第5話【星空の下で】①
空港から自分の車で
トロイは嬉しくなって、急いで車庫ではなく庭先に車を停めて自宅に入った。
リビングに入ると思った通りアルノーがいた。
ソファで寝ている。
眼鏡をしたままだ。
珍しい。
本当に少しだけうとうとした所、寝てしまったのだろう。
アルノーが居眠りなど珍しかった。
眼鏡をしたまま眠っている綺麗な寝顔を、トロイはしばらく側で覗き込んで見ていた。
(疲れてんだなあ)
起きるまで寝かせてやろうと思い、トロイは一階の来客用寝室から毛布を持って来てそっとかけてやった。
「……ん」
アルノーが身じろぎ、目を覚ました。
「……ごめん。起こした」
トロイが優しい声を掛ける。
アルノーは目を瞬かせて、一瞬自分がどこにいるのか確認したようだ。
力を抜いたのが分かる。
「おかえり」
「ただいま。早かったんだな。もっと遅くなるかと思ってた」
「予定より早い便の飛行機に乗れて。ごめん……寝てしまった」
いーよ、とトロイは笑った。
側に落ちていた書類を拾い上げる。
「仕事?」
「うん。ちょっと会社の仕事が残ってて。でも、もう終わる……」
トロイはアルノーの寝てるソファの端に腰掛けた。
「もう終わるなら、このまま少し寝ろよ。疲れてんだろ」
「いや、でも……」
身を起こそうとしたアルノーの頭を手で押さえて、寝かせる。
「俺のことは気にすんな。新曲の振り付けもうちょっと踊り込みたいなと思ってたんだ。
お前が休むなら、小一時間スタジオで踊って来たいし」
トロイが二階のダンススタジオを指差すと、アルノーは目を瞬かせた。
「戻って来たら起こしてやるよ。ちょっと休め」
「ごめん」
「いいんだ。俺はお前が家にいるだけでなんか嬉しいし。来月からは番組も再開するから、また定期的に会えるようになるだろ。だから折角戻って来たのにとか気を遣わないでいい。
いつイギリス戻る?」
「予定通り明後日の早朝で大丈夫だ。明日、ちょっと仕事のメールが来るけど、大きな仕事じゃないし」
トロイは嬉しそうな顔をした。
「んじゃ明日はゆっくりしよう。釣りでもするか!」
この自宅は庭にプライベートビーチがあり、海に繋がっている為、釣りができるのだ。
「うん」
アルノーがここに来て安堵してくれているのが伝わって来る。
トロイはアルノーの掛けていた眼鏡を外して、そっとキスを落とした。
「二時間後に起こすよ」
「ありがとう」
アルノーは優しく目を細めると、毛布に潜り込んで目を閉じた。
二時間後トロイは踊っていたダンススタジオから出てアルノーを起こしに行った。
二時間寝ただけでもアルノーは随分楽になったらしい。
寝てよかったと体調も良さそうだった。
トロイがシャワーを浴びて来る間、彼は食事がまだだったので、家事手伝いの女性が冷蔵庫に作って行ってくれた食事を、アルノーが温めて準備しておいてあげることにした。
アルノーも機内で食べて来なかったので、一緒に食事をすることになる。
シャワーを浴びて居間に戻ると、すっかり食事の支度が出来ている。
「美味そう」
「ホントだね。それにいっぱいある」
「俺が頼んどいたんだ。アルが来るから、食べるかもしれないから多めに作っておいてって」
「そうなのか。食べて来ないで良かった。温かいうちに食べよう」
「うん」
食事をしながら、二人とも好きなフットボール中継をテレビで見つつ、近況を話したりする。
アルノーとこうして自宅で向かい合って、食事をするということがトロイはまだ慣れない。
新鮮で、なんかくすぐったくて全然他愛ないことなのに無性に幸せを感じる。
トロイは確かに恋愛と呼べるほど恋愛をこなしてきたことが無いし、女友達は大勢いるが、恋人同士のようなこういった遣り取りはしたことがない。
