第10話【未来への不安】④



 蘇州そしゅうエターナル空港の複合施設内にある、ホテルが打ち合わせ場所だった。


 そこへ向かう長いエスカレーターは、古の時代より水の都として知られたこの地のアイデンティティを重視して、至る所にアクアスタイルを取り入れたその集大成として、足を止めて運ばれていれば約三分弱にもなる長いエスカレーターの上部をトンネル型にして、水槽にしているという名所の一つであった。

 一歩、足をエスカレーターに乗せた時、ふと歩こうとしていた足を止めた。


(そういえば、ここで再会したんだった)


 今でもあのごく薄い、青灰色せいかいしょくの瞳を目いっぱい見開いて、驚きの表情で「アル!」と呼びつけて来た表情が忘れられない。


(驚いてたよな……)


 ふ、と笑ってしまって、アルノーは周囲の人に気付かれないよう、エスカレーターの手摺に肘をついて緩んだ口許を手で隠した。

 アルノーはあの時全くトロイに気付いていなかったし、トロイは当時、アルノーとジブリルの関係を疑い、アルノー自身にも疑いを持っていたので、あの時彼が声を掛けてくれなかったら本当に再会はもっとずっと後になっていた可能性がある。

 数年後なんかじゃない。

 十年、

 ……自分たちが、お互いじゃない誰かを選んでからの再会だったかもしれない。

 悠々と頭上を泳いでいく魚たちを見上げた。

 でもあの瞬間。

 五年ぶりにアルノーの姿を見つけた瞬間、疑念はあっても、声を掛けずにいられなかったと、トロイは言っていた。

 まさに考える間もない、本能的な行動だったと。声を掛けようかどうしようかという悩みすら存在しなかった。

 そのことに感謝していると。


 携帯が震えた。

 取り出して文字盤を見て、すぐにアルノーは微笑んだ。

「トロイ?」

『アル』

 嬉しそうな声だ。

『蘇州についたか? 今どこだ?』

「ホテルに行く、エスカレーターに乗った所だ」

『魚がいっぱいの所か?』

「うん」

『あそこ、いいよな。なんか歩くの勿体なくなる』

 子供みたいな言い方にくすくすと笑ってしまう。

『ジェミニが到着時刻教えてくれて。あいつはもうホテルについてるよ』

「君は?」

『俺も、もう上についてる。今日は午前中にもうここに着いたんだ。昨日遅くまでリハやってて。昼過ぎまで寝た。会議の前になんかメシ食おう、アル!』

「私も朝から食べてないから、そういえばお腹が空いた」

『お前飛行機の中で食わないもんな』

「集中しやすいから仕事してしまうんだ」

『グフィー! アルと飯食って来る!』

 いいですけど、あんまりホテル内ウロウロしないでくださいよ、とグリフィスの声が聞こえた。

『んじゃアル、先に俺いつものレストランに行っとくからな。もう番組が個室押さえてくれてるから、すぐに食べれる。場所分かるか? 忘れてないか? おれ、下まで迎えに行こうか?』

『……今、ウロウロしないでくださいと申し上げたはずですが、聞いてませんでしたか? それとも私の話を聞く気がないんですか?』

「大丈夫。すぐに私も上に行くよ」

 グリフィスとトロイのいつもの遣り取りを聞きながら、アルノーは笑った。


 打ち合わせ自体は事前に各自に送信済みの番組内容の確認と、第二シーズン開始に当たって新たに加わった番組スタッフの紹介、そしてこの番組の特徴であるトロイとアルノーの年間スケジュールを踏まえてロケ地を選定するということから、現時点で決まってる大きなイベント開催地などは予め報告し、それに合わせて、その時期は大体この辺りの範囲で場所を選びたいので、各々面白い場所があったらピックアップしておいてほしい、という話をして早めに終わった。

 会議の最後に、アルノーから全スタッフに対して、報告があった。


 巷を騒がせている移籍についてだ。


 報道されているジブリル・フォラントの個人事務所への移籍は、選択の一つであり、真実であること、先方とはいい話し合いが出来ているが、最終的な決定はまだしていないこと、いずれにせよ自分は社長業を辞めてカメラマンとしての仕事に集中するつもりなので、どのような決定になるにせよ、この番組に迷惑を掛けるようなことにはならないから心配しないで欲しいという内容が話された。

