第4話【眠る美術館にて】③



 言っていた美術館はローマの街の市街地にあった。ホテルから車で十五分ほどのところだ。


 緑と水路に囲まれて、特徴的な波状の外観をしている。巨大なパイプオルガンのような壮麗な美術館だ。

 車が美術館の中庭に入ると、道中追って来ていた気配のしていた取材陣の気配がすっ、と嘘のようになくなった。

 賑やかなローマの市街の中にあるのに静かだ。


「やぁ、静かでいいなあ」


 ジブリルが大きく伸びをしている。

 庭もまだ整備中らしくスタッフが植木を植えていたり、池の中で何か作業をしているが、その作業の音だけしかしない。

 トロイが番組のロケバスから降りる時と、伸びの仕方が全く同じだったのでアルノーは笑ってしまった。

「展示品もまだ全て揃っているわけじゃないし、作業中だけれどね。でも見所はあるよ」


 ジブリルに連れられてアルノーは館内に入った。

 彼の言った通り館内も至る所でスタッフが作業中だった。

 まだ完全に揃っていませんがと言いながらも連絡を受けた案内役が出迎えてくれて、館内の説明などをしてくれた。

 中も近代的なオブジェが多く美しい造りだ。


「庭を見た時も思いましたが、水が多い場所ですね」


 アルノーが浅い水路に緑色のタイルを貼っている作業員を見ながら言った。

「はい。ここは元々ワイン工場の跡地だったんです。

 移転してこの場所をオーナーが買い取ったんですが、地下の貯蔵庫を再利用したいということでそこに水路を引いて来て、ろ過装置を配置し、館内に循環させています。

 自然との調和を一つのテーマにして建物全体を作っていましたから。

 外観の波型も水を意識しているのです」

 女性スタッフの説明に、そうなのかとアルノーは頷いた。


「いいですね。美術館は静かでいいんですが、静かすぎて耳が痛くなることがあるけど、ここなら水音もあってリラックスしながら作品を鑑賞出来そうです」


 女性スタッフは嬉しそうに頷いた。

「はい。巨大水槽を館内に幾つか設置しています。館内は六つの区画にテーマごとに区切られていますので、そのテーマに沿った水槽のオブジェや中に入れる魚も選ぶことになっています」

「それは楽しそうでいいなあ。ぜひ完成した後にも見に来たいね」

「はい」


◇   ◇   ◇


 一通りゆっくり説明を受けながら回ると、女性スタッフとはお礼を言って別れた。

 メインの絵画や彫刻はすでに設置されていたため、それをもう一度ゆっくりと見ることにする。

【アテナイエの慈悲】という、抜いた剣先に翼を広げた白鳥を乗せ、逃がしてやっている女神の彫刻の前で、しばらくジブリルが足を止め見上げていた。

 そういえば世界ツアーの時に幾つか、美術館を公演場所にして弾いたことがあった。

 その時も彼は休憩時間に、ゆっくりと作品を見て回ったりしていたことを思い出す。

 アルノーは邪魔をしないように、少し離れた所から彼を見ていたが、やっぱり立っているだけで長身で華やかな雰囲気を持つ彼は絵になるので、つい今カメラで撮りたいなあ、などと思ってしまった。