みんな初めて恋愛する時は、相手が家に来てくれたらこんなことがいちいち嬉しいものなのか、それとも自分だけなのかよく分からない。
時々ラヴィニアの家に招待されて、異父兄妹になる弟と妹と、母親との四人で食事をすることもあるが、その時は別に普通なのだ。
家族団欒を無性に幸せに感じたりということはない。ただ楽しく知り合いと食事をする、あの感覚と同じだ。
アルノーと一緒に向かい合って食事をしてる時だけ感じる。
(……なんか嬉しいんだよなあ……)
理由は分からないけど、別にいい。
「グリフィスが今週いっぱいまで番組の候補地お前がなんか撮りに行きたいところがあったら受け付けるって言ってた」
ゆっくりと食事を終えてアルノーが食器を洗い、トロイが拭きながら話をしている時に、思い出して彼が言った。
アルノーは『撮りに行きたいところ』と言われて咄嗟に、昨日トロイから聞いた北欧の話が頭を過っていた。
トロイの顔を見て「ん?」という顔をした彼に、アルノーは小さく笑って首を振る。
「私はむしろあの番組は自分が行きたいところじゃない、思いがけない所に行きたいから、君たちに行き先は任せるよ。
その方が楽しいんだ。
最初は何のイメージが無くても、君やグリフィスさんと街を回ってるとそのうちに撮りたいものが見えて来る。それが好きなんだ」
街を観光し、紹介し、名所や絶景でトロイがバックナンバーの曲から、その場所にあったものを選んで歌ったり踊ったりして終わる、という感じだ。
「今回は新曲の発売と近いから、それに合わせて場所を選ぼうかってグリフィスは言ってる。ドラマにタイアップした曲だからイメージがあるし」
「そうなのか。曲に場所を合わせるのは初めてだね」
「第二シーズンは出来るだけ長く続けたいからな。初回から注目されたい」
トロイの瞳が輝いていてアルノーは笑った。
「そんなこと言って君、来年は十五周年だからもっと忙しくなるのに大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。【
食器を洗い終わったのでアルノーもタオルを手に取って、皿を拭く手が止まっているトロイを手伝い始める。
「私が言ってるのは君の気持ちじゃなくて、体力的なことなんだけどな……」
笑いながらそう言うと、トロイがアルノーを抱き寄せて来た。タオルなんか側の台に放り出している。
「……お前が、側にいてくれて時々こういうことさせてくれたら全然大丈夫」
トロイがアルノーの首筋に顔を埋めると、くす、とアルノーは目を細めトロイの額の辺りに唇を寄せた。
すぐに、トロイがそこじゃない、というようにアルノーの頬に両手を当て、口付けて来た。
舌先が触れる。
ガラスの皿を持っていたアルノーは咄嗟にそれを側の台に乗せた。
すぐにその手を、トロイが掴んだ。
「番組が無い間、嫌だった?」
唇が触れ合ったままそっとアルノーが聞く。
「いやだった。」
はっきりとトロイが言った。
「お前に会えないのは嫌だった。……おまえは?」
「嫌だったよ」
優しい声でアルノーがそう言ってくれる。
トロイは無性に幸せを感じた。
もう一度唇を重ねると、止まらなくなった。
『何よりも耐え難い痛みは 貴方の残照』
ドラマにタイアップした新曲に書いたその一言にトロイが想った『貴方』は。
アルノー・イーシャただ一人だった。
◇ ◇ ◇
目を覚ますと、側にその姿が無かった。
時計は朝の四時を回ったばかりだが、夏場なのでもう外は若干明るくなり始めている。
ベッドから降りてふと海に面した方の庭を見下ろすと、桟橋の端に足を伸ばして座るその姿が見えた。膝に置いたパソコンで仕事をしているのが分かる。
「アル」
下りて行って声を掛けると、桟橋から足を垂らし仰向けになっていたアルノーが振り返る。
側に行ってしゃがみ込んだ。
「仕事か?」
