第13話【君がいない】③
一時間ほど経った時、ふとグリフィスはトロイが戻って来ていないことに気付いた。
彼が出て行った、ラウンジの方に行ったが、姿が無かった。
側にバーカウンターがあり、今日は使われて無かったが、中でスタッフが掃除をしていた。
「トロイさんがどこに行ったか、知りませんか?」
「三十分ほど前に、展望台の方に上がって行かれましたよ」
「展望台?」
携帯を掛けようとしたがそこのエレベーターから行けます、と教えてもらい、グリフィスは上がって行った。
展望台は温室があり、夏はさぞや暑そうだが陽射しの落ちたこの夜は風が吹き込んで、温室の側の通路と、それに並んで作られた水路を涼しそうに通り抜けていた。
歩いて行くと、上海の夜景を見下ろす端のベンチにトロイが深く腰掛け、足を伸ばしていた。
「トロイさん」
声を掛けると、トロイが振り返った。
「……あ……すみません。携帯が繋がらなかったもので」
すみません、と思わず言葉が出たのは咄嗟に何かを、自分が邪魔したように思えたからだ。
だがトロイは軽く笑って立ち上がる。
「展望台の景色が綺麗だって聞いたから。風があって涼しいから落ち着く」
「お疲れですか? なら、部屋に戻って休んでいいんですよ。
スタッフにあまり気を遣わないでください。貴方はいつも打ち上げの最後までいようとしますけど、そんなことを気にする人もうちにはいませんし、いいんですよ」
「うん。今日はそうしようかなぁ」
トロイはそう言ったものの、手摺に手を掛けて、じっと煌びやかな夜景を見つめていた。
数時間前の、バンドメンバーと床で転げていた空気とは全く違う。
沈黙が落ちたが、グリフィスは自分から何故か喋れなかった。
「……グリフィス」
呼ばれた時、らしくなく、心臓が跳ねた。
「……はい」
トロイの後ろ姿を見つめる。
ライブの時と同じだ。
いつもの陽気なトロイ・メドウじゃない。
自分自身の内に秘める感情や、想いや、自信や情熱と向き合おうとした時の、近づきがたいような空気を感じた。
「アルがこのまま、親父の事務所に移ったらさ」
何を言われるのか見当もつかなかった為、アルノー・イーシャの名前が出た時は少し緊張した。
驚きもあったが、同時にやはりアルノーのことなのだ、という納得もあったように思う。
「親父との仕事とか増えて、……そのたびに、またあいつがいるからとか、アルノーに会えなくなったりするのかな」
え? と固まっていたグリフィスは瞬きをした。
「……。」
トロイが押し黙ったから、グリフィスは自分が喋らないといけないんだ、と気づいた。
「いえ……、そんなことは」
トロイとアルノーが会えない最大の理由は、間違いなく多忙が原因だ。
二人とも一カ所に留まるということが極端に少なく、特にアルノーの方はクライアントに合わせて行動もする為、自分の意志でスケジュールを調整するということができないことが多い。
確かに、マスコミは複雑な親子関係にあるジブリルとトロイを、そして彼らに仕事のパートナーとして尊重されているアルノーとの関係性を、ゴシップとして騒ごうとして周囲をうろついてはいる。
だが一緒に番組を始めた以上、「仕事のパートナーになる」というハードルはもうクリアしたのだ。
それに事務所の社長であるバリーはアルノーとの交際をきちんと把握し、許可しているし、会うな、などとは言ったことは無い。
彼らのことは彼らに一任しているつもりだったので、そう言われてグリフィスは戸惑った。
「でも……」
トロイが俯く。
「また、コソコソ照らし合わして会ったりしなくちゃならなくなるのかな」
「トロイさん?」
恐る恐るグリフィスは数歩、近づいた。
そしてぎょっとする。
「えっ。嘘ですよね? 泣いてます?」
もっと言い方があったと思うが、心底驚いたグリフィスは思わずそんな言い方をしてしまった。
「……別に泣いてねえ」
トロイが手摺に顔を伏せた。
一瞬頬が濡れているのが見えて、そんな子供じゃあるまいしと思いかけて、それから……グリフィスは全身の力が抜けた。
子供じゃないから泣いてるのだ。このひとは。
こんなこと、で。
(言えない言葉を、飲み込んでいるから)
笑ってやろうかと思った気持ちが冷めて、グリフィスの胸に罪悪感が芽生えた。
「トロイさん」
もう、真剣な気持ちだった。
自分の担当しているアーティストが、泣くほど苦しんでいることが分かったからだ。
トロイの背に手の平を触れさせる。
「トロイさん。聞いてください。
そんなことはありません。
うちの社長は貴方とイーシャさんの交際を反対なんてしていません。
理解していますし、好きにしていいといつも言っています。
貴方がイーシャさんとの交際を世間に対して隠したくないのなら、公表していいんです」
小さい嗚咽が聞こえた。
(この人はいつも笑っているから)
例えマスコミの目をかいくぐってするような恋愛でも、会える限りある時間を楽しんでいるように見えた。
アルノーに会えば嬉しそうな顔で戻って来たし、想われていることも感じられていたはずだ。
遠距離恋愛でさえ、楽しそうに見えたから、見逃してしまっていた。
「そんなに我慢していたんですね」
トロイはアルノーの事務所の移籍の話も、彼の背を後押ししたという。
多分、完全な虚勢というわけではなかったはずだ。
それはアルノーが、前にそう言っていた。
もしトロイ・メドウが完全な虚勢を張っていれば、それはアルノーには分かる。見抜ける。
本当に恋人が仕事の岐路にある時に支えてやりたいと思ったのだろうし、背を押してやりたいと思っただろうし、背を押したのはサンアゼールのプロジェクトが、きっとアルノーにとっても撮り甲斐のある面白いものになるという確信があったからなのだ。
そういう所でトロイは嘘をつかない人だし、つけない人でもあった。
だが移籍話はこのまま上手くまとまる見込みであるようだし、実際にそうなった時の重みを感じた時に綺麗ごとではない、感情に気付いた。
背を押したことの後悔かもしれない。
そういう自分が、嫌なのだ。
我慢することさえ、楽しんでいるように見えたから。
会いたい時に会えないのは辛いけど、その分会えた時の喜びは大きくなる。
――それは、……虚勢だったのだ。
「そんなに苦しいなら、我慢することは無いんです。
トロイさん。
貴方とイーシャさんが恋人同士だと明らかになれば、誰も別に会うことにケチはつけられません。
勿論、貴方は色んな理由を考えて、今まで公表を控えていたんでしょうけど……。
でも、苦しいならやめましょう。
イーシャさんは、公表は貴方に全てを委ねるといつも言ってくれているじゃないですか。
貴方の心ひとつで、全て決めていいんです」
「……でもアルが……」
「イーシャさんは分かってくれますよ。そんなことで貴方に失望するような人じゃない。
ジブリル・フォラントと世界ツアーをしたって、あの人は何も変わらなかった。五月蝿いマスコミにも潰されなかったでしょう。
大丈夫です。あの人は強い人ですから。
もうお二人のことは公表しましょう。
もう我慢しなくていいんです。思うようにしてください。
トロイさん……、……お疲れさまでした。
もう、大丈夫ですから」
グリフィスは、言える限りのことを全て言った。
「…………うん」
随分長いこと、押し黙っていたトロイが頷いてくれた時、心の底から安堵した。
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