 サンアゼール・プロジェクトの話は多くのスタッフの耳に入っているようで、その概要を聞きたいと質問されて、アルノーは快く答えていた。


「そうか。北欧にジブリル・フォラントが音楽院を作るって本当の話だったのか」


 面白そうだなあ、とスタッフ達が明るい表情で話している。

 そのうちに北欧の話になり、番組で北欧を取り上げるのもいいんじゃないかという話で随分盛り上がった。

 今回からトロイのツアースタッフも何人か加わっているので、一層気心が知れた感じが増した。

 あとは、番組中断していた間の報告などをして、では次回、第一回のドレスデンでの撮りで集まりましょう、という話になって終わった。


 アルノーは今夜中に華国かこくを発たねばならなかったのだが、まだ会議が終わった時夕方の十七時だったので、グリフィスが気を利かせてホテルに部屋を取ってくれた。


「少し休んでから帰って下さい」


 グリフィスはアルノーに言った。

「お前はどうすんの?」

「ジェミニさんとちょっとラウンジで飲みながら話します。貴方も来ますか?」

 トロイは「えっ」という顔をした。

 にやり、とグリフィスが笑う。

「いいんですよ。来ても。別に数時間、イーシャさんは仮眠を取って空港に出発していただいても全然いいわけですから。来ますか?」

 トロイは顔が赤くなった。

「いかねえ!」

「イーシャさんに休憩を取っていただくために取ったんですからね。貴方が楽しむためじゃないので、そこのところ間違えないでくださいよトロイさん」

「分かってらあ! 飲むならアルと飲む!」

「そうですか。じゃあ帰る時は声を掛けて下さい。イーシャさん、お気をつけて。次回の収録でお会いしましょう」

「はい」

 アルノーと笑顔で握手をして、グリフィスはラウンジに去って行った。

「アルに会えたからあいつ機嫌がいいんだ。機嫌がいいと俺をおちょくる悪い癖があるよな」

「君はからかうと面白いから」

「面白がられてもなあ……」

 やれやれ、と肩を竦める。


 部屋に付くと、グリフィスがすでにワインの用意をしていてくれて、軽食を取りながら、飲むことにした。

「事務所のこと、どんな感じだ……?」

 少し雑談をして、アルノーが落ち着いたのを見計らってくれたようだった。

 トロイが尋ねて来る。

「うん……。明後日、ベルリンでフォラントさんと会うんだ。他の仕事で行くんだけど、話し合いに来てくれるみたいで」

 アルノーは数日前にジブリルと電話で話した内容をトロイに話した。

 こちらの親会社が出した引き抜きの条件は飲んでもらったこと、あまりに好待遇で、アルノーが以前と同じように自分の意志で仕事を決定できるので、逆にサンアゼール・プロジェクトをしっかりと撮るカメラマンは別の人にした方が、腰を据えて仕事がお互いできるのではないか、と相談したことも。

 トロイはじっと真剣な表情でアルノーの話を聞いている。

「悪くない話というか……。勿体ないくらいの話だよ。ジェミニも連れて行って、もしサンアゼール・プロジェクトの話をもう一度聞いて、私自身が納得出来たら、契約の話を進めようと思ってる」

「そうか……。お前の後の……社長とかは誰にするか決まってるのか?」

「話がまとまれば、ジェミニに頼もうと思ってる。これはもう、彼には話してあるけど」

「ジェミニ? でもあいつは……お前のマネージャーだろ?」

「マネージャーというか、補佐役だ。彼は元々商社で働いてたから経営の知識はあるんだ」

「そうなのか? ……ああ、でも言われてみるとなんかそうだな。やけにあいつスーツ姿似合うよな」

「大きな会社で働いてたんだよ。でも、別の仕事がしたくなってうちの会社に入ったって聞いた。

 元々は事務方で働いてたけど優秀過ぎて何でも出来るから、自然とマネージャー業も兼任するようになってしまって。

 私が個人事務所を立ち上げる時に、社長が、ジェミニが一人いれば何役もこなすからと譲ってくれたんだよ」

 アルノーが笑っている。

「へぇ……あいつそういう経歴だったのか。なんか賢そうだもんな、いかにも」

「グリフィスさんも確か医者を目指してたんだよね」

「うん。だからあいつもすげー頭いい。けど、なんか環境合わなかったみたいだな。

 あいつの言葉を借りると、上下関係がなんか歪な割りに五月蝿いし、患者も患者で、弱った人間は叱りにくいから嫌だとか言ってた。

 確かに俺も高熱が出てる時にグリフィスの毒舌で説教されたら涙目になるかもしれん。

 医学の勉強は楽しかったみたいだけど、医療現場は合わなかったらしい」

 アルノーが頷いている。

「なかなか大学出た新社会人がそのままマネージャー業に、っていうのも大変だからね。

 本人が人生経験をしなくちゃならないのに、まず誰かをフォローし、売り込んでいくプロデュースする要素もあるし、難しいよ。

 勿論、好きな人には遣り甲斐も大きいだろうけど……マネージャーも色々な経歴の人がいるの、分かる気がする。

 その点私は最初からジェミニに会えたから、恵まれたな。彼なら社長業も安心して任せられるよ」

「ジェミニが社長になっちゃったら、お前のマネージャーはまた新しく探すのか?」

「そうだね。それも探さないとダメだね」

 メモしておかないと、やること忘れそうだ。アルノーは苦笑しながら、ワインをゆっくり傾けている。


「……。決まったら、早くそういうことは落ち着くといいな」


 トロイが言った。

「仕事のことはさ、親父がお前のやりたいことはバックアップしてくれるっていうなら、心配ないだろ。

 あとは新しい環境が整って、いいマネージャーが見つかって、落ち着くといいな。

 周りも騒いだりするだろうけど、ゆっくりしたい時は、うちに来たりして、桟橋でまた釣りしながら愚痴っていいからな。アル」

 アルノーは瞬きしてから、小さく笑んだ。

 立ち上がって、トロイの座っていた向かいの椅子に、ワインのグラスを持ったままやって来ると、隣に座って少しだけ頭を肩に凭れかけてきた。


「……ありがとう」


 トロイはしょっちゅうアルノーに飛びついたり凭れかかったり膝枕させたりしているが、アルノーが自分からこうして、甘えるような仕草を見せて来るのは非常に珍しかった。


(こいつって、自分が無茶苦茶頑張って、滅多に人に甘えない奴だからなあ……)


