第9話【未来への不安】③
「アルノー、お電話です」
マネージャーのジェミニ・メンサーが入って来る。
「ジブリル・フォラントさんから」
「ありがとう」
奥の部屋で機材の調整をしていたアルノーは、執務室に戻った。
電話を取る。
「すみません、お待たせしました」
『やあ。今日は事務所にいたんだね。良かった。君の引き抜きの件、社長と話したよ。そちらの条件は全て飲めるから、待遇は満足してもらえると思う』
「そうですか。……すみません」
『なんで謝るんだい』
ジブリルは笑った。
正直、この引き抜きはジブリル立っての希望なので、相談を受けたアルノーの親会社である【
アルノーならばジブリルの事務所に移籍せずとも業務拡大の形は色々取れる、と踏んで奪い取れる最大限の好待遇でならば、と条件を出した。
アルノーはあまり失礼な内容だと仮にこの移籍が実現しなかった時にも、ジブリルと仕事する時に関係が悪化してしまう恐れがある、と過度な条件を出すことは反対したのだが、「自分を安売りしては駄目だ」の一言で、社長が交渉の前面に立ってしまったのだ。
「……私には勿体ないほどの条件を飲んでいただいたので」
朗らかな笑い声が聞こえる。
『そんなことはないよ』
「でも、」
自分の仕事を優先させるという面は、一番に主張した。
アルノーが請け負う仕事は、事務所の社長となるジブリルが「命令」することは出来ず、全て彼の判断で、仕事が選べるようになっていた。
それで引き抜かれて移籍する意味が、本当にあるのだろうかとアルノーは思うのだ。
「……ジブリルさん」
『おや。曇った声だ。迷いの響きがある』
アルノーは唇だけで笑った。
「サンアゼールのプロジェクトは、腰を据えてやるべき、と仰っていましたよね。
私は恐らく真剣に向き合う、と言葉で言えても、他にも多くの仕事を抱えることになると思います。
このプロジェクトの撮影主任になるべき人は、もっと別に適任がいるのでは」
数秒後。
『私は腰を据えて仕事をしてくれとは言っていないよ』
穏やかにジブリルは言った。
『北欧を撮るならば、腰を据えて撮らねばと言ったまでさ。君が仕事にいい加減な態度で向かう所など、見たことが無い。君が北欧を撮りたいと思った時に、撮ってくれればいいんだ。
君に撮影主任を任せると言ったのは、そんな重荷を背負わせる為じゃない。
サンアゼール・プロジェクトとは別に、君の視点からこのプロジェクトを撮影し、一つの題材にしてくれても構わないんだ。
それは、話し合うつもりだし、これから分担は出来る。
一番君に知っていて欲しいことは、私がこれからやることを、……この一つの大きな事業をね。
君が興味を持って、自分のペースで撮ってくれたら私は嬉しいということなんだよ。
いちいち君に来て撮って欲しい、と依頼するのではなく、君の仕事に時間を見つけて、君の好きな時に撮りに来て欲しい。
今回はよろしくお願いします、じゃなくて、『ただいま』って言って欲しいんだ。
本当にそれだけだよ。
あとのことは君の写真のファンとして、パトロンになって応援したいと、その程度のことだよ。
あまり重く考えないで欲しいな。
あまり重く考えると君は私に迷惑を掛けてしまうからとか、それで断られたら悲しいからね』
「……フォラントさん」
『今日、ノルウェーから戻って来たんだ。事務所はもう綺麗に出来上がってたよ』
「そうでしたか」
アルノーの声に少し迷いを感じたのか、「……少し話そうか」とジブリルが優しい声で語りかけた。
『一週間ほどはこっちにいると思うんだ。どこかで一度会えないかな。私の方は予定が空いてるから、君が動けないなら私が行こう』
「五日後に、ベルリンで『国際カーグラフィックス』の打ち合わせがあるんですが……」
『そうか。今年も君はディレクター陣に入っているんだね。では私がベルリンに会いに行こう』
「すみません」
『気にしないで。では五日後、会えるのを楽しみにしてるよ』
通話を切ると、小さくアルノーは息をついた。
「気が重い話ですか?」
振り返ると、ジェミニがまだ入り口に立って、こちらを心配そうに見ていた。
アルノーはすぐ笑う。
「ああ、いや。ちがう。
事務所の話で……。こちらの出した条件は全て飲んだ待遇で、私を迎えてくれる用意があるそうだよ」
ジェミニはアルノーを敬愛していたので、彼がどんな厚遇で迎えられても出来過ぎだとは思わなかったが、出した条件がどんなにアルノーにとっていいものかはよく理解している。
「それが、気が重いですか?」
「いや。少し申し訳なくて」
心配そうな顔を少ししていたジェミニが、苦笑したアルノーに、ようやく吹き出した。
「貴方らしいですね。
でもいいんですよ。貴方はきちんとした待遇で迎えられなければいけない人ですよ」
ありがとう、と小さくアルノーは笑った。
「明後日は【
話を切り替えて、ジェミニが言った。
「うん。勿論。構わないよ」
「楽しみですね。私の姪がトロイさんの大ファンで。番組が終わった時はジェミニおじさんの力で何とかして! と泣かれながら無茶を言われました」
アルノーは吹き出す。
「そうなのか。可愛いな」
「はい。第二シーズンが決定した時にはハートいっぱいのメールが送られてきましたよ」
「はは……」
確かに、そうやって再開を喜んでくれてる人たちはたくさんいるのだろう。
「でも実際、やっぱりあの番組はマネージャー的にもあってほしいですね」
「?」
「トロイさんに定期的に会えると、貴方は定期的に元気を充電出来ますから」
アルノーは笑った。
確かに、必死に約束をしないでもトロイに月一で会えるのはとても嬉しいことだった。
「今まで、トロイとの間にはそういう確かな約束が無かったからな」
ずっと好きだったし心は繋がっていたと思うけど。
あの番組はトロイとの間に出来た初めての『確かな約束』でもあったから。
トロイは出来るだけ今度は長くやりたい、と言ってくれていたが、自分も出来るだけ長く出来るよう、大切にしよう、と思う。
アルノーはジブリルの言葉を思い出していた。
今回はよろしくお願いしますじゃなくて、「ただいま」を、というあの言葉を。
その言葉が欲しいという彼の言葉が、アルノーにもよく分かった。
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