第8話【未来への不安】②
その日リハーサルを終えて
遅い時間だったので、門の守衛室は無人だ。
あっ、と思って車のまま、なだらかな螺旋状に続く中庭の方に乗り入れ、建物としては二階の庭先から自宅に入った。
「――まあ。窓から入って来るなんて。お行儀の悪い子ねえ」
一階のリビングに行こうとした途中の応接間から声がして、驚いたように振り返ったトロイは、数秒後、思わずその場に崩れ落ちた。
「あら。なぁに。お母さまに対して失礼な反応ね」
「いやあんたここで何してんだよ……というかどうやってここに入った⁉」
母親のラヴィニア・エレインである。
彼女はジブリル・フォラントとの間にトロイを儲けた。
その後離婚し、医者と再婚し、その間に二人の子供が生まれた。
ラヴィニアとは、父親と違って関係は良好だが、トロイはすでに家を出て自分の稼ぎで暮らしている為、彼女はそういう息子を尊重し、こうして勝手に押し掛けてくるようなことは一切しない母親だった。
「まあ細かいことは気にしないで。あなた、この自宅に帰らないことも多いんでしょう?
運良く会えて良かったわ。
美味しそうなワイン、先にいただいちゃってるけどいいかしら?」
「……別にいいけどよ……」
脱力して、トロイはゆっくりと立ち上がった。
「現役時代の先生の還暦パーティーが重慶であったのよ。貴方がこの前香港に来てくれた時、スケジュールが合わなくて会えなかったから。来てみたわ」
「ふーん」
「急に来てごめんなさいね。一晩寝て行ってもいいかしら」
「いいよ別に。そこの客間使って」
来ていたのが母親だということが判明し、すっかり気が抜けたトロイである。
「ありがとう。お母さまが来たからって特別構わなくていいのよトロイ。折角自宅に帰ってきたんだから好きなことしてゆっくりなさいな。家ではこんなに優雅に大風呂敷広げてさすがにワインを飲むわけにもいかないから、今夜は飲むわよ~~~」
元オペラ歌手の母親は、語尾を優雅にビブラートさせてフカフカのソファにビーナスのような姿で足を崩して寛いでいる。
あの父親にしてこの母親だ。
さすがにジブリル・フォラントに最も尊重された女性と言われるだけのことはある。
「うん……。まあ適当に寛いどいてよ。俺は風呂入って来るしさ……」
ふわーっと大きな欠伸をしてトロイが歩き出す。
「貴方ってアルノーさんがいると思うとあんな子犬みたいに嬉しそうに駆けて来るのねえ」
ドドオッ! と出て行った廊下で大転倒する音が響いた。
「まあ、トロイ。大丈夫? 駄目よ貴方ダンサーなんだから。そんな派手にずっこけたりしたら、足を痛めるわよ」
「うるせーっ‼」
広い自宅中に、さすがの声量で怒声が響いた。
◇ ◇ ◇
「アルノーさんもいたらよかったのに。今日はこっちにいないの?」
とにかくゆっくりと風呂に浸かって、部屋に戻ってみると、母親は大型モニターで【
画面に映るアルノーに向かって、何故か親しげに手を振っている。
すでにオペラ女優を引退している母親は、普段は「私はもはや一般人」と言って、鬱陶しいメディアをシャットアウトしてるくせに、何故かアルノー・イーシャのことだけは気に入っていて、
「トロイとジブリルさんだけ撮って貰うなんてズルイ」
「あの美形をお人形さんのように着飾らせてみたい。絶対楽しい」
「現役時代、私が彼に撮って貰ったら、三十倍は美しかったはず。私はそうでなくともとても美しかったので、彼に撮って貰ったらクレオパトラレベルだ。つまり世界を征服していた」
「メールだけでもしたいからいい加減にメアドを教えてくれないと、お母様は拗ねるぞ」
などとトロイに好き勝手言ってくるのである。
ちなみに、アルノーが現われる前はそんな奔放なことを言ってくるような母親ではなかったと思うので、日々トロイは何故母親がアルノーをそんなに気に入っているのか首を傾げている。
「今日はアルは本社の方。イギリスにいるよ」
どっかりと横の椅子に腰かけて、トロイは手元のノートパッドで次のライブの演出の確認を始めた。
「そうなの。残念ね」
