妖精

カッコー

第1話

気が乗らない時で僕は何もしたくなかった。いくら職業だからと言って、そんな気分の時に、どう書けと言うのだろう。まして何処の誰だか解らない一読者が決めたテーマをだ。何故こんな企画を採用したのか全く解らなかった。しかも、それを、こともあろうに僕が書く。そんなことありえない。何処かの素人作家にでも書かせればいい。何故僕なんだろう。素人作家が駄目なら、二流作家だって、三流作家だって世の中には沢山いる。そう言う、言わば仕事にあふれた作家たちなら喜んで書くはずなのだ。そんなこと素人にだって思いつく。考えているうちに、僕は本当に腹が立ってきた。やっぱりこの企画は突っ返してやろうと思った。出版社まで出掛けて行くのも癪なので僕は電話で済まそうと考えた。でも、携帯が見つからない。いつもそうだ。だいたい肝心な時に僕は躓く。なら、公衆電話を使ってでも電話してやろうと思った。然しその依頼書には電話番号が書かれていなかった。全く企画書をよこすくらいなんだから、電話番号くらい載せとけよ、と僕は呟いた。一流な出版社だと噂を聞いてはいたけれど、怪しいなと僕は思った。

僕はある文学賞でただひとり金賞を取った。そして小説の書籍化が決まり、今の出版社から僕の小説が世に出ることになった。僕はそのための最後の仕上げに掛かっていたところだった。その仕上げが上手くいかずに、何日も悩んでいたのだ。そのうちに気が抜けたような気分になって、なにもやる気がおきなくなっていた。そんな時にこんなことを押し付けてきたのだ。腹が立った。僕は出版社まで、文句を言いに行くことにした。僕はその企画書を手に電車に乗った。僕は僕の小説の出版のことで何回か行ったことがあった。空はどんよりと曇っていたけれど、雨は降っていなかった。丁度夕方で電車は思っていたより混んでいた。僕は止まった電車の入り口の左側の先頭に並んでいた。電車の扉が開いて乗客が降りてきた。その先頭の乗客が僕の足を傘の先で突いたのだ。降りるときに体重を掛けていたらしく、僕のスニーカーに傘の先が食い込んだ。僕は悲鳴をあげてしまった。その乗客は謝りもせず、人混みに紛れて行ってしまった。左足の親指と人差し指の間の皮膚の薄いところだった。僕は電車のポールに掴まって、痛みに堪えていた。傍にいた女子高生たちがくすくす笑っている声が聞こえた。ふん、鏡を見てから笑えと僕は心の中で思った。

然し足がとても痛かった。スニーカーをよく見ると、穴の跡のような窪みが確認できた。もしかしたら、傘の先がスニーカーを貫いたのかも知れなかった。なにもかも、あの出版社が惡い。だいたいあんな企画を押し付けるからこんなに痛い目に遭ったのだ。女子高生たちには笑われるし、この責任は何が何でも取って貰うぞと、僕は腹の中でそう思った。

電車が出版社のある駅に着いた。僕は片足を引きずりながらプラットフォームを歩き、手摺に体を寄せながらやっとの思いで階段を下りた。足はズキズキと痛んでいた。ようやく改札を抜けることができた。僕がビッコを引きながら歩くのを、周りの人間は含み笑いで見ているようだった。見世物じゃないんだと言いたかったが言わなかった。外に出ると急に雨が降って来た。けっこうな雨だ。この雨の中をこの足で歩いて行くのは大変そうに感じた。出版社は近い。あの歩道橋を渡れば直ぐだ。そう思っている間にも雨は益々強く降り出した。とても酷い雨だ。どうしても傘がいる。僕はキオスクで傘を買った。そして傘をさして一歩前へ進もうとした時、足に激痛がはしった。

このままでは、とても歩けない。僕は選択に迫られた。傘をさして、この雨の中を行くか、それともこの傘を杖として歩いて行くのかのどちらかだ。僕は傘を杖にした。杖にして歩き出して3歩目には頭から爪先までびしょびしょになってしまっていた。もう、服のまま泳いでいるのと何の違いもなかった。その時、誰かが僕に声を掛けてきた。

「赤い帯が垂れてますよ」

赤い帯?僕は何を言われているのか解らずにその人が指差す方を振り返ったら、確かに赤い帯を僕は引きずって歩いていた。それは駅の改札口辺りからずっと続いていた。僕はそこから辿ってみたら、それは僕の痛めた足から続いていたのだ。僕の緑色だったスニーカーが、気がつくと茶色になっていた。

「傘を持っているじゃないですか、どうしてささないんです。どうかしてるぜ」

僕はそれが左足からの出血だと気づいた。血が流れている。しかも大量の血だ。心の中でこれはヤバイと思った。出血が余りに多すぎる。死と言う言葉が脳裏を掠めた。少し体が揺れた。ふらついたのだ。ああ、何故僕がこんな目に遭わなくちゃならないんだ。そう思うと、気が遠くなっていった。遠くなりながら、どざえもんと言う言葉が頭の中で木魂のように聞こえていた。どらえもんとも聞こえた。どらえもん??。