 そんな風にしているとジブリルが振り返る。


「君はこういった所はよく来る?」


「仕事で美術館はよく行きます。ゆっくり見て回るということはなかなか出来ないですが、お邪魔した場所は、仕事終わりに見るようにしています」

「そうか。私は好きでね。

 こういう作品を見るとやはり音楽を無性に弾きたくなったり、曲が思い浮かぶこともある。美術館や博物館は、夜によく来るよ」

「夜に……?」

「うん。昼間は人がいるからね。私が行くとどうしても多くの人に迷惑が掛かってしまうから。お客さんも勿論だけど、スタッフも色々と気を遣ってくれるんだよ。

 それが申し訳なくてなかなか入りにくいから、知り合いに頼んで特別に、美術館や博物館に夜入れてもらうんだ」

「そうなんですか……」

 大変ですねと言おうとしたが、言葉にならなかった。

 どこか夜の美術館を見て回ると言ったジブリルが楽しそうで、別に昼間に見て回れないことを、彼がさほど不幸なことだと思ってないように感じられたからだ。


「……少し興味をそそられますね。閉館した深夜の美術館を回れるなんて」


 そう言ってみると、ジブリルは笑って頷いた。


「そうなんだ。嬉しいんだよ。

 それに独特の空気があるんだ。

 夜中の美術館というのは。

 時が凍ったみたいに美しくてね……」


 ジブリルはアルノーを見る。


「君は興味深そうにスタッフを見ていたね。

 前から思っていたけど君は表のことより、裏方のスタッフの動きが好きみたいだ。世界ツアーでもよく裏方の動きを眺めてる姿を見かけた」


 今度はアルノーが笑う。

「そうですね……確かに。私はなにか物事があると、どうやって作ってるのかという方が気になる性格をしてるかもしれません」

「小さい頃から?」

「はい。そうですね」

 ジブリルは真新しい大理石の階段の途中に腰を下ろしてしまった。

 椅子のように足を伸ばして気持ち良さそうに座っている。こういう仕草は父子でよく似てるのだ。

 くすくす、とアルノーは笑う。

「君は小さい頃からカメラマン志望だったのかな」

「私ですか? いえ……私は……」

 ジブリルが促すような表情を見せた。

「私は小さい頃は、あまり人生の目標とかを明確に持っている子供じゃなかったと思います」

「君がかい? それは信じられないな」

「でも勉強は頑張ろうと思っていました。誰かに必要とされることの出来る人間になりたかったから」

 ジブリルは優しい表情で膝に頬杖をついた。

「それも十分、明確な目標じゃないかな」

「ありがとうございます。でも……、何になりたいとかは全くありませんでした。何でもいいから働きたいとは思ってたけど……」


「カメラマンになろうと思ったのは偶然?」


「いえ。それは必然です。とにかく勉強だけが趣味だったような子供だったので……そのとりとめもない勉強の合間の楽しみというか、気晴らしがスポーツ観戦だったんです。スポーツ雑誌だけはよく読んでいて。

