撫子


 隣の子はずっと寝てる。朝昼晩。いや、晩まではどうかは知らないけど。

 朝、登校してきてから、すぐ眠って、そのまま一限目〜四限目までぐっすり眠る。そして徐に起きては、お弁当を取り出して食べ尽くし、すぐに眠りに戻る。そして放課後へ――……いったい何しに学校へ来ているんだろうか。

 そんな深海魚みたいな不思議さがある『姫川純』さんの隣の席が私の席だった。しかも、ベランダ側の一番後端ということで、私だけが姫川さんの隣だった。


 だから、


「じゃあここは――姫川」


 もし姫川さんが教師に数式の答えを問われたり、作者の心情を訊かれたり、科学の実験にお呼ばれされたりした時は、私が目覚めさせないといけない。そんな使命感に駆られる。

 今回は歴史の授業で、徒に難しい漢字ばかりが使われる平安時代の貴族の名前を問題にされ、今日の日付が18日ということで同じ出席番号の姫川さんが当てられることとなった。


「……ひ、姫川さん。呼ばれてるよ。姫川さん!」


 私は教師に気づかれないように、小声で姫川さんに語りかける。教科書で顔を隠しながら、教師にバレないように居眠りの隠蔽の片棒を担ぐ。


「…………!」


 私必死の呼びかけが功を奏し、姫川さんが目を覚ました。だが、今一体どういう状況なのかは判別ついていないようで、自分が当てられたとも全く思ってない表情でいた。まぶたが、もう一度閉じようとしたその時、「姫川? どうした」教師の言葉が姫川さんに今の状況を気づかせた。姫川さんは勢いよく立ち上がって教科書を両手で広げて持った。開いてるページは授業内容とは全く関係ない場所だったので、私は当たり前だが姫川さんは授業を何一つ訊いていないのだと悟った。こちらから見える右目でさえ荒波の海で溺れているぐらい慌ただしく泳いでいて、少し不憫に思えた。


「――姫川さん、姫川さん」


 泳いでいた目がこちらを向く。私は答えが書かれている部分を指差して、これこれこれこれこれと口を酸っぱく動かす。

 私の思いが通じ、姫川さんは小さく頷いてからハッキリと大きな声で


「後醍醐天皇です」


「違います」

 

 教師は突き放すかのように冷淡に言ってから、本当の答えと解説を繰り出して、待ちきれなかったのか日直の号令を急かし、授業終了のチャイムと同時に教室を退室していった。

 最悪の時にやらかしてしまった。

 私は、隣を見ることができなくなっていた。脂汗がダラダラと流れ出て首周りで固まってしまったから。そんないい加減な理由をつけて姫川さんの方を見ないようにしながら、教室を飛び出そうとした、その瞬間


「ねぇ」


 姫川さんの声が私の逃げ足を捕まえる。

 気持ちよく寝ていた所を起こした挙げ句――間違いを教えて恥をかかせた私への怒りは有頂天に達しているだろうし、恐れながら姫川さんの方を向くと同じようにこちらを向いていた姫川さんと、初めてだろうか……真正面から目が合う。


 真正面から見た姫川さんの顔は、頬に手のひらの跡がついていながらも、完成された顔立ち。横溢してくるあどけなさが、姫川さんの内面を表現しているようだった。

 そんな赫々たる面が、黄金比に劣らぬ口角で微笑んで、


「さっき、起こしてくれてありがとう」


 ◆私の心までも鷲掴む。◆

 

「あ、えっ、どっどういたしまして」


 舌が上手く回らない。全身の血球が熱を帯びて光ファイバーよりも素早く体中を駆け巡る。動悸が酷くなって、次の言葉を見失って、思考停止の末――私は姫川さんの隣に戻ってしまった。

 私が座る一連の過程を見終わった姫川さんは机を漁り中から枕を取り出した。

 そしてその枕に顔を預けると、こちらを向いてまた私を惑わす微笑みを繰り出す。


「私ね、家だと全く寝られないんだ」


 学校で見る姫川さんからは考えられないような話で、そもそもなんでそんな話を私にするのかという疑問が浮かぶが私は赤べこのようにただ頭を上下に振り続けて薄い相づちしかうつことができなかった。

 続けるままに、姫川さんは私の顔をじっと見つめる。


「逆に学校だとよく眠れたんだけど……その理由が今日分かった気がする」

 

 姫川さんの思考が分からない。なんの話? 謎の多いステリアスな姫川さんの視線が私の顔から下腹部へ動いていく。

 なんだか鄙陋な目で――見られている気がする。勘違いも甚だしそうだったが姫川さんの視線を防ぐように手を開く。すると、姫川さんは残念そうに枕に顔を埋めた。

 姫川さんが独自の感覚を持っているということだけが分かった。

 さっきのだってただの冗談かもしれない。いや冗談だったことにしとこう。

 

「ましろちゃん」


 くぐもった声が枕の底から私の名前を呼ぶ。

 

「なに……?」


 さっきの今で唐突に呼ばれた名前に私は疑り深くなっていた。両手を防御姿勢に構えて、姫川さんの行動を待った。

 姫川さんは徐に起き上がると枕を手に取って私に投げつけてきた。


「あ、えっ?」

 

 もう少し詳細を書くと、枕は上半身から顔を目掛けてではなく、アンダースローで私の防御をすり抜け膝にキレイに収まる形で投げられた。そしてそのままアンダースローの手を上に上げると一緒に私の防御を破って流れるように、姫川さんの頭が私の膝の上の枕の上に臥する。