 そう思いながらも、少しだけそれを見せたアルノーを可愛く思って、いつも彼が自分にしてくれているように、そっと彼の頭を撫でてみる。

 

 アルノーの唇が微笑ってくれた。


◇   ◇   ◇


 一緒に番組をやるようになって良かったことは、トロイとアルノーが一緒にいても、何故一緒にいるんだ? という顔をいちいちされなくなったことだ。

 とはいえ、ジブリル・フォラントがアルノーへの片恋などを公表し、挙句の果てに「彼には他に好きな人がいる」などと言ったことから、アルノーの周りには今でもパパラッチがうろついていることがある。

 だから番組スタッフと一緒にいる時は二人で行動しても問題ないが、プライベートは未だに二人っきりで行動することは出来なかった。

 その日は本当にゆっくり過ごしたい気分だったので、部屋で二人が好きなスポーツ番組をテレビで流しながら、ソファでワインを飲みながら過ごした。

 時間が来ると、ゆっくり過ごした時間が幸せすぎて、逆に疲れを感じた。


「……もう行かないとな」


 アルノーも苦笑していたから、同じ気持ちだったのだと思う。

「……なんか……」

 二人で部屋を出ることは出来なかったから、先にアルノーが発つことになった。

 部屋の出口まではトロイが見送りに出る。


「……離れ難いな」


 トロイがはっきりと口にして、そんなことを言うのは珍しかった。

 アルノーはふと、彼の顔を見たが、つまらないことを言ってしまった、という少しだけバツの悪そうな顔をしているトロイの肩を抱き寄せた。

「うん……。でも、今回はすぐに会えるよ」

 収録は十日後だ。

「そうだな」

 トロイは何とか笑ったが、アルノーは「すぐ」と表現した十日が、死にそうなくらい遠くに感じられた。


 アルノーを見送って、部屋から外の夜景を見ていると、しばらくしてからグリフィスから、電話がかかって来た。

『たった今、イーシャさんが帰られましたけど、貴方はどうしますか?

 昨日も遅かったですし、明日のリハは朝一に出れば間に合いますし、疲れてたらそのまま部屋で休んでも構いませんが』

「お前はどうすんの?」

『私はこれから重慶の事務所に戻ります。明日、貴方がたがリハしている間にちょっと人と会わなければいけないので、その準備をしに。気にしないでください。明日朝、迎えに来ますよ』

「気にしたわけじゃないけど、んじゃ俺も重慶の方に帰るわ。事務所に泊まる。昨夜の感じ、明日リハ前にもうちょっと踊り込みたいからさ」

『そうですか……? じゃあ、これから一緒に出れますか?』

「うん。別に散らかしてないしこのまますぐ出れる。今お前、ラウンジか?」

『はい。私がそちらに行きましょうか』

「いいよ。俺が行く」

 

◇   ◇   ◇


 飛行機に乗り、座席に座ると、側のグリフィスに聞いた。

「ジェミニと何の話してたんだ?」

「色々と会社の愚痴とか……」

「マネージャー同士で愚痴を言い合うな」

 口許を引きつらせる。

「いいじゃないですか。他の会社の人だから言いやすいこともあるんですよ。

 あとはイーシャさんの新しい写真集の感想とか、あとはクロスワードもしましたよ。あの人、賢い人ですね」

 グリフィスがいつも持ち歩いているでっかいクロスワードの本を見せて来た。

『一年で十万のクロスワードを制覇する! 四巻』である。

 トロイは一瞬呆れたような顔を見せたものの、手を差し出してきた。

「?」

「貸して。俺も暇潰ししたい」

「貴方がクロスワードに興味を持つなんて、どうかしたんですか?」

「おまえというやつは……さっきまでアメフト見てて目がすっかり冴えちまったんだよ!

 お前がいつもコツコツやってるそれ貸せ!」

「いいですけど……」

 トロイがグリフィスのクロスワードに興味を持ったことなど、初めてかもしれない。

 彼は機内では音楽を聞いたり映画を見たり、それ以外の時は寝て過ごすからだ。

 なんか変だなと思いつつ、身の回りのことをして十五分後くらいに側のトロイを見ると、クロスワードの本をお腹に乗せたまま熟睡していたので、グリフィスは良かったいつも通りだなと安心したのだった。



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