 そのうちに、スポーツのカッコいい一瞬を撮れるなんて楽しそうだなって思うようになって」


「そうか。だから君は今も本業はスポーツフォトグラファーなんだね。スポーツにはこだわりがあったんだ」


「はい。私はスポーツ選手になるのは無理だったので、それなら彼らを撮る側になりたいなと」

「君なら磨けばスポーツ選手にもなれたんじゃないかな。アスリート並と言われる身体能力を持つトロイとあれだけ対決できるんだから」

 番組のことを言ってることに気付いてアルノーは笑った。

「無理ですよ」


「君と番組をしているトロイは本当に楽しそうだね」


 父親の顔でジブリルは言った。

 彼を優しい表情で見て、アルノーは頷く。

「番組が彼好みなので。色々な土地に行って、色々な人たちと触れ合う。楽しく。

 一番トロイが好きなことですよ。

 だから彼はあれだけ過密スケジュールでも、この仕事が全然苦じゃないんです」

「そうだね。でもそれだけじゃない。

 君が側にいて、そういう楽しさを共有してくれるからそのことが何より嬉しいんだろう」

 ジブリルは少し何かを考えるような間のあと、もう一度アルノーを見た。

「来月からまた番組が再開すると聞いたよ」

「あ……はい」

「それは楽しみだ。また色んな美味しいパンが食べられるといいね」

 アルノーが声を出して笑った。


 番組内で新しい街に行くと必ず三人で街のパン屋に寄り、パンを食べるのが恒例になっているのだ。

 しかも食べるパンは決まっていて、グリフィスがフランスパン、トロイが丸いパン、アルノーがクロワッサンを食べることが何故か暗黙の了解になってしまった。

 一番最初にそれを食べたので、パンの種類を変えると味が比べにくいからと次の街でも同じパンを食べたのがきっかけだ。


「ありがとうございます」


「?」

「見て下さってるんですね。あの番組」

「勿論。楽しませてもらってる」

 ジブリルは言った。


「わたしは……良くない父親だったと思うんだ。まあ良くない夫であった時から気づいてはいたと思うけど。

 普通の父親ならもっと子供のことに興味を持つ。私は多忙で子供のことは妻に任せっぱなしだった。

 今になって君とはしゃいでいるトロイを見て、彼はこういう子供だったんだなと新発見してる。良い父親じゃあないな」


 苦笑したジブリルだったが、アルノーは笑わなかった。優しい顔で答える。


「……今はそれを発見して、貴方は楽しそうなんだから。必ずしもそうではないのでは。

 この世の全ての父親が無条件で自分の子供に愛情を注ぐわけじゃない。

 子供に無関心な親だってたくさんいます。

 貴方は離婚しても奥さんのことは信頼していて親交はあるし、例え今でも子供に興味を持って関わろうとしている。

 必ずしも無関心な父親というわけじゃない」


 ジブリルは一瞬表情を止めてからふっ、と微笑んだ。

「そうかな」

 言って、ジブリルは少し腰を上げると、数段下に立っていたアルノーの手を取り自分の一つ下の段に座らせた。



「アルノー君」



「はい?」

「実は――取材は嘘だったけど、君と仕事の話がしたかったのは本当なんだ」

 アルノーは瞳を瞬かせた。

「仕事……ですか?」

 遠くでスタッフが動き回る気配はしているが、その階はしんとしている。

 微かな水音だけだ。

「聞いてくれるかな」

「はい……」

「実は近々、私は今の会社から独立して個人事務所を立ち上げることになるんだ」

 アルノーは驚いた。


「話自体は以前から出ていたんだ。君は分かっていると思うけど、勿論今の会社に不満があってのことじゃない。今の会社の総取締役であるインヴレアから特に進言されていたんだ。私の活動の規模が広くなって来てるからね。

 彼女は自分の会社の一部としてじゃなく、私の為のスタッフや設備をちゃんと用意したいと常々言ってくれていたんだ。

 本当は世界ツアー前にそうも出来たんだが……なんというか私が無精でね。話が進まなかった。

 けど世界ツアーは私にとってもとてもいい刺激や経験になったんだよ。個人事務所設立に前向きになれた」


 ジブリル・フォラントの多忙さから考えると確かに今の会社が今後もバックアップしてくれるなら独立したほうがいいのかもしれない。

ZODIAC INVREAゾディアック・インヴレア】は芸能専門のプロダクションではない。

 元々はファッションブランドで、各方面からメラニー・インヴレアが惚れ込んだ職人を招き彼らに会社を与え、時計制作、宝石会社、ホテル産業、と多方面に事業を拡大させていった会社だ。

 ジブリルは彼女が惚れ込んだ音楽家であり、独立している他の会社のように、つまり彼にも専用の会社を与えたいということなのだろう。

 今までインヴレアが行ってきた事業拡大の方向性と何も違わないし、世界ツアーの時にインヴレアは何度もジブリルの公演に足を運んで、アルノーも幾度か挨拶をした。


 彼女とジブリルはとても仲がいい。

 歳は彼女の方が十歳以上年上だが親友のようだ。


 今も気品があり美しい女性だが、この二人を取り巻く環境は恋愛などの艶っぽいものというよりはもっと明るく強い、強固な友情にアルノーは感じられた。独立は必要性あってのこと、ということだろうか。

 アルノーも自分の個人事務所を持った時は、元々所属した会社の社長が業務拡大の為にも独立した方がいいと勧めてくれたからだ。

 今は親会社として業務提携をしながら、必要な時は人手を借りたりも出来るし何かと助かっている。

 

