第3話【眠る美術館にて】②



 ウルビーノホテルの前でタクシーから降り、ホテルに入って行く時に、ホテルの庭にある池の反対側の壁にびっしりと報道陣がはりついているのが見えた。


 相変わらずすごい人の数だなと思いながらも、最近カメラを向けられることにすっかり慣れてしまったアルノーである。

 今日はジブリルの雑誌の取材で呼ばれている。

 勿論相手はすごい巨匠なので緊張もするが、アルノーはジブリル・フォラントと仕事をするのは楽しみだった。

 ジブリルは世界ツアー後からも幾度もオファーをくれたが、アルノーもすでに仕事が入っていて断らなければならない仕事が幾つもあった。

 今日は予定が調整出来たので、オファーを受諾出来たのだ。


 彼はメールは頻繁にくれる。

 主にアルノーの様子を窺う他愛ないものや、自分がどこの国で何をしているかなどの些細な近況報告だ。勿論相手が目上過ぎるのでアルノーからはメールはしない。

 返信の時だけだ。

 ジブリルはトロイの父親なだけあって、凄い人だというのに気さくでついついこちらも親しみやすくなってしまうので、アルノーは意識的に気を付けているのだ。


 通常ホテルで取材の仕事が入ると撮影準備をしてある部屋に行くのだが、入った途端、人の行き交う高級ホテルの華やかなエントランスに立っていたホテルマンがアルノーの顔を見るなり「あっ」という顔をして、何故かラウンジの方にアルノーをにこやかに案内した。

 確かにこのホテルはイタリアも好んでいるジブリルの仕事では何度も利用することがあって、アルノーも何度も来ている。

 このホテルマネージャーとも顔見知りと言えば顔見知りだがこんなに客のように、にこやかに恭しくまずラウンジに通されることは初めてだった。


 だがラウンジに行けば理由はすぐに分かった。


 螺旋階段で繋がる上階のラウンジに、優雅に座ってコーヒーを飲んでいるジブリル・フォラントの姿があった。

 外の取材陣が壁にへばりついて撮っていたのは無論、彼である。

 そんな中でも雑誌のワンページのように本を読みながら非常にリラックスした様子で彼はそこにいて、側で仕事をしていた女マネージャーが、アルノーの姿を見つけると立ち上がり笑顔で挨拶する。すぐに彼女は去っていってしまった。


「やぁ、久しぶりだね」


 ジブリル・フォラントが柔らかい笑顔で手を軽く上げた。


「お久しぶりです」


 肩に担いでた自分の荷物を下ろしてアルノーが挨拶をする。

 ジブリルと出会った頃はトロイとはまた違う印象の人だなという想いが強かったが、よく知るようになってからはアルノーの中で「やっぱりこの人トロイに似てるんだな……」という実感の方が強くなっている。

 だが勿論、その感覚とアルノーがトロイに愛情を感じる感覚は全く違うものだ。

 ジブリルは片恋宣言してから隠すことなくいつだってアルノーにアプローチをして来るようになったが、それを本気に取ったことは一度もない。

 しかしトロイに彼が似ているからこそ、ジブリルの気まぐれに自分が付き合ってしまうほど弱いのは自覚がある。

 アルノーは挨拶してから、辺りを見回した。

「?」

「どうした? 座って」

 椅子を勧められて、はい……と頷きながらも。

「皆さんはもう撮影現場ですか……? 私も準備に入らないとまずいのでは……」

 ジブリルはここで時間まで優雅に過ごしていても問題ないが、アルノーは現場スタッフの一員だ。

「マズくないよ。撮影準備はないから」

「? なにか問題があって遅れてるんですか?」

 そういうことはジブリルのような巨匠の取材でも、稀にある。機材などはどうしようもないことがあるからだ。

 だがジブリルはそういうところは大らかなので実際の仕事に妥協はないが、こういう準備段階のトラブルに関しては「仕方ないね」とあまり大事にはしない。

 しかしながらそれならば尚更、自分も手伝いにすぐ行った方がいいのではないかと思い、思わずどこかを見たアルノーに、ジブリルが穏やかに笑う。

「いやそうじゃない。撮影はないから、準備の必要もないんだ」

 アルノーが瞬きをする。


「……。

 ……?

