の紙を広げた。




『こんばんは、アーサーさん。そしてディディさん。

いつも放送を楽しく聴いています。こちら、オルメリア南部の〈ミルタ村〉からお便りします。

実は私の村にもあるんです、隠れ餓旅喪。子供の頃から祖父母には旅人さんには飯食わせ、食わせにゃ家族が飢え死んぞ、なんて脅しみたいに言われていましたね。あれも今思うと祖父母だって本気にしてたわけじゃないんだと思うなあ…


こんな事人前じゃ言えないんですけど、実は小さなヒューマン種が村に来た時、私の家に泊まった事があるんです。その時私、貰ったものは食べちゃダメだよって言った事があります。


さて、その結果ですが…私の夫も、私も、私の子供も、めちゃくちゃ元気に生きてます(笑)


なぜこの手紙を書いたかと言いますと、数年後にまた餓旅喪の年がやってくるみたいなので、そんな迷信は何も気にすることはないですよ~!という事を皆さんに伝えて貰ったのが嬉しかったんです。

セントラルの中継地点が近くにできるって噂、もうアーサーさんなら知ってそうですね。きっと旅人でいっぱいの、賑やかなオルメリアになると思います。私はそれが楽しみなんです!


それでは、星の海の向こうから届く素敵な放送を楽しみにしています。


――ミルタ村 箒乗りのファングッズが作りたいさん  より!』




アーサーの読み上げを聞き終わった瞬間、対策室の研究者たちは椅子から飛び上がり、歓声を挙げて抱き合った。

リニーウナはゆっくりと通信用の杖を下ろし、部下たちの方に振り向く。少し離れた席では、シュインと同僚たちがもみくちゃになりながら勝利の喝采を上げている。

彼女は小さくため息を吐くと、「やっと眠れる」とでも言いたげに伸びをし、机の上に上半身をぺたりと乗せて穏やかに目を閉じて…それから、間抜けな鼻息とともに、夢の世界への小旅行を始めた。


シュインは両手で頭を抱え、耳まで真っ赤にして同じ言葉を繰り返す。

「信じられない、これで南へ行ける」

「南へ行ける!地図が広がる、南へ!」


一方、放送を切ったラジオ局からセントラルに戻ったディディは、落ち着ける場所を求めて偶然にも(果たして本当に偶然か)ルーとソールのいるカフェテリアに辿り着いた。


「デマを流した謝罪用の台本でも作っておくのか?」

「まさか。良い仕事をしたと言ってくれるか」

にたり、と笑いながらそう返す。


カフェラテを頼み、席に腰を下ろしたディディに、ルーは少し思考を巡らせてから机に頬杖をつき、彼の顔を覗き込む。


「そう言えばお前は最近、ハーフリング種の妻ができたんだったな。オルメリアに連れて行くのか」

「両親に会わせてやらなければ。ちょうど良いタイミングで、厄介な迷信が打破されそうで助かったよ。家内は小さくてか弱いからなぁ。毒など盛られて死なれては困る」

そう言って何事も問題なし、とばかりに竜の尾を揺らす。窓から望むセントラルの街並みは普段通り、鮮やかで心地よい喧騒に包まれている。


「我々だけではないさ。中央、北、西、東の者たち。総じて快く通過せよ。通れば良いとも。

最早、魔術の徒を止めるまやかしなど存在しない」

「少なくとも今はな!」

そう言って、大きく口を開けて竜は笑った。


今日も賑やかで、また面倒な一日が始まるだろう。仕事をこなす人も、旅にはしゃぐ人も、噂を流す人も、信じる人も。皆、何かしら話している。口から出るのは、自分が信じたことも、信じないこともないまぜに。


素晴らしきかな、今日だって世界は言葉に満ち溢れているのである。

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