「実はやりたいと思っていることがあるんだ」


 アルノーの琥珀の瞳が静かに自分を見ていて、ジブリルはそれを欲するトロイの気持ちが少し分かった。

この瞳に見つめられると、心が躍る。

「今週中にノルウェーに行って、事務所の準備をする予定なんだよ。当分こちらには戻らないと思うから、だから君に今日会いたかった」

 ジブリルはそっとアルノーの手を取った。

 アルノーはあまりそれには反応しなかった。

 ジブリルの空気が、決していつものように冗談でそんなことをしたように思えなかったからだ。

「ノルウェー……、では事務所はそちらに作られるんですか?」

「うん」

 ジブリルは世界中を転々とする暮らしを気に入っていて、一つの場所に留まったりすることがあまりない。

 唯一、愛するプラハに別荘を所有しているが、あそこには本当にプライベートで戻りたいと前に言っていた。

「意外だった?」

「はい。世界ツアーでも北欧は行きませんでしたから……あまり貴方と結びつかなかった」

「はは。そうだね。でも実はノルウェーはインヴレアの故郷なんだ。その関係で私はバカンスもよく向こうで過ごす」

「そうなんですか」

「好きなんだ。特に冬はいい。パパラッチも極寒の北欧までは追って来ないからね」

 アルノーは笑った。

「確かに……」

「事務所はサンアゼールという街に作るつもりなんだ。ロムスダール県の最北にある、とても小さい街だよ」


「……どこかで聞いたことがある……」


 ジブリルが微かに微笑んで待ってくれた。

 アルノーは思い出した。


「そうだ、貴方のヴァイオリンが発見された街じゃないですか……?」


「さすがに博識だね。そうだよ」


 ジブリルの持つヴァイオリンは【晴れの海マーレ・セレニタティス】という名のついた、非常に珍しい白木のヴァイオリンなのだ。

 二十年ほど前にその街で発見された幻の名器として随分ニュースになった。


「貴方の世界ツアーに同行していた時に、ヴァイオリンのことを少し調べたので」


「サンアゼールは人口が千人も満たない小さな町でね。でもかつては北欧海賊の侵入を阻む海上の砦として利用された、あの地域の要所だったんだよ。

 私のヴァイオリンが発見されたのはその街を治めていた領主の城の宝物庫なんだ。

 生まれ故郷なんだよ。

 中世貴族の手から手に渡って楽器としてではなく美術品として扱われていたが、ある時所有者が亡くなる時にこのヴァイオリンが人の手を行き交ううちに壊れたりしないように、生まれ故郷のヴァイオリン職人の許に返したんだ。職人ならメンテナンスもきっちりして守り抜いてくれるから。

 そしてこの職人が亡くなる時に領主に献上し、その領主が大切に楽器を宝物庫に保管してくれていた。

 でもその領主も流行り病で亡くなってしまい、家族は他の地に引っ越してしまった。

 城は今、廃墟のようになってる」


「そうなんですか」

「実はこの城が取り潰されそうなんだ。管理する人がいなくて劣化も激しいから、危ないと国が勧告を出してね。

 美しい城なんだけど何しろ不便な場所なんだ。別荘にするにしても冬は凍てつく寒さだし」

 どんなところだろう……とアルノーは話を聞きながら想像していた。

「でも私はあの地が好きで……。

 サンアゼールの街の人とも知り合いなんだよ。バカンスで帰るたび、温かくみんな私を迎えてくれる。

 巨匠としてじゃない。

 音楽家の友人としてだ。

 小さいけど音楽家の多く住む町なんだ。

 それで……その城が取り壊されるのが嫌だったから。買ったんだ」

「買った……お城をですか?」

 まあジブリル・フォラントなら城の一個や二個軽く買える資産はあるだろうが、城を買うという発想がアルノーの中には存在しなかったので少しきょとんとしてしまった。

「辺境の城だからね。格安さ。

 でも値段よりもそこにあることの意味だよ。 どんなに高くても、買いたかった。

 買ったのはもうずっと前。ラヴィニアと離婚する二年前だったから丁度二十年前かな。

 買っても私は忙しくてあまり行けなかったから、補修と管理はサンアゼールに住む友人たちに任せてある。彼らはこの二十年ですっかり綺麗に直してくれた。事務所はこの城を利用しようかと思ってるんだ」

