偽りのキス
鳥尾巻
本物のキス
思いもかけず手の中に堕ちてきた。入社の面接の時以来、ずっと好きだった同期の
そんな彼女から先月のバレンタインに告白されて、俺はかなり浮かれた。いつも素っ気ない態度だったから、片思いだと思っていた。付き合うことになった夜、興奮しすぎてどこかの血管が切れるかと思った。普段は真面目でしっかり者なのに、俺の前でだけ素直でエロいなんて、最高。
「あのね、
翌朝、酔った勢いではなかったことを確認した後、茉奈は申し訳なさそうに眉を下げた。俺の膝の間にちょこんと座り、しょんぼりしている彼女は可愛い。意外と甘えたがりなのも嬉しい誤算だ。俺は恋人を甘やかしたいので、そこも相性がいいと思う。
ルールその①会社では名前で呼ばない
ルールその②会社では接触禁止
ルールその③報告連絡相談
俺の彼女、映画の運び屋かよってくらいのルールだが、茉奈が何を恐れているのか知っているのでツッコまない。もっと信用してほしい気持ちもあるが。
「ごめんね、めんどくさい女で」
「そういうとこも好きだよ。秘密って楽しいよな」
言葉を惜しんでいいことなんてない。恋人同士も報連相だいじ。俺は後ろからぎゅっと彼女を抱き締める。もちろん、くんずほぐれつの非言語コミュニケーションもだいじだよね。いい匂い。柔らかい。あー、幸せ。馬鹿になりそう。
数日後、妙な噂が立ち始めた。各務茉奈が俺と○○社の向井に二股をかけているというものだ。
もちろん日頃の彼女を知っている周りも俺も信じていなかった。だが知らない人間は噂話を鵜呑みにして、遠巻きにひそひそやっていた。どうして付き合ってるのがバレたのかは置いといて、出所の見当はついていたので、俺は証拠集めを急ぐことにした。
ホワイトデー当日、リフレッシュルームに一人でいると、同期の
「茉奈のこと聞いた?」
「まあね」
「茉奈、向井さんによりを戻したいって言ったらしいの。私、フラれた彼の相談に乗っているうちに付き合うことになったんだけど、二人ともお互い未練があるみたいで辛くて別れちゃった」
坂崎はくるんと上向きにカールした睫毛を瞬かせて、大きな目を潤ませる。俺は冷めた気持ちでそれを眺めながら、素っ気なく答えた。
「ふーん」
「茉奈と付き合ってるんでしょ?」
「そうだよ」
バレているなら隠しても仕方ない。俺が頷くと、坂崎は辺りを見回して、声を潜めた。
「これ見て」
彼女が見せてきたスマホには、寄り添ってキスしているように見える男女の写真。男性の顔はよく見えないが、○○社のロゴ入りジャケットを着ていて、女性の方は茉奈だ。
「内緒で会ってるのよ」
「へえ」
「久保くん何か聞いてる?」
「……いや」
俺は俯いて唇を噛んだ。堪えようとしたが、肩が震える。坂崎は俺が動揺していると思ったのか、腕にそっと手を添えてくる。
「大丈夫? 久保君」
俺はとうとう耐えられなくなって吹き出した。坂崎の顔色がさっと変わる。
「どうしたの?」
「あのね、これは俺」
「うそ」
「向井と茉奈が付き合ってた事実はないよ。これは自称・茉奈の元カレのセクハラを報告しに行った帰り。営業先の会社の子達からも被害報告が何件も上がってて。音声や画像記録が残ってるから言い逃れはできない」
「でもこのジャケット」
「逆切れした向井に珈琲かけられてさ、向こうの上司が向井のを貸してくれたんだ。俺達背格好似てるしね」
坂崎は震えながら、縋るように俺を見た。再び伸ばされてきた手をさっと避ける。
「わ、私も向井さんに騙されたの」
「それは災難だったな。皆に裏取ったけど、噂は君から聞いたって言ってたよ」
「そんなの嘘よ! 茉奈が皆に嘘つかせてるの!」
綺麗に巻いた髪を振り乱して、坂崎が叫ぶ。言ってることが支離滅裂だ。こうやってずっと茉奈を悪者に仕立てて、自分は被害者ぶってきたのだろう。茉奈が秘密にしておきたがる訳だ。
「いい加減にしろよ。そんなことして彼女に何の得がある。もう茉奈に近づくな」
思わず低い声が出た。俺は滅多に声を荒げることはないが、これは聞き捨てならない。坂崎は化粧が崩れるのも構わず泣き始めた。
「茉奈ばっかりモテてずるい! 私の方が可愛いのに」
「百歩譲って君が可愛かったとしても、人の彼氏を盗るのはダメ。寂しいなら元カレとよりでも戻したら? 下衆同士お似合いだよ」
そんなことより今夜はデートだ。
待ち合わせたカフェに行くと、いつもよりお洒落した可愛い茉奈が、俺を見つけて小さく手を振る。ああ、今夜も最高の夜になりそう。
ルール③以外はもう守らなくていいんじゃないかな。まあ、裏でいろいろやったことは言うつもりないけど。
偽りのキス 鳥尾巻 @toriokan
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