 ……もしかして嘘とかじゃないですよね」


「嘘なんだ」


 ジブリルがニコッと笑った。

 アルノーががっくりとテーブルに手を突いて頭を伏せた。

「本当ですか?」

「君にどうしても会いたくて」

 確かにこの人もトロイ同様突拍子の無いことを言ったりしたりはすることがあるのだが、ここまでのことをされたのは初めてのことだった。

「フォラントさん……」

「ごめんよ。確かに嘘は酷かった」

 でもそう言いながら笑ってる。

 アルノーは脱力した。

「怒ってる? 私のマネージャーは、さすがの君でも怒るよと言ってた」

「……怒るというか……信じられなくて……、本当に撮影今日ないんですか?」

「ないんだ」

 ごめんね、とジブリルが両肩を竦めて笑ってる。

「取材先で揉めたことはありますが、取材自体が嘘だったっていうのは今まで無かったかな……」

 脱力しているアルノーにジブリルは優しく声を掛けて来て、子供にするみたいに頭を撫でて来た。

「本当にごめん。嘘で呼び出すのはもうしないと今日で誓うよ」

 おかしそうに笑っている。

 悪戯好きなこの人も、さすがにこんなことをしたのは初めてなのだろう。

 そう思ってアルノーは溜め息をつき、崩れた上半身をゆっくり元に戻した。


「取材として契約したお金はちゃんと払うから、一度椅子に座ってくれると嬉しいなあ。

 勿論、全ては君に選ぶ権利があるけど」


 今日は緩く三つに編んで背中に垂らしていた彼の長い金色の髪が、肩から前に落ちて来る。

 アルノーは仕事中は必ず髪は結ぶ。そのまま流していることはない。

 数秒、彼は琥珀の瞳でじっとジブリルを見たが、やがて小さく息をつき椅子に座った。

「良かった。ありがとう」

 ジブリルが遠くにいた給仕に、コーヒーを頼んだ。

 すぐにアルノーの元にコーヒーが持って来られた。

「ありがとうございます」


「とんでもない。君は誇り高いプロのカメラマンなのに、とても無礼を働いてしまった。

 心からお詫びするよ。

 それに二度としないとも誓う」


 これは笑わず真剣な表情で言うと、数秒後、カップに口を付けようとしていたアルノーの唇がふっ、と力を抜いて微笑んだのが見えた。




 ――トロイは。




 ジブリルの見た限り、平時の大概の割合を、大らかで伸び伸びとした気性で過ごしている。

 彼のダンサーとしての仕事へのアプローチを見ていても行動的で勇敢で、挑戦的だ。

 前向きなエネルギーに満ちている。

 でもその中に、鋭い棘のような繊細さや臆病が混じることある。


 それが、恋愛に対してだった。


 ジブリルに向けるあの、身構えた表情が父親だからなのか、偉大な音楽家だからなのか、それとも他の何かだからなのかは分からないがトロイの奥底に、本当にごく一部分の触れられたくない場所を隠すように、存在する繊細な感情があった。

 それは誰にも理解出来ず止められもしないものだったが、唯一、アルノー・イーシャだけがそうなったトロイを宥められる。

 アルノーの他人を許容する柔らかさや、穏やかな気性や言動がそうさせるのだと思う。


「仕事もしてないのにお金はもらえません」


 彼は小さく笑って言った。

「でもわざわざ来てもらったから。構わず受け取ってくれ。私が悪いんだからね。とにかくこのまま君を帰しては申し訳なくて私の気が済まない」

 アルノーは笑って、首を振った。

「では世界ツアーではお世話になったので、今回の悪戯は大目に見るということに」

 ジブリルが数秒後、吹き出した。

「そうか。それなら……うれしいな」

「でも何故今日に限って……?」

「久しぶりだったからね。実は今日を逃すとしばらく会えなそうだったから」

「あの……だったらそう言ってもらえば」


「会いに来てくれた? 無理だよ。君は仕事じゃなきゃ会いに来てくれないし、本当に売れっ子だもの。仕事でも相当な仕事だと言わないと断られてしまう」


 巨匠にそんなことを言われてアルノーは驚いた。

 勿論そういうことをする人ではないけれど、この人ならアルノーが多忙だろうとなんだろうと会社を通じて「いいから来てくれ」と言うだけで自分を呼び出せるのに。

「?」

「……いえ。……あなたにそんな風に言っていただけるのは光栄ですけど、とても申し訳ないなと思って。本来貴方は私を電話一本で呼び出せる人ですから」


 そんなことはないよ。


 ジブリル・フォラントは笑った。

 そこまで言って、アルノーは思い出した。

 冒頭の遣り取りですっかり忘れてしまった。


「レイヴェン・フォルトゥナ賞、受賞おめでとうございます。

 私は音楽のことはまだまだよく分からないことも多いんですが、その賞のことは聞きました。クラシック界では最高位の賞の一つだそうですね。

 二度目の受賞も史上三人目だとか……本当におめでとうございます」


「ありがとう。じゃあ受賞のお祝いに、今日の無礼は見逃してもらえるかな」

 アルノーはとんでもないと首を振った。

「それとこれとは別ですから」

「はは……そうか。じゃあ、あとでハグでもしてもらおうかな」

 ジブリルが窓の向こうの遠くで雑技団のような梯子芸を見せつつ、カメラを撮ってるパパラッチに微笑んで手を振った。

 一斉にカメラのフラッシュが輝いた。

「いえあのフォラントさん……」

 そうじゃなくて……とアルノーがやんわり制止する。

「なら受賞のお祝いを別にしてもらいたいと言っても、君は怒らない?」

「もちろんですけど……」

 今日は本当に仕事の準備しかしてきていない。


「じゃあ君とデートがしたいな」


「え?」

「駄目かい?」

 駄目もなにも、自分はともかく困るのはこの人の方じゃないのかなと思う。

「……外に出るんですか?」

「うん。いい天気だし」

「あの、私は構いませんが、フォラントさんは大丈夫なんですか?」

 ジブリルはどこに行っても注目されてメディアが追う。街を気楽に出歩けるような人ではないのだ。下手にそんなことをすると街に大混乱が起きる。

「この近くに知り合いの建築家が建てた美術館が出来たんだ。近くに寄ったらぜひ見ておきたいと思ってね」

「そうなんですか」

「オープンは来月。今は閉館してて準備中だ。でも私が行けば開けてくれると言ってもらってるから」


 なるほど。

 人がいないなら、大丈夫だろう。

 自分というよりジブリルの安全を考えてそれならば、と安心した。


「構わない?」

「はい」

「良かった。悪いなあ、騙して来させた上に付き合わせてしまって。この埋め合わせは絶対別の時にするよ」

「いえそんなことはしていただかなくて勿論構いませんが……あっ、」

「?」

 立ち上がったアルノーが思い出したように、声を出して額を押さえた。

「事務所から大型機材は、ここに送ってしまったんですけど……」

 ジブリルが吹き出す。

 彼は慰めるようにアルノーの肩を叩いて、背を支え歩き出した。

「マネージャーに言って丁重に君の会社に戻しておくよ」

「はい……」

 もう悪戯は二度としないからとジブリルは笑いながら言った。


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