「そうなんですか。それならもう物件はあるわけですね」

「そう。三年前くらいからこの城ではバカンスで戻るたびに、街の人を集めて演奏会をしてる。

 白夜の時期にね。

 夜通しプロもアマチュアも関係なく、みんなで歌って踊りながら朝まで音楽を楽しむんだ」

 ジブリルは伸ばしていた足を片足、立てて寄り掛かった。


「君に話したいのは、ここからだ」


 アルノーに向き直った。

「このサンアゼールの城を個人事務所に使うのは決まったんだが、何しろ広い城だから。

 事務所だけじゃ使い道がない。

 それで若い人が音楽を学べるような、学校を作ろうと思ってるんだ」

「学校ですか?」

「勿論、最初はそんな盛大にやるつもりはない。インヴレアは若い才能を見い出す目がある。彼女に何人か音楽家を集めてもらってね。そこで学んでもらおうと思ってるんだ。

 私は数年はそこに留まりたい。

 作曲にじっくりと向き合いたい時期なんだ。

 常任指揮者の話が来てるけど、気が乗らない。すべて断るつもりだ」

 ジブリルは多分、今まで精力的に活動を続けて来たので数年、一カ所に拠点を持ってそこで重点的に仕事をするというのは多分初めてのことだと思う。

「その間は私も見てあげようと思って。

 最大でも十人ほどにしたい。

 音楽が出来る環境を整えたらコンクールを設立して、優勝者にはスカラシップを与えて、若い音楽家を育てたい。

 いや……音楽は自分の中で育むものだね。人から教わるものじゃない。若い才能と私も触れ合ってみたいんだ」

 アルノーは驚いた。

「驚いただろう? 私が若い才能と触れ合いたいなんて、言う人間には思えないはずだ」

「いえ……」

「でもそうなったのはトロイや、君と出会ったことが理由かも。特に君と世界ツアーを回ったことは、とても刺激的になった」

「どうしてですか?」

 アルノーは音楽家ではない。

 トロイにジブリルが刺激を受けるなら音楽家同士であるかもしれないが、アルノーとは畑が違うのだ。

 だがジブリルは首を振る。


「君の写真を見せてもらった。世界ツアーだけじゃない。過去のものも、たくさんね。

 見たがるトロイの気持ちがよく分かったよ。

 あれは確かに、君の世界観そのものだ。

 君の写真には若い才能がたくさん収められてる。アスリートも、音楽家も、その他の人間もね。

 私は今まで若い人材の育成には無頓着で興味も無かった。

 自分が若い時にそういう助けを、全く必要だと思ったことがなかったからだ。

 自分の子供の成長にさえ興味が持てなかったんだからね。

 ……でも君の写真を見ていると若い才能の輝きとパワーと、可能性を初めて美しいなと思ったよ。もっと間近で彼らを見てみたくなったんだ」


 アルノーは嬉しかった。

 彼もカメラマンとして色々な称賛は受けて来た。

 それでもこれほどの人が自分が突き動かされた、と言ってくれることは初めてのことだ。

 微かに色づいたアルノーの頬の花色を、ジブリルはとても美しいと思った。

 そして――彼もまた、その若い才能の一人だ。

 頬に触れジブリルはその頬と、アルノーの唇の端の曖昧なところに止める間もなくキスをしてきた。