「いや。もう終わった」
「いつ起きたんだ?」
「一時間ほど前かな」
アルノーは暑さをしのぐためズボンの裾を膝辺りまで捲り、腕の袖のボタンも留めずに広げたままにしていた。
「こんなとこで寝んな」
トロイは小さく笑みを浮かべてアルノーの額を手の甲でこつ、と当てた。
「星が綺麗だなあと思って」
トロイは空を見上げた。
ここは対岸が人の立ち入りを規制された保護区なので、市街に面していない。
確かに少し星が見やすいのだ。
しゃがんでいたトロイは桟橋の上に完全に座り、胡坐を掻いて数秒星を見上げる。
「……なんか考え事か?」
トロイがこっちを見て、尋ねるような顔を見せる。
「お前って、俺と違ってあんまり恋愛で悩まねえもんな」
「そうか?」
「そうだよ。俺はいつも余裕ないのに、お前って自分の気持ちに揺るぎねえもん。……仕事のことか?」
トロイは逆だ。
仕事のことであまり悩んだことはない。
会社がやりたいようにと全てバックアップしてくれるし、トロイの中には常に曲と踊りが存在する。
「よく分かったな」
アルノーが笑いながらゆっくりと身を起こした。
桟橋の下にはもう海がある。
金属の網で区切られたところまでは私有地だ。網目は大きいので、魚が自由に出入りをする。
ザザ……ン……
静かな波の音。
夏の夜の穏やかな風が吹く。
アルノーの金色の髪が優し気に揺れている。
「……なんか、……悩んでることあるなら聞くぞ。そら、お前が悩むようなことあんま俺は力になれないかも知れないけど。でも、そういうことって誰かに話すと少し気も楽になるだろうし」
決して強引に聞き出すようなものではなく、おずおずという感じで切り出してきたトロイに一瞬アルノーは目を瞬かせて、彼の頭に手をやるとぽふぽふ、と撫でた。
毛先を少し丸めるトロイの髪に指を絡める。 その感触が可愛くて、そうするのがアルノーは好きだった。
「ありがとう。……会社のことでちょっとな」
一度言葉を止めたがアルノーは片膝を立てて、肘をついた。
アルノーは個人事務所の社長業もしているのだ。親会社の【
だが自身がその会社の一番の稼ぎ頭であるアルノーは世界中からオファーがあるから、経営が危ういとかそういうことではないのだろう。
悩みじゃない。考えてることがあるのだ。
トロイは聞きたいなと思った。
アルノーの考えていることなら何でも聞きたい。そして自分が聞いてやることが、アルノーの安心感になれば嬉しい。
「以前から業務拡大の話が出てて。業務拡大と言っても方法は色々あるから、ちょっとそれを色々考えてる」
アルノーが話してくれた。
「そうなのか」
「うん。親会社の社長は支店を作るよう勧めてくれてる」
「お前の仕事のオファーって世界中からあるもんな」
「そうなんだ。いつもロンドンから飛ばないといけないから効率が悪いんだ。別の所に二つくらいオフィスを持つべきだって前から言われてる。その為の資金も支援してくれるんだ。とても有り難い話だよ」
「うん」
アルノーの親会社の社長は
トロイは会ったことはないが、そういう話は聞いたことがある。
アルノーの才能をとても買っていて評価してくれているらしいことは、今までにもアルノー自身から教えてもらった。
「でもオフィスを開くためには別にスタッフを雇わないといけないからね。オフィスの管理者は私が面接で選びたいから、面接をしたいんだけど色々と仕事が立て込んでいて。それにオファーをどういう受け方にするとか、仔細が固まってない」
「……。お前のあのマネージャー、ジェミニ? あいつ優秀なんだろ。少しそういうこと手伝ってもらえばいいんじゃないか?」
「そうなんだけど、もうジェミニには他の案件を色々任せてしまってるんだ。私がこなしきれない社長業とかも手伝ってくれてる。これ以上彼だけに負担を増やせない」