雨は容赦なく降った。これでもかと降った。嫌になるのを諦めるほど降った。雨に煙る町に、救急車のサイレンがけたたましく鳴っていた。

サイレンが止まった頃、赤い帯は雨粒に弾かれて、すっかり流れ消えてしまっていた。

僕が気がついたのは病院のベッドの上だった。年配の看護師が僕の顔を覗いていた。

「気がつきましか、もう大丈夫ですよ、何の問題もありませんから明日の朝十時に退院ですよ。解りましたか?」

僕ははい、と言って頷いた。

「服や下着は廊下の先の乾燥機に入ってますからね、後三十分くらいですよ」

僕は三十分後、ベッドから降りてスリッパを履こうとした。左足には絆創膏が張ってあった。痛みは感じなかった。僕は廊下の先の乾燥機まで歩いた。その途中に休憩室があって、ホットコーヒーの無料バリスタが目についた。僕は紙コップを抜いて、バリスタにセットした。その紙コップを持って、窓際の一人用の席に座った。ふと、企画書のことを思い出したけれど、なんだかどうでもよくなっていた。窓の外は酷い雨だった。町が雨に煙っていた。僕は熱いコーヒーを、焼けどしないようにそっと飲んだ。香りが口から頭の中に広がり僕の脳を優しく撫ぜて行くように感じた。僕はもう一口飲んだ。何処かへ落ちていくような、そして琥珀の香りが僕の脳に突き刺さるのを僕はとても気持ち良く感じて、思わずため息を漏らした。僕が見ている硝子窓の外の雨と僕との間に女の姿が映っているのに気がついた。僕は思わずその休憩室を見まわしけれど、何処にも人の姿はなかった。僕は眼を擦ってからまた窓ガラスを見た。確かに女が映っていた。もう一度振り返った。でも、やはり休憩室には誰もいない。背筋を冷たいものが下りていった。僕はそっと振り返って硝子に眼を近づけた。女がいる。浮いている。しかも背中に羽根をつけている。僕は紙コップを掴むと急いで席を立った。そして速足に乾燥機へ向かって歩いた。それは眼の錯覚だと思い出していた。なんで幽霊みたいなものを見なくてはならないんだ。僕はただ仕事を断わろうとしただけなんだ。何なんだあれは、本当に幽霊だったのだろうか。僕は乾いた洋服や下着を乾燥機から取り出すと、真っすぐ前を向いて、病室に戻った。

「どうした若いの、顔が真っ青だぞ」

相部屋の緑色のシャツを着た爺さんが、赤い褌を締め直しながら僕の方へ近寄って来た。

「ああ、悪かったが、一緒にこいつを乾かさせてもらったよ」

「はい、ええっ?」

僕は何とも言えない気持ちになった。爺さんは木槌と名乗った。たぶんキズチと言ったように聞こえた。もしかしたらクィディッチと言ったのかも知れない。

「なんだ、震えてるのか?」

「いえ、何でもないんです。なんでもないのですが‥」

「見たんだろ」

いきなりそう言われて僕はどきっとした。

「見たんだ、あれを」

「あれって、何ですか?」

「あれはだな、つまり何だな、妖精だよ」

爺さんはそう言うと、傘立てに刺してあった傘の雨滴をトントンとやって落とした。何故か爺さんは、片方しかスリッパを履いていなかった。

「妖精ですか?」

「ああ、ヒアデス星団のホーラーだよ」

「ヒアデス星団のホーラー?」

「ん、詳しいことは知らないが、雨の日に現れる、雨の妖精。なんとなくそう言われている」

やはり、さっき僕が見たのは間違いじゃなかったんだ。でもどうしてそんなものを、僕が見るんだろ。雨の妖精?ホーラー?ってことは、見たのは僕が初めてじゃないってことになる。

「その妖精って、今までも現れたのですね」

「ああ、雨の日にな。何人も見ているよ」

「そうですか、良かった、僕だけじゃなかったんだ」

「よかないよ」

「どうして?」

「見たやつは、みんな消えてるんだ」

「消える?」

「ああ、消えちまう」

何だか僕はよく解らなくなってきた。今日一日がどう成り立っているのか、そして僕は本当にここに存在しているのだろうか、僕はぐったりと疲れ果てていた。僕はどうすればいいのか解らなくなった。こんなことはみんな夢ならいいのにと思った。その時僕はひらめいたのだ。そうだ、この物語を夢にしてしまえば全ては上手く治まるじゃないか。

夢にすれば結末だってどうにでもなる。雨の妖精だろうが何だろうが、それで終わりだ。よし、ここで何処かへ行ってしまった携帯電話を鳴らそう。その音で僕は夢から覚める。そしてこの解らない世界からさよならだ。

その時、携帯電話がけたたましく鳴った。僕はびっくりして飛び起きた。ああそうか、僕はラストシーンを考えていて眠ってしまったんだ。もう締め切りまでそんなに時間がある訳じゃはないのに、どうしてここまで来て浮かばないんだろう。まったく夢ならいいのにと思った。

夢か、と僕は思った。そうだ、ラストシーンは夢にしたらいいんだ。雨の降る夢で終われば全て上手くいく。雨の妖精でも少し付け加えて。

 

                        完結済み



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妖精 カッコー @nemurukame

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