百合の花束

ヤギス

ハクサンチドリ


 私が小学生のとき、『速見さん』っていう女の子がいた。

 その子は背が高くて、運動が得意で、漫画の中に出てくるようなクラスで一番の人気者だった。

 そんな速見さんとは打って変わって、私はいつも教室の隅で絵を描いていた。だから、私は速見さんと会話すらすることなく小学校を卒業していく……と思っていたのだが。


 一度だけ。本当に一度だけ、速見さんの方から私の席にやってきたことがある。絵を描いていた私の机に、不機嫌そうな顔して両手を叩きつけて、暴言を吐いてきたのだ。


「絵バカ」

 

 今思い返すと、小学生らしい幼稚な罵倒だと笑えるが、当時は私も小学生だったし、好きなキャラクターの絵を描いていたので、それを馬鹿にされたような気分になってそれはそれは深く傷ついた。

 人前で泣くような強さも無かった私は、こっそりトイレに行ってひっそり泣いたことを鮮明に覚えている。


 そしてそのあとは当たり前のように私と速見さんは関わり合うことなく、中学生になった。


 私の住んでいるところは近場にこれだという中学校が無く、極端に頭のいい人が行くような中高一貫校しか無かったので、私は電車を乗り継いで通学に二時間ほどかかるような中学校へ行くことになった。


 協議の末、私は一人暮らしを許されず。毎朝電車を乗り継いで家から少し離れ、新設された中学へ通うことになった。


 そして、速見さんも同じ中学に居た。数少ない選択肢の中から選ぶので中学が被る可能性は大いにある。まあ、クラスが違うので小学生のとき以上に速見さんと私は縁もゆかりもない間柄だった。


 さらに速見さんは、髪も染めて、なんだか派手派手しい人たちと付き合うようになって、私も私で同類と呼べるような友人に出会えた。

 あとはただ、ただただ流れるままに、中学生活を満期するだけだろうと考えていた。リア充と言われるには足りないが、時の流れの遅さを呪うことも無く、充分に充実していた。


 だが、そんな時ほど色濃く鮮明に、あの時のことを思い出す。


「絵。バカ」


 速見さんの、あの顰めっ面は……今思い返すと笑える。かも。







 土曜日は、友人の真理子が突然泣きながら電話してきたので、とりあえず待ち合わせて会いに行った。人死が起きたかのごとく泣いて、会話もできないような状態だったので、友人を片っぱしから呼んだ。

 この辺り唯一のショッピングセンターをこれでもかと巡り、それなりに真理子の情緒も安定しだして、締めにカラオケへ行ってひとしきり歌った後、真理子の落ち込んでいる理由が推しキャラが死んだことだったことが判明し、速攻お開きとなった。真理子は別れ際「薄情者ー!」と叫んでいたが、常々同担拒否を語っていたのは自分なので、自業自得である。

 

 真理子も、その他の友達も、皆このあたりに住んでいるので、私だけが電車を乗り継いで帰る。一人で暗い道を帰らないといけないのかと少し憂鬱になっていると、駅前のもう長いこと手入れのされていない、錆びた噴水に座っている女の子の姿があった。

 

 その姿には見覚えがあった、しかし私の知り合いではない気がした。どう見てもジャンルが違ったのだ。

 派手な服装に。短いスカート。上手にお化粧をしていて、まるで大人のような妖艶さがある。そんな人、私の知り合いにいない。派手な服装の時点で全員がソートから外される。 


 顔を見れば、どうやっても誰だか判明するだろうと、遠目から頑張って表情を確認しようとした。

 暗さと、怪しまれない程度の距離が相まってピントの合わない時間が続いたが、漸くピントが合い、それが誰かが分かった。


 噴水で項垂れ、意気消沈して座っていたのは速見さんであった。


「速見さん?」


 喉まで出かかっていた人物が判明した高揚から、ついその名前を呼んでしまった。しまったと思ったのも遅く、速見さんは私のことをじっと睨むように見つめると低い声で唸った。