「……そっか」
「うん。でも時間が無いといつも言っててもダメだよな。今は確かに人手が足りなくて受けたいオファーも受けられないということもあるんだ。いい話を貰ったのに、スケジュールが誰も空いて無くてクライアントに会いに行けないこともたくさんある。
仕事はあるんだからそれなら会社は良くしていかないとね。
事務所を大きくしてもっとオファーを受けられるようになれば収入だって増えてスタッフの給料も、もっと上げてやれるし。
今まではそういうやりくりも、私が出来る規模だったんだけど、そろそろちゃんと考えないとな……」
「……アル、お前が良かったらだけど一度グリフィスにそういうこと話してみたらどうだ?」
「グリフィスさんに?」
「うん。あいつならきっといいアドバイスしてくれる。それに信頼出来るスタッフとか、弁護士とか代理人とかそういうのも、多分バリーに言えば紹介してくれるよ。
いや、そんなことお前の親会社の社長だって出来ると思うけどさ……。
けど、お前よく『いつもお世話になってる』とか言ってるし。その点うちの会社なら他人だから、気にすること無い。それこそバリーは色んな国にオフィス持ってるし。もしかしたらいい話がまとまるかも」
アルノーは笑んだ。
「そうだな。グリフィスさんなら話しやすいし、もしかしたら頼むかもしれない。ありがとう、トロイ」
「いや……ごめん。俺ばっかりまた番組が始まるーってはしゃいで。お前も結構スケジュール合わせるの大変なのにな」
「こら。謝るな。あの番組は私にとっても大切だって言っただろ。君だけのものじゃないぞ」
アルノーがくしゃくしゃと、トロイがいつもそうするように、逆に彼の頭を掻き混ぜた。
トロイが嬉しそうに腕を伸ばしてきて、じゃれついて来る。
「くすぐるな」
笑い合って桟橋に二人で転がる。
仰向けになった。
夏の空。
本当に満天の星だ。
アルノーは手を伸ばして側に寝転ぶトロイの頭を撫でた。
「……。トロイ。フォラントさんのことなんだけど、話してもいいか?
君が聞きたくないのは分かるし、だから話さないでおこうと思ったけど、よく考えたらいずれにせよ公にはなることだから、あまり意味がない」
トロイが、父親の名が出た瞬間身を起こして腹這いになった。
「でも折角今日は君と会えたから、聞きたくないなら今日はやめておく。後日話すよ」
「別に平気だ。……大丈夫か? またなんかあいつがお前に変なちょっかい……」
「いや。そういうことじゃない。あの人の会社にも関わることだから、ここだけの話にしてくれ」
「分かった」
「フォラントさんは近々、独立して事務所を持つらしい」
「そうなのか?」
「うん。本人から聞いた。一昨日ローマの取材で会ったんだ」
実際には取材はなかったのだが、話がややこしくなるのでそれは今、省いておく。
「あいつ、そういう話初めてじゃないか?」
「そうなんだ。私も聞いた時は驚いた」
「なんか揉めてんのかな?」
急な話に感じられたのだろう。トロイはそう尋ねて来た。
アルノーは首を振って、以前から一応会社の内部で話はあったことらしいということは伝えた。
「そういうことじゃないみたいだ。【
「会ったこと無いけど、親友みたいな関係だって聞いたことある」
「私は世界ツアーに同行してた時、何回か会ったよ。いい人そうだったし、本当に親しいようだった。私の印象だけど」
「そうなのか」
「うん。実際、インヴレアさんがフォラントさんの才能に惚れこんでいるから、あそこは大きな会社だし、別に今のままでも問題ないことは問題ないんだろうけど、独立する理由は、フォラントさんが個人でやりたいことが出来たからなんだって」
アルノーはトロイと同じ腹這いの体勢になり、向き合って、フォラントが考えていること、サンアゼールでのプロジェクトの概要を、彼に話した。