 何をするんだという嫌悪を感じるようなものじゃない。

 親愛のものだと感じられる。


「――私と結婚してくれないか?」


 数秒、見つめ合ったままになった。

「えっ?」

 きょとんとアルノーが返す。

「けっこん。」

 瞬き二つ。

「……いえあの、」

「ちょっと待って続きがある」

 ジブリルが何かを言おうとしたアルノーの唇を指で優しく止めた。


「とにかく、そこに音楽院を作りたいと思ってるから同時にサンアゼールの町も古い建物などは作り直して、活気を取り戻せるようにしたいと思ってるんだ。

 城を管理してくれていたのはその街の町長だから彼と話は出来てる。街の人も街が新しくなることは歓迎してくれてるし。

 城の完成を彼らはとても喜んでくれているからね。

 それに音楽院の話もだ。

 彼らは音楽を愛する一つの一族だから、サンアゼールの町に音楽が溢れることは大歓迎してくれている。今もあそこはヴァイオリンの工房があるから。小さな町だから、一つずつ変えていくことは可能だと思うんだ。

 音楽院を作り街を立て直して、あそこを音楽の町にしたい。

 私の愛する、プラハのようにね。

 街の修復はもう始まってるんだ。

 実はこの話はずっと前に一度、出たことがある。

 私が城を買った時だ。

 私は買ったあとも利用しようとしなかったから、ラヴィニアがもっと別の使い道を探したらどうかと、インヴレアと音楽院の話はしていたことがあった。

 その時ラヴィニアは熱心だったけど私はこう言ったよ。『何でも君の好きにしていいよ』って。その二年後に、離婚した」


「……、」


「君は私の間違ってることが分かるんだね。私はついこの前まで気づいてなかったよ。

 ……君とトロイを見ていると、

 好きな人と一緒に何かを作り上げたりする喜びが、どんなに嬉しいものなのかが分かった。

 ラヴィニアはきっと私と一緒に何かをやりたかったんだな。

 大きな……確かなものを。

 私は好きにしていいよと言いながら、全く彼女と一緒に何かをする気なんかなかったんだ」


 その時初めて、階段の下の通路を梯子を抱えた作業員が「それも持って来てー!」と大声で言いながら真っ直ぐ庭の方へ抜けて行った。

 アルノーは気づいたように、ジブリルに握られていた手を引いた。

 だがジブリルは膝に頬杖を突き直し、アルノーの顔を覗き込んで来る。


「今、あの町は再生しようとしてるんだ。

 去年の冬のバカンスはそこで過ごした。

 街のあちこちに壊れた建物があるけど、同じように作りかけの建造物も溢れてる。

 毎日街の姿が変わっていくんだ。

 とても見てて面白い。

 君にはこのサンアゼールのプロジェクトを、カメラに収めて欲しいんだ。アルノー」


 折角取った手を、また握られてしまった。


「私の事務所に来ないか?」


「え」


「君は事務所の社長だけど仕事は多忙だし、会社の業績も上がってる。君の会社の規模と、君のカメラマンとしての腕を考えてもこの先社長業を兼務していくのは無理だろうと私のマネージャーも言っていた。そろそろ誰かに社長業を譲って会社の規模も大きくする時期だと。なら私の事務所に来て、業務提携しないか?