「……何、なんか用?」


 たまたま見つけて、つい声を掛けてしまっただなんて。友達でも、知り合いでもない間柄の相手にそんなコト言えない。一方的に意識しているみたいで気持ち悪がられてしまう。


「え、えーっと」


 私は何か上手い言い訳を考えようと頭をくるくる回転させる。どうしてこんな事になったのか、思い返すと、遠目からでもはっきり見える速見さんの顔が浮かぶ。

 

「……悲しそうな顔してたから、心配になって」


 そうだ。私は速見さんの表情を見てしまって、それが彼女からは想像もつかない表情だったので、つい声を掛けてしまったのだ。


 街頭が点滅する。

 突然速見さんの顔を照らしていた光が点滅して、消える。そのせいで速見さんの微細な表情の変化も読み取れず、今速見さんが何を思っているのかも全く分からない。

 街頭がついたときにはもう、速見さんは私から興味を失ったように、下を向いていた。

 そして、速見さんは黙りこくってしまった。何か話さないと、ちょうど目線の先にほのかに光る時計が設置されていて、時刻はもう午後八時を回っていた。


「もう遅い時間だし、早く家に帰ったほうが良いと思うけど」

 

 無言が続く。私みたいな人間に注意されるのは彼女のプライドを傷つけてしまうのではないかと穿ち過ぎて、そろそろ胃がキリキリと鳴き出しそうになっていると、速見さんがか細く呟いた。


「家になんか、帰りたくない…………」

 

 初めて速見さんの感情を見た気がした。

 だからって、私が気の利いたセリフを返せるわけもなく。


「な、なんで?」


 すぐに下手を打って、速見さんの睨み顔がまた私に向けられた。


「なんであんたにそんなこと言わないといけないの。さっさとどっかいって」


 心を閉ざされてしまった。どっかいってと言われても、今更速見さんを一人置いて帰るのも、私の寝付きが悪くなってしまう。だが家に帰りたくないという言葉からは、ここをテコでも動かないという強い意志を感じる。

 なんだか、詰将棋に負けた気分で、私は提案した。


「……うち来る?」


 電車の窓から見える都心の明かり眺めながら、私と速見さんは無言でいた。もうゲロ吐きそうなほど気まずい。

 というか、なんで自分の家には帰りたくないのに、知り合い未満の相手の家には泊まりに来れるんだ?


 その後も、私と速見さんは無言で駅に降り立ち、家路を歩いた。本当に無言だった。振り返ったらいなくなってるんじゃないかと思うほど静かで、私は三回ぐらい振り返ってしまった。

 

「あ、あそこが私の家」


 私は一軒の家を指さして、ゴールを示す。どちらかというと速見さんへ伝えるためではなく、私の精神を安定させるために言った。もう少しでこの重力室のような重い空間から脱出できると思えば、今までの道のりもへのかっぱだった。


 家のドアに手を掛け、そういえばお母さんに速見さんを連れて帰ること伝えるの忘れてたことに気づく。急いでポケットに手を突っ込むが今から電話しても間に合わないだろう。もはや電話かけるよりも家に入るほうが手早く伝えられるだろう。

 意を決して私は家の扉を開ける。

 

「あ、どうぞあがって」


 おじゃましますと小さな声で口にした速見さんは、意外というか、なんというか、脱いだローファーを綺麗に揃えていた。それでも、ファンシーなキャラものの靴下が目について少し安心する。

 くだらない部分を見て安心してる場合じゃない。私はキッチンに居るお母さんのところへ向かう。


「お、お母さ〜ん? あのぉ、友達がさぁ、今日、泊まってってもいい?」


 歯切れ悪くても神経質に、だが緊張のせいで頭の処理は遅い。

 お母さんの機嫌をとるでもなく、ただ歯切れ悪い私の話を聞き終えたお母さんはなぜかびっくりした表情をしていた。


「お友達?」


 お母さんは、なぜか目を爛々とさせて期待しているようだった。私は頷いて同じクラスの……と適当な紹介をしようと思ったところで、時が消し飛ばされたかのようにお母さんは速見さんに抱きついていた。悪い癖だけれど、悪いところでは決してないと思う。いややっぱり、相手は選んでほしいなぁ!?