トロイがどういう反応を示すのだろうかと思って見ていたが、音楽院の話や、町全体を改築し、音楽の都にしていきたい、という大きなプロジェクトのことを知った時、彼はあまり表情には出さないようにしていたけれど、それでも瞳が輝いていた。
トロイは別に、父親を憎んでいるのではないのだ。
分からない、理解出来ないものだから、他より警戒している。
文字通り、複雑な感情なのだ。
アルノーはトロイの側にいて、彼から父親への愛情の念も、ちゃんと感じることがある。
そして、もちろんジブリルからトロイへの愛情も感じることもある。
「実は、このプロジェクトに私も関わって欲しいと依頼されたんだ」
トロイは驚いた表情をした。
「その話の延長上で、新しく事務所に来ないかと誘われた」
「誘われたって……でも、お前って自分の会社の社長だろ?」
「その話を聞く前から、私自身、社長業はそろそろ誰かに譲ろうと思ってたんだ。
正直、……もっと自分の仕事に集中したい。
いや、今も集中してないわけじゃないんだけど」
トロイが桟橋に置かれたアルノーの手に重ねて、握り締めた。
「いや。――分かるよ。
俺はダンサーっていうか……アーティストとしての活動を会社に保証してもらって、それに徹することが出来てる。
けどその俺ですら、時間が足りない、って思うことがたくさんある。
もっと一つのことに、本当は拘りたいのに、そういう時もあるのに、他のことをしなきゃいけなくて切り上げなきゃいけない時は嫌いだ。贅沢なこと、言ってんのは分かるんだけどな。
年がら年中、それを感じてるわけじゃない。
ほとんどの時は楽しいし幸せだ。
けどたまに、……ホントにたまにだけど、メディアのこととか、ツアーだって、一瞬無くなればいいのにな、って思うことあるんだ。
……誰にも言ったこと無いけど」
「君はツアー好きだからな」
トロイはしっかりと大きく頷く。
「大好きだ! ライブも好きだ! ファンの前で思いっきり歌えるのも嬉しいし楽しい。
色んな所に行って、ライブをする。
それが一番好きだ。
――それでも、無くなってしまえばいいって思うことがあるんだよ。
曲作りに没頭したい時とか……」
「そうなのか」
「ちょっとお前とは違うかもしれないけど、でももっともっと集中したいって気持ち、おれ、何となく分かるぞ」
アルノーが優しい表情をしてくれた。
嬉しく思ったのだろう。
支えるってこういうことなんだろうか、とトロイは思う。
「もっと拘りたいと思う瞬間が私にもあるんだ。それを、社長業を言い訳に諦めているんじゃないかって感じることがあって」
「アル。その気持ちがあるなら、社長業は誰かに代わりにやってもらえよ」
トロイは身を起こした。
アルノーを同じように引っ張り上げて、もう一度桟橋に二人で座り直す。
「お前、親会社とも関係良好なんだし、今だって会社で一番の稼ぎ頭だろ。
写真家の本業に集中しろ。
俺は今のお前の写真だって大好きだけど、きっとそうしたらもっとすごいものをお前は撮れるだろうし、作れる。
絶対に」
「トロイ……」
「お前がそうしたいって思うなら、そうするのが絶対正しい。」
アルノーがやりたいことをやれないなんて嫌だ。
「親父なんて訳わかんない奴だけどさ……。
おれ、少し分かるよ。
多分、そのサンアゼールの音楽院の話もそういうことなんだ。
あいつもきっと今何かを集中して無性にやりたい、そういう時期なんだと思う。
俺たちと違ってあいつは、明日からでもそう出来るんだ」
「そうか。そうだね、そうかもしれない……」
今はやりたいことがあるとジブリル自身も言っていた。
トロイがジブリル・フォラントという音楽家に理解を示したのはその時が初めてだったので、アルノーは少し、驚いた。