 座った状態から身体を90度ひん曲げて、そこまでして眠りたいのかという執念に驚いた。決していきなりいい顔が膝に来たからびっくりしたとかそういうんじゃない決して。


「ちょっ、ひめかわさん!?」


 横顔が私の膝の上にあった。気付けば姫川さんは寝息を立てて気持ち良さそうに寝ていた。

 のび太並の入眠スピードだ。まつ毛が長い。……じゃなくて、どうしたら良いのこれ。休み時間が終わったら流石に起こさないと、先生に見つかるだろうし。

 膝On枕On姫川さんというこの状態の事情が理解不能だ。姫川さんが一体何を考えているのか、授業の時とは立ち位置が逆で私のほうが何も分からない。

 



 ◆




 一度生活レベルが上がるとそう簡単に下げられないという話を聞いたことがある。

 タバコとか麻薬とか、スパッとやめられないとか、似た話かなと思っていたけれど。そうじゃなく。記憶の奥底、深く深淵に根付いた「それ」は、まるで昔からそこにあったかのように佇んで、過去を無にする。今までの暮らし、価値観を一変させる。劇薬のようなものだった。


 もとより、不眠症気味で床に着いても二、三時間眠れないことはザラにあった。そのくせ陽が出てない時間帯に起きる。精神も身体も最悪な状態迄追い込まれていた。常に眠気とストレスを感じていた。でも寝られない。そんなある日、席替えで一番後ろの席に変わった。こっそり眠れるかもしれないと、その時は嬉々としていたのを覚えている。

 


 


 隣の子が、ずっとやかましい。

 めちゃくちゃドジっ子で、いつも何かしらミスってる。昨日なんか黒板を消してる最中手を滑らして、黒板消しを窓の外へ放り投げていた。正直、その時は酸欠になるほど笑ったし、今思い出しても笑える。

 先々週ぐらいの席替えをされた直後には、いつもバシャーンだとかガチャーン、バターンとうるさくて、寝られないとイライラしていたけど。授業中でも休み時間でもお構いなしにミスって激しい音を立てて、流石に放課後になると私は怒りよりも憐れみ的な感情を覚えた。

 それからというもの、気になってその子のことばかり見ていた。

 するとどうだろう、危なっかしい手つきに気になり過ぎてしまうのか何故かとてもぐっすり眠れたのだ。


 あたふたしだしてから、私の瞼は重くなりだして、ドジった時の音を聞いて入眠するのが、日課になって、日を跨ぐごとに、入眠のタイミングが早くなりだして。気づいた時にはもう、ましろちゃんが隣にいると眠たくなるように調教されてしまった。


 今日は、一段と眠れそうだった。久しぶりに、ドジるところでも見たいなと思って、少し眠気を我慢してみた。隣のましろちゃんを横目で見る。

 難しい問題に萎む目とか、唸る声とか、悩ましそうな眉間とか、案外集中して授業を受けているましろちゃんを見てみると、なんか、変な気分だった。こう、例えるならお酒を飲んでだ時ぐらい、身体がぽかぽかと温まっている感じ。お酒飲んだことないけど。

 そんな温かさもあってか、気持ち良く眠りにつくことが出来た。夢なんか見ずに、ただ昨日の分ぐっすり眠っていた。

 すると


「姫川さん!」


 どこか遠くから私のことを呼ぶ声がしていた。その声は段々と近づいてきて、いつもの距離感まで近づく。


「……!」


 私がいたのは教室だったことを思い出し、なぜ起こされたのかを考える。昼休みか下校時間か、もしくは……先生が私の方をじっと見ていたので、とりあえず教科書を持って立ち上がった。だけど、何を聞かれたのかも、そもそも今どこの話をしていたのかもわかっちゃいない。黒板の内容から察して答えるしかない――。


「姫川さん、姫川さん」


 覚悟を決めた瞬間、隣の席から私を小声で呼ぶ声がした。瞳だけをそちらに向けると、ましろちゃんが教科書の一部分を指差してここここと念じている気がした。


 正味、不安しか無かったが、あんな純情な目に見られたら、信じて飛び込むしかない。


「後醍醐天皇です!」






 思っていた通りだったが、やっぱり間違いだった。

 後醍醐天皇と言って先生に違いますと言われた後のましろちゃんが目を白黒させるのが可笑しくって、昨日の黒板消しを軽々超えてきた。

 面白いし。隣にいると安心する。どんな眠剤より効果があるし。


「私ね、家だと全く寝られないんだ」


 ……なんでましろちゃんの隣にいると眠れるのか分かった気がする。

 ましろちゃんのテンパった時の顔が好きなんだ。不眠症なのは単なる理由づけに過ぎなくて、ただましろちゃんに気にかけてもらいたかったみたいな……今はまだ曖昧な感情でしかないけれど。


「逆に学校だとよく眠れたんだけど……その理由が今日分かった気がする」

 

 顔が熱を帯びてきた気がするので、枕に顔を沈めて一回クールダウンを挟む。


 ましろちゃん。


 きっと、この理由と、感情と、思考は、漫画とかでよく聞く、あれだ。あれあれ。


「ちょっ、ひめかわさん!?」


 小学生男子が好きな子にやっちゃう奴だ。自覚すると、恥ずかしさが活火山のように溢れ上がってくる。あー恥ずかし。






 ましろちゃんの困った顔が見たい一心で思い切って膝を占領したは良いもののこっからどうすればいいんだろう。というか、自分からやっておいてめちゃくちゃ心臓がバクバクいってる。この心音が聞こえてないと信じたい。……あ、なんかめっちゃ眠れそう。寝れ……


………













  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る