「あら可愛い子ね〜。お名前はなんていうの? それにしても明ちゃんがお友達連れてくるなんて、初めてじゃなぁい?」


 私が友達を連れてくることがそんなに珍しいのか……まあ友達を家に呼んだことはあまり……ほぼないけど。

 速見さんは苦しそうにしながら「速見翠です」と自分の名前を言っていた。 

 速見さんは目をパチクリさせながら視線を私の方とお母さんの方を行ったり来たりさせていた。わかるよ。性格だけ似てないってよく言われるんだ。トンビからひよこが生まれたような、そんな滑稽な話だが、私は『蛙の子は蛙』というあの諺は迷信というか人間には当てはまらない表現だと常々思う。蛙の子に産まれたら蛙以外になりたいと思うのが、人間だもの。


 予想していたようなものではないけれど意外とすんなり一泊はできそうで安心した。 

 私の部屋も、汚い訳では無いし、これで平和に……

 ……あ。


 今朝は、いきなりの電話でそのまま出てきたので、私の部屋には描きかけの『絵』が置いてあったことを思い出した。もしそれが速見さんに見つかって、小学生のころと同じ――あの時とは歳が違うからもっとレベルアップした罵倒をされるかもしれない。急いで隠さなければと気づいた。


「ちょっと私部屋片付けてくるから」


 詮索されると困るので、さっさと階段を上がっていく。

 急いで部屋に入り、あれこれ片付けていく。男同士でわちゃわちゃしている絵だとか諸々をクローゼットへ詰め込んでいく。

 量がありすぎて自分でも引きそうになる。自分自身でギリギリなのに他人に見られた時の反応なんて考えるだけで頭が痛くなる。


 扉がノックされる。両親はお構いなしに開けてくるので、きっと速見さんだ。


「千葉さん。あの、ご飯だから呼んできてって言われたから……」


 扉の向こう側からよそよそしい声が飛び込んでくる。


「わ、分かった。すぐに行くね」


 ……足音が、ゆっくり遠ざかっていく。とりあえずと大事な物を全部クローゼットに押し込んで、一階へ降りた。

 一階に降りると、長方形の机の上に料理が並べられていて、いつも私が座る席の斜め向かいにお母さんが、そして隣には速見さんが座っていた。私も椅子に座って、手を合わせた。


「「「いただきまーす」」」


 その晩のご飯は少し豪華な気がした。豪華と言っても、品目自体をものの二、三分で変えられるわけではないのでとりわけ装飾の凝ったお皿に移し変えたりだとか、なんかよくわからない絨毯を机の上に敷いたりだとか、いつもの変わらず美味しいご飯が少し装いをしただけでここまで雰囲気が変わるなんて不思議だった。

 食事中しきりに、お母さんは私たちの話を聞きたがっていたが、これといった話などあるはずもなく嘘をつくのも忍びないので、行儀が悪いと注意したら、静かになった。

 

「布団、持ってってあげなさい」


 速見さんがお風呂に入っている間、リビングのソファーに座ってテレビを見続けていた私の前にお母さんが立ちはだかる。手には敷布団を抱えていた。


「あーはいはい」


 私は布団を担いで、二階へ上がる。一人で運ぶ重さじゃ無かった……足元がふらつく。なんとか部屋まで布団を押し込み、私の勝ち。

 ベッドの隣へ大雑把に布団を敷いた。だけど、そこに速見さんが寝ている想像して、シワ一つ残さないように丁寧に敷き直した。速見さんと顔を合わせると、どうしても小学生の頃を思い出してしまう。トラウマ、なんて重たいものじゃないけれど、その一連から敬遠していた部分はやっぱりあるし、いきなり友達のように振る舞うことは多分無理だった。


「だからって、邪険に扱うような間柄でもないし……」


 曖昧な関係な上、突然の訪問で、私はどんな距離感で接すれば良いのかわからなかった。ヤケクソで仲良くなってみるとかお母さんの前だけ仲良いふりをするとか若しくは――そもそも仲良くなどなれない。のか。も。

 一階から私を呼ぶ声がする。お母さんだ。


「明ちゃん、お風呂空いたからはいっちゃいなー」

「わかったー」


 返答する。

 速見さん関連で煮詰まった頭をお風呂にでも入って冷却させよう。

 階段を降りて、お風呂上がりの速見さんと出くわす。何か、一言交わすべきかとも思ったが、私には気の利いた一言など思いつかないし、速見さんからすれば迷惑極まりない話だろうと思い、やめた。