 正直、君を私の専属カメラマンにしたいと思ってる。君はその願望が無いようだったから言わなかったけどね。

 ただ君は本当に契約するのが難しい相手になってしまってるから、他の会社や代理人と同じことをしていてはなかなか一緒に仕事が出来ないんだ。

 勿論君の今までやって来た仕事内容にも、君のこれからの未来にも敬意を示す。

 私だけ撮れなんて言わないし、仕事は今まで通り好きなことをやってくれて構わない。その支援もする。

 でも私との仕事の優先度は上げて欲しい。

 今でも君が私には気を遣ってくれてるのはよく分かる。けど仕事のことで他の会社といちいち君を奪い合いたくない」


 突然の申し出で、アルノーは戸惑ったがジブリルは本気のようだった。

「出来る限りでいい。このサンアゼールのプロジェクトに君も関わって欲しい。音楽院のことも君に撮って欲しいんだ。そこで学ぶ、才能ある若い音楽家が育って行く様子をね。

 変化していく街の様子も。

 君は北欧を撮ったことはある?」

「行ったことはありますが、仕事ではまだ」

 そうか。

 ジブリルは嬉しそうに微笑む。


「とても美しい所だよ。北欧は。一度撮りに来るといい。そうしたら君もきっと、もっと撮りたいと思ってくれるはずだ。

 北欧は気難しい美人だ。

 数週間いただけでは本当の素顔を見せてはくれない。あの地とはじっくり腰を据えて向き合わないと。こんなこと、プロの写真家の君に言うことではないけどね」


「……いえ……」


「だが時間をかけて向き合い続けていれば、信じられないほど美しいものを見せてくれる。

 彼らしか持ってない、唯一無二のものだ。

 素晴らしい所だよ。

 美しいだけでなく、寄り添うような優しい孤独すらも感じさせてくれる……」


 ジブリルが外の景色を見た。

 その横顔の空気が微笑んでいた彼と、一瞬で変わった気がした。


「向こうに戻ると晴れた日の早朝、友人にボートを出してもらう。

 城の側に大きな湖があるんだ。

 海に海中で繋がってる、とても深い湖だ。

 中ほどまでに行って朝霧に包まれていると、本当に何の音もしない。

 やがて朝日が近づくと霧が晴れて来て、すぐそばに白い水鳥が休んでいることに気付く。朝の光が射し込むと彼らは一斉に羽搏いて行く。

 眩しくて、息を飲むように美しい光景だよ。

 その湖上の城で音楽家たちが奏でるんだ。

 来年の夏には、大きな演奏会を数日間掛けて開催したいと思ってる。

 オペラやオケの演奏は街の人もあまり見たことが無い。彼らにも喜んでもらえるような、音楽の夕べをね。その規模を少しずつ大きくして行けたらいい。

 フォルトゥナ賞を受賞したことで私の名の価値も上がったから、コンクールを立ち上げるのも頃合いだと思うんだ」


 ジブリルがもう一度、アルノーを振り返った。


「こういうことを、一から君にオファーをしたくない。会議に出て一緒に作っていけたら最高に幸せだ。側にもいて欲しいから結婚して欲しい」


「あの……」

「ん?」

「結婚しなくても一緒に仕事は出来ますよね」

「お。さすがだねえ。気づいた?」

「ええ……まあ……」

 アルノーは脱力した。

「でもどうせなら結婚してしまえば素敵じゃないか。多くの時を一緒に過ごすんだから」

「いえ……あの、結婚はまだする気はないので……」

「そうなの?」

「はい。しても多忙で結婚生活と立派に言えるようなことはロクに出来ないと思いますし」

 それに何より。


「私はトロイが好きなので」


 ジブリルは優しい表情で笑った。

「そうか……。では今、結婚してくれと頼んだのがトロイでも君は断った?」

 一瞬考えるような表情を見せたが、アルノーはすぐに小さく笑って首を振る。

「トロイが今そう言ったなら、迷わず頷きます。彼は私の仕事をよく理解してくれてるし、お互い多忙で会えないことも慣れてますから、無駄にそれで傷つけることも無い。今結婚したって、今までと何も変わらないでいられる。

なら断る理由がないですよ」


「トロイが羨ましいよ」


 ジブリルが苦笑した。


「結婚は断られてしまったけど仕事のことは一度、考えてみて欲しい。

 君はトロイなら自分を理解してくれると言ったけど、私も君を理解したいと思ってる。

 うちの事務所に君が来てくれても、君のやりたいと思う仕事は決して邪魔しない。

 やりたいことをやれるよう全てにおいてバックアップする。

 君も、君の会社もね。

 収入の面でも必ず君の会社の人達には満足してもらえるようにする」


 握っていたアルノーの手に、上からも手を重ねた。


「サンアゼールのプロジェクトの話を聞いてた時、君の目が輝いてた。面白そうだなってね」


 見抜かれたアルノーは少し、頬が紅潮した。

「そっちの答えはいい返事を楽しみにしてるよ」

 ジブリルが微笑みごく軽く、額に口付けが落ちた。



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