同時に、これがトロイ・メドウなのだとも思う。
感受性豊かに――時に自分の中から沸き上がる本能からでさえ、彼は心のままに逃れられる。
望むものになれるし、望むことを表現できる。
急にトロイの存在が愛しく思え、アルノーは腕を伸ばしてその身体を寄せた。
すぐにトロイの腕も、アルノーの身体に回った。
強く抱き寄せて来る。
「引き抜きのこと、お前自身は……どう思ってる……?」
「単に社長業から解放されて集中する環境を整えるためだったり、今よりいい給料を、という話だったらその場で断ってた」
はっきりと、アルノーは言った。
「社長業から離れても、あそこは私の会社だ。
君と一度離れた時も、音楽業界での仕事が一時期上手く行かなくなった時も、スタッフは一丸となって別のものを撮ればいい、って私を支えてくれた。所属するカメラマンも、各方面でとても頑張ってくれてる。彼らと同じ立場で、同僚になれることはとても嬉しいことだ。
お金の問題じゃない。
会社を離れる理由にはならないよ」
ぎゅ、とトロイの腕に力が籠ったのが分かった。
まるで捕まえるみたいなその仕草にアルノーは「どこへも行かないよ」と伝えたくて、トロイの肩に額を寄せた。
「サンアゼールのプロジェクトの話が、引っ掛かってる。
フォラントさんは移籍しても、私のやりたい仕事はやって構わないと言ってくれてるし、それ以外のことも相談には乗ると言ってくれてる。
正直、私には勿体ないほどの話なんだ。
北欧も今までにちゃんと撮ったことが無いし、興味がある。たまたまうちの会社の事情がそれに絡んでるから、悩んでるんだ。
大きなプロジェクトだから、確かにきちんと移籍して責任を持って携わりたい気持ちもある。
でも、タイミングがあったきっかけに過ぎない気もする……。もっと移籍の方は考えた方がいいのか……」
今日の今日まで、アルノーがそういうことで悩んでいたと知らなかった。
自分は来月から【
あの番組は楽しいが、基本的に一月に一度必ず収録があるから、スケジュール合わせは大変なのだ。
アルノーも楽しんでやってくれているのは分かるけど、街を歩きながら撮ってる間にも、彼の心が時々この会社のことで移ろうのかと思うと、無性に可哀想だった。
少しでも負担を減らしてやりたい。
限度はあっても、出来る限りそうしたい。
確かにそう思った。
「……おれ、他に何かしてやれるか?」
アルノーが笑った。
伏せていた顔を上げる。
「話を聞いてくれただけで、随分気が楽になった。それに、君がフォラントさんのプロジェクトに理解を示してくれたのも、嬉しかったよ。君ならきっと面白そうだって、思うのは分かってたけどね。
でも……やる仕事は自分で選ぶけど、君が嫌だと思う仕事は、やっぱりどこかで受けたくないと思うから」
「全然嫌だとか思ってないぞ。親父はムカつくことあるけど、でも音楽家としてすごいのは知ってる。音楽院に集まる若い演奏家に何の罪もねえし、街の人達が音楽を楽しむすっげーいい人たちだっていうのも分かる。
そのプロジェクトは、きっとお前を失望させたりしないよ」
「うん」
微笑んだアルノーをもう一度抱きしめた。
「お前がやりたい仕事は、全部応援する。
それにうち関係の仕事は、本当スケジューリングとか相談に乗るからな、アル。
力になる」
「ありがとう。心強いよ」
トロイはアルノーに笑いかけた。
「何があっても、俺がついてる」
額に口付けてから唇を重ねた。
トロイの手が、アルノーの背に回る。
支えられて、仰向けにもう一度倒れ込んだ。
見上げるトロイの肩越しに藍色の空と、まだそこに浮かぶ無数の星の光が見えた。
優しい光だな、とアルノーは口づけを受けながら思った。
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