第29話 長老再び
人家の多い区画を抜けてしばらく歩いていくと、大きな川に出くわした。橋が架けられてはいるものの、あまり頑丈そうではない。流れは穏やかなようだったが、万が一のことを考え、ソーニャは川を渡ることを諦めた。
川に沿ってひたすら東へと歩き、やがて小さな谷が見えてきた。ソーニャは安全に留意しながら、ゆっくりと谷底へと下りる。底には先ほどとは打って変わって、ぴょんと飛び越えられそうなくらいの幅の川が流れていた。そこに人はおらず、どこまでも同じような景色が広がっているようだった。
ソーニャはしゃがみこんで、川の水を観察した。水は澄んでおり、よく見ると小さな魚が何匹も泳いでいた。濁っている王都の川を見て育ってきたソーニャには、新鮮な体験だった。
ふと、水面に映る自分の顔に気づき、ソーニャは眉をひそめた。側頭部から、一対の羊の角が生えている。この里の人々にとっては自然なことなのかもしれないが、つい最近このような姿になったソーニャとしては、違和感を覚えざるを得なかった。
「……まだ慣れないな。おそらく、こちらの方が私の本来の姿なのだろうが」
頭を軽く振って、ソーニャはその場を離れようと、ゆっくりと立ち上がった。と、その時である。
グルルルという獣の咆哮のような音が聞こえ、ソーニャは勢い良く振り返った。
ソーニャから十数メートルほど離れたところに、巨大な熊……否、
「!」
ソーニャは反射的に臨戦態勢に入り、姿勢を低くした。そして、腰に手を伸ばし——丸腰であることに気づく。
「……そうだ。今の私は、騎士でも何でもない」
ソーニャは落胆し、一つ息をついた。しかし、剣がなくとも、このまま諦めるわけにはいかなかった。彼女は落ち着いて羆の目をまっすぐ見つめる。そして、じりじりと一歩ずつ、下がっていった。羆が近づいてこないことを確認して、ソーニャはくるりと背を向け、一目散に逃げ出した。
「グルルアアア!!」
羆の機嫌を取ることに失敗したらしく、猛る咆哮がソーニャを追いかけてくる。だが、振り返っている余裕などなかった。ソーニャはただひたすらに走り続ける。日頃の鍛錬の甲斐もあって、彼女はかなり長い間逃亡劇を繰り広げることができた。しかし、次第に追い詰められ、息が上がってきた。そして、落ちていた石につまずいて転んでしまった。
振り返ると、羆が低い声で唸りながら、こちらを見下ろしていた。今にも襲いかかってきそうである。
「……これまで、か」
ソーニャは観念して、目を閉じた。と、次の瞬間、バチンという音がした。直後に「ギィヤアアアアア!!」という耳を劈くほどの凄まじい絶叫が響き渡り、次いでどさりと何か大きなものが崩れ落ちるような気配がした。
「……やれやれ。手間をかけさせてくれるわねぇ」
聞き覚えのある声に、ソーニャがゆっくりと目を開けると、そこには黒いローブをまとった一人の女性が立っていた。側には、羆が倒れている。ピクピクと動いているのを見るに、どうやら気絶しているだけのようだ。
「長老……!?」
ソーニャは瞠目した。女性はふんと鼻を鳴らし、しぶしぶといった様子でソーニャに手を差し出す。
「ほら、早く立ちなさい。それと、わたしのことは『長老』と呼ばないで。なんだかお婆さんになったみたいで嫌だわ」
「では、何とお呼びすれば……?」
「わたしの名前はカリーナよ。カリーナお姉様とでも呼んでちょうだい」
「いや、それは流石に……」
「何よ、わたしに逆らうつもりかしら?」
「そ、そうではないが……」
とにかくもソーニャは、長老——カリーナによって助けられたのであった。
ソーニャはカリーナに連れられ、里の様子を見て回っていた。カリーナは見た目に反してかなりの年齢であるとアンナに教えられてはいたが、思いの外彼女は健脚で、油断すれば置いていかれてしまいそうだった。ソーニャは何とかカリーナについていく。
「それにしても、どうしてあなたは、あんな誰も行かないようなところにいたの?」
振り返らずに、カリーナが問うてきた。
「里のことをもっとよく知りたかったのだ。そのために、いろいろなところに足を伸ばそうと。地図もアンナさんからいただいたゆえ」
「そう。どうして知りたいの?」
「……私のルーツを知る、手掛かりになるかと思ったのだ。既に里の人々から、私はどうやら巫王の血脈に連なっているらしいと知らされたのだが……」
その言葉に、カリーナが足を止めた。そして、低い声で問う。
「……どうして、みんなは、あなたが巫王の血を引いていると思ったわけ?」
カリーナの醸し出す雰囲気が一層とげとげしくなったので、ソーニャはごくりと唾を飲んだ。そして、恐る恐る話し始める。
「里の子どもに、瞑想を勧められたのだ。それをやってみたら、季節が巡る中、二つの光るものを両手に収める映像が頭の中に流れ込んできて……」
「やっぱりそういうことだったのね。まあ、子どものやったことなら仕方ないか」
ソーニャの言葉を遮り、カリーナはどこか諦めの滲んだ口調で言う。そして、彼女はソーニャに向き直った。
「わたし、あなたのこと尾行してたの。気づいた?」
「え……?」
全く心当たりがなく、ソーニャは目を瞬かせた。ぽかんとした表情を浮かべる彼女に、カリーナは呆れ顔になる。
「はあ、まったくもう。巫王の娘のくせに、あんな初歩的な術にも気づかないなんてねぇ。浄者失格よ、あなたは」
「す、すまない……」
「謝るようなことじゃないわ。……あなた、自分のルーツが知りたいって言ってたわよね?」
「ああ。私の信じてきたことは偽りだったと、恥ずかしながら最近になってやっと知ったのだ。今度は、きちんと真実を知りたい」
「……」
ソーニャの毅然とした態度に、カリーナは眉を寄せた。そして、しばらくソーニャの顔を見つめた後、大きく息を吐いた。
「その目、本気ね。……分かったわ、あなたについてわたしが知ってること、全部教えてあげる。でも、そうね、あの男の人……ユリウスくんって言ったかしら? あの人の耳にも入れておいた方がいい話かもしれないから、一度帰りましょう。彼はどこにいるの?」
「アンナさんの家にいると思うが」
「そう。じゃ、行くわよ」
「え?」
ソーニャが首を傾げた瞬間、彼女とカリーナの姿はその場から消え失せていた。
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