 素通りしてから、お風呂に向かう。

 リビング横を通った速見さんに、お母さんが話しかけていた。


「そういえば、お家の人にご挨拶してなかったわね。翠ちゃん電話番号教えてくれる?」


 マズイ! 速見さんが家に帰りたくないと言っている理由はわからないが、半ば家出のように町中を彷徨っていたのだ。人に言いたくないような理由でもあるのだろうと、私は急いで割って入る。


「も、もう話はつけてあるから、今どき親の間で挨拶なんて、恥ずかしいよ。今の時代泊まりの報告なんて、ラインでティロンで終わりだよ!」


 ああもう自分でも何言ってるかわかんなくなってきた。だけど必死なことは何らかの形で伝わるものだお母さんはなんとなく納得してくれたようだ。


「あらそう?」


 そうそう、そうだよと適当に抜かしながら、私はお風呂へ駆けていった。



「……はぁ。しんどーい」


 浴槽に浸かって、湯船で顔を洗った。一体全体なんでこんなことになったんだろう。そもそも、真理子が呼び出さなければ駅前で速見さんと出会うことも無かったのに。

 駅前での、速見さんを思い出す。家になんて帰りたくないと言っていた言葉の節々から感じる孤独感。まるで小学生の時の私みたいで放っておけなかった。


 もう、考えるのはよそう。結局今日一日だけの話だ。お風呂上がって、眠って、明日にはさよならで、仲良くなることもないだろう。


 お風呂を上がると、速見さんがリビングでお母さんに絡まれていた。可哀想に。


「それでねぇ、あの子ったらいつも部屋にこもりっきりで……いつも変な絵ばっかり描いて、漫画家にでもなりたいのかっていうぐらい」


 なんか、私の悪口言ってないか?


「お母さん、そこまでにしときなよ」


 速見さんに私の痴態を知られるわけにはいかない。絵の話なんてすなよ!


「えーっ、もっと翠ちゃんとお話したいわ~。明ちゃんのアルバムも持ってきたのよぉ?」


 凶悪兵器を所持している! 危ない危ない、そんなモノを見せられたら私の羞恥心が爆発してしまう。くっ、こうなったらやられる前にやらなければ――


「ふふっ、お母さん、若い子と話したって若くなるわけじゃないんだよ」


 お母さんの機能を停止させる魔法の言葉その一である。


「よし、さっさと行こう速見さん」

「え、えぇ――」


 速見さんを連れて、二階へ上がる。

 そして、私たちの間には静寂が訪れた、部屋に来たってなんの話題があるわけでもないし、私にはお母さんほどのコミュ力もないわけで――


「も、もう寝ようか!!」


 いたたまれなくなって、大声を出して速見さんを怯えさせてしまった。これ以上人の顔色を見るのはしんどいので電気を消す。

 速見さんが布団に入る音が聞こえて、私もベッドに横になる。


 息が詰まる。寝息を聞かれるのが、なんだか恥ずかしい。どういう感情だ。


「…………」


 静かな部屋に、速見さんの息遣いだけが規則的に聞こえてくる。


「…………」


 私だけだろうか、この部屋の空気が重たいと感じるのは。

 生唾を飲み込む――音から、速見さんのかすれた、しゃがれ声。

 

「ねぇ、」

 

 今にも泣き出しそうな感情がひしひしと伝わってくる。なんだ、なにかがおかしい。


「小学生の時、のこと覚えてる?」


 小学生……小学生、その単語が速見さんの口から出るとき、私はたった一つの思い出を見る。


『絵。馬鹿』


 悲しくもあり、少し怒りも沸いたあの日。私の運命が変わった日、その日から私は絵を真剣に描こうと思った。見返してやろうと考えたのだ。正味、道を踏み外している感は否めないけれど……