「事務所独立の話聞いたんだろ。親父と、アルの両方の」
母親は瞬きをした。
「貴方ってホント鋭いわね。やっぱり私の子だわ。あの人って音楽以外には死ぬほど鈍感だもの」
「ニュースになってるし、そんなもんだろ。そうじゃなきゃあんたが黙って訪ねて来るなんてないもんな」
「うーん……。心配とは違うのよ。だって私はジブリルさんもアルノーさんも、どっちも知ってるもの。ゴシップ記者が騒ぎ立てるようなことを心配してきたわけじゃないの。それだけは分かってね」
「しってる。」
トロイは呆れた声で返したので、母親はにっこりと微笑んだ。
「アルノーさん、大変でしょう。事務所の皆さんのことも考えないといけないものね」
「うん」
「ジブリルさんの事務所に所属するかもしれないのは本当なの?」
「親父に聞けばいいだろ」
母親はムッとした顔をした。
「イヤよ。アルノーさんのことをあの人に尋ねるのはなんだか腹が立つもの」
トロイは自分もワインを少しグラスに注ぎながら、吹き出した。
「なんで」
「だってそうでしょう。彼は貴方の恋人なのよ。それをジブリルさんに聞くのは癇に障るわ」
癇に障るか。
笑ってしまう。
自分は確かに、母親に似てるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「このメキシコ回は素晴らしかったわ。
新婚旅行で行ったのよ。離婚した後はなんとなく癇に障って一度も行ったこと無かったけど、美しい所だったの思い出せた」
「へー。新婚旅行メキシコだったのか?」
トロイはちょっと驚いたように言った。
「そうよ。リゾート地でゆっくりした」
「イメージなんか違う。あいつと青い海結びつかねえもん」
ラヴィニアが明るく笑っている。
「結びつかなくても浜辺を短パンサンダルで歩かせたわよ。新婚旅行ですもの。新妻のワガママにたっぷり付き合わせてやったわ」
トロイは、両親の離婚の理由がよく理解出来る。
……だが何となく、愛した理由も分かるのだ。
笑いながら話を聞いていると、そういう息子の顔をラヴィニアがふと優しい、母親の顔で見て来た。
「……トロイ。あなたは本当に、幼い頃から私の手を煩わせない子供だった。
好奇心旺盛でじっとはしていなかったけど、ダンスに出会ってからはもう、瞬く間に何もかもが独りでも怖く無くなって……。
私も、ジブリルさんも、貴方にはあまり親らしいことをしてあげられなかった」
トロイは苦笑する。
「そんなの気にしないでいい。もう親が恋しいって年じゃないし」
ええ、そうねと穏やかに頷きながらも。
「貴方には、とんでもない父親だったかもしれないけど、でも、あの人もああ見えて、きっと私との結婚生活を、糧にしていると思うのよ。私を傷つけたことは、理解しているようだし。……理解していなかったこともね。
何が、結婚した女が幸せに思うかは、少しは気づいたはず」
この話を、母親がしに来たのだということはトロイは分かった。
「だからもう、私との結婚生活はあの人は繰り返さないと思うわ。
美しく、聡明で、気が強くて、……本当は夫に、両腕で大切に抱きしめてもらいたいというささやかな夢を持ってるような、才気溢れる女性とはね。結婚は絶対しないわ」
「……自分で言うか」
トロイが呆れて半眼になると、ラヴィニアは母親の顔ではなく、舞台でソリストを演じていた頃の華やかな、明るい笑みに戻っていた。
「勿論。あのジブリル・フォラントを一度は求婚させ跪かせたんだもの。
自信あるわよ」
「あっそ」
「……だからきっと、次にもし万が一、あの人が誰かを愛して結婚を望むなら、そういう人ではない人を選ぶと思うわ」
美しく聡明で、ささやかな夢を抱いている女性――ではない誰か。
……その日、夢を見た。
北欧の美しい、冷たげな白い景色を、時間も、凍えるのも忘れて、無心で撮ってるアルノー・イーシャの姿を父親が遠くから、見ている夢だった。
父親はひどく愛しいものを見るような、優しい表情をしていた。
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