「千葉さん……まだ、絵。描いてたんだね」


 私の心音が、速見さんの声の邪魔をする。


「……か、描いてるよ」


 私は目をぎゅっと瞑って心の準備を完了させた。


「――見ても良い?」


 きっと、引かれて、キモがられて、罵られると予想していた私だったから、速見さんの素直なお願いに呆気にとられた。


「え、だめだよ?」


 だから、掛け値なしの本音が飛び出てしまった。

 でも、ダメなものはダメというか――一般人に見せる用の絵を描いたことがない。なんていうか、その下品なんですが……裸の男同士が絡み合ってるような――そういうモノしかありませんので。


「ちょっとだけだから、お願い……」


 なんだ、私の部屋になんらかの鎮静剤が散かれているのか、速見さんは見た目からは想像できないほどにしおらしかった。


 そんな子犬のようにねだられたって、私にはどうすることもできない。だって、最近の絵の中に出てくる人に服を着ている人が存在しないから。びっくりされてドン引きされて終わりだ。


 この窮地を脱する方法は何かないだろうか……そうだ!


「い、今、似顔絵でも描こうか?」


 似顔絵なんてじっとしてなきゃいけないものに興味を示すはずがない。私は勝ちを確信した。

 しかし、私の狙いとは裏腹に速見さんの声が一オクターブ上がった。


「本当?」


 そう言って起き上がった速見さんの目はキラキラと輝いている、気がする。腹を括ろう。


「え、あ、じゃあ、電気つけるよ……?」


 速見さんの体を踏まないように細心の注意を払いなが電気のスイッチに触れる。

 パチ、と電気をつけるともうすでに座って準備を整えている速見さんの姿がバンと現れて、驚いた。

 一呼吸置いてから、絵を描くための道具を探す。机の上に乱雑に置かれていた。モノは隠したはずなのに、なぜ速見さんがまだ私が絵を描いていることを知っていたのか謎に包まれていたが、これで合点がいった。


「紙……画板、鉛筆」

 

 昨日暇すぎてぴんぴんに削った鉛筆を手に持つ。速見さんは据わりが悪そうにソワソワと髪先を弄っていた。


「じゃあ、こっち向いて――」

 

 正面向き合って――ばちこり速見さんと目があってしまう。恥ずかしくなって紙に目を落とすフリをして目線を逸した。

 小学生の頃とは違う、成長した速見さん。いや、一応ずっと同じクラスにいるのに、そんな変わっている所なんて――中学生らしからぬ、豊満な胸が視界の中心に陣どる。なぜ、なぜ私は同級生をこんな目で見ているのだ! 自分の部屋に風呂上がりのまだ髪に湿り気の残っているクラスメイトがいるからか? 私の平らな胸元に合わせて作られた服のせいで速見さんの胸が強調されているからか? それとも、教室での陽キャ速見さんとは打って変わってのしおらしさが、私の劣情を刺激するからか……!? もしくはその全てが一縷に交わり合って、私に抱いたことのない感情を抱かせるのか……いかん。このまま考えていると答えが出てしまいそうだ。


「あのさ」


 私が心騒がしくペンを走らせていると、速見さんが口を開いた。


「あの時は、ごめん」


 ……どの時だ。それ以降速見さんは私がペンを机に置くまで、口を開くことはなかった。

 


 数十分ほど会話のない空間が延びて、幾度か心が折れそうになった。しかし、私はあの時の雪辱を果たすために、その手を最後まで止めなかった。出来上がったのは、速見さんの似顔絵。うーん、私が言うのは失礼かもしれないが、美化しすぎた気がする。だって、なんか私の部屋がいつもとは違ういい匂いがしたんだもん! 筆が乗るのはしょうがないよね!


「はい、出来たよ」


 私は冷静を装って、スケッチブックを裏返す。ちょっと、想像以上に恥ずかしいな。

 速見さんは私の絵を上から下まで舐め回すように見て、薄く微笑む。私の記憶のどこにもいない速見さんの表情に、少しドキッとした。


「やっぱり、絵ばかり描いてるからかな」


 速見さんのセリフに強い既視感を覚える。もしかして、小学生の時言われた「絵馬鹿」って。「絵ばっかり」の誤り……? まさか、いや、でも、そうだとしたら、あの時速見さんは私になんて言おうとしていたのだろう……


「上手だね。私、千葉さんの絵、好きだな」


 ……あっ。


「? どうしたの、千葉さん」


 私はとにかく顔を逸らした。今の私の表情を速見さんに見られるのは非常にまずかった。


「い、いや何もないです」


 す、凄い恥ずかしい。なんていうか、今まで悪口を言われたと勘違いしていた上に、それを根に持ってずっと見返してやるとか考えながら絵を描いてたとか、諸々を考えるとめちゃくちゃ恥ずかしい……っていうか、普通に、絵を褒められた。それだけなのに。


 なんで私はこんなに興奮してるんだ? ネットに絵もあげてるし、コメントとか貰わないわけじゃないのに。


 高揚感というべきか、否、素直にいうなら、とても嬉しい。速見さんに褒められるだけで、なぜこんなに嬉しいのか。これがわからない。口角が下がらない。


「あ、ありがとう」


 私は顔、主に口元を隠しながら、速見さんにお礼を言った。


「ねえ、これ。貰って良い?」


 速見さんがまるで宝物のように大事に抱えているからどうぞと言ってしまいそうになった。というか、今の速見さんのお願いごとは何でも聞いてしまいそうだ。


「ごめん、ざっと描いただけだしさ。清書してからでもいい?」


「そんな、別にいいのに」


「私が納得できないだけだから、ごめんね」


 私はスケッチブックを受け取ると、机に向かった。


「今から描くの? 別にいつでも大丈夫だよ?」


 速見さんの心配そうな声が背中から飛んでくる。別に、納期的なことを心配していたわけではなく。ただ興奮が冷めやらぬので、眠れないと思っただけだ。


「あー、ちょっと眠れないだけだから。速見さんは寝て良いよ。あ、もしかして電気ついてると寝れないタイプ?」

「見てて良い?」

「駄目です」


 なんで速見さんは私のドローイングを見たがるんだ。人に注視されていると私はパフォーマンスが大幅に落ちるんだ。正直辞めてほしい。

 しかし、速見さんは私の言葉が聞こえないフリして、机にかじりついていた。


「あのー、速見さん? 私、見られてると緊張しちゃうんでー」

「どうしても駄目?」

「いやっ……いやー、ちょっとだけだよ?」

「ありがとっ」

「……速見さん、眠くなったら自由に寝ていいからね」

「大丈夫、私夜型だから」

「夜型とか朝型とか、そういうのは無いらしいよ?」


……………

…………

………

……







「千葉さん、おはよ」


 揺り起こされる。速見さんは早起きだ。


「あっ……へ?」


 なんだか、変な夢を見ていた気がする。しかしこの話を速見さんにすると、ややこしくなりそうなので、自分の胸にしまっておくことにした。


「朝ご飯、出来てるよ」


 ダイニング、二人で使うにしては広いローテーブルに、ごきげんな朝食が並ぶ。


「「いただきまーす」」


 味噌汁を一献。温かい味噌汁には日本人としての幸せの半分が詰まっていると思う。

 一息ついて、特段景色がいいわけでもない窓の方を見る。立ち並ぶビルと、薄暗い空がこの東京の景色を染め上げていた。


「同居始めて……もう一年だねえ」

「あっという間だったねー」


 時が立つのは早いものだ。

 大学進学を期に上京した私達は、物件探しに苦心し、牢屋のような部屋で月十数万を盗られるのは人生において最も無駄な出費ではないかと論じたところ、速見さんの「じゃあ、ルームシェアでもする?」といった一声でルームシェアをすることになった。


 速見さんとこんな関係になるとは……小学生の私に言っても絶対に信じないだろう。今の私ですら少し現実味が無いのだから。

 でも、個人的にはとても楽しい環境だと思う、速見さんが料理できるなんて同居するまで知らなかったし、一日中絵を描いても怒られない環境というのは素晴らしいものだ。


 私は部屋を見回して、ふと壁に掛けられている速見さんの似顔絵と目が合ってしまう。まだ素人だった頃の私の絵。何度言っても飾るのを辞めてくれないので、私は自衛するしかない。 

 私は似顔絵からとっさに目を逸らして、逃げ場を求めた結果、隣に生けられていたハクサンチドリをじっーと見つめた。

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