第9話 紙一重だった日常
どう話そうか……こればっかりは、あなたに伝えない訳にはいかなかった。
また家のことを頼むことにもなるかもしれないし、それに私自身も不安で……
こんな時に一番話をしたいのは、あなたなのだから。
「ねえ、ちょっと相談があるんだ」
優美ちゃんをお風呂に入れてもらって、夕食を終えた後で、切り出した。
「うん、何だい?」
「実は、今日病院に行ってきてね……」
病院であったことをそのまま伝えると、あなたの顔から笑顔が消えて、真剣な眼差しへと変わった。
「分かった。病理検査は早くやろう。結果を聴く時には、念のために俺も一緒に行くよ」
「うん……ごめんね……」
ごめんね、心配はかけたくなかったんだけど。
私一人だって大丈夫だけれど、でも傍にいてくれると心強い。
そんな、すがるような思いだった。
その言葉の通りに、検査結果を聴くために、あなたと一緒に病院へ行った。
生検といって、体の中に小さな器具を入れて、病変部分の組織を取り出す。
その検査の結果が知らされる日なんだ。
白い白衣の先生は前の時と同じように、表情をあまり変えないで、たんたんと説明をしてくれた。
「検査の結果ですが、悪性を認められます。ですので、できるだけ早く治療を開始する方がよいでしょう。大丈夫です、完治を目指しましょう」
悪性の腫瘍……いわゆる『癌』の告知を受けたんだ。
体の力が抜けて崩れ落ちそうになりながらも、何とか耐えられたのは、あなたが隣にいてくれたから。
外科手術、放射線、化学療法……先生の説明が頭の中に残らなくて、ぽろぽろと抜け落ちる。
完治……と言っても、恐い病気であることは、間違いないんだ。
不安で気持ちが落ち着かなくて、意識がここには無い。
「分かりました。家族で相談して決めます」
あなたの言葉にはっとなって、我に返った。
その日の夜、あなたは夜遅くまで、ずっとパソコンに真剣な顔を向けていた。
今までで見たことも無いほどに、ちょっと怖い顔で。
そして次の日の朝、優美ちゃんがまだすやすやと寝てる時間に、あなたは私に告げた。
「なあ朝美、体のことだ。君はどうしたい?」
そんなの……分からないよ。
ただ私は、ずっと優美ちゃんや、あなたの傍にいたい。
それだけなんだ……
「秀太、あなたは私に、どうして欲しい?」
よく分からないけれど、話は聞いたことがあった。
癌の治療法はいくつかあるけれど、いい所と悪い所がある。
外科手術は一番効果的だけれど、体の大事な所を失ってしまって、体力が落ちてしまう。
しかも癌細胞が他に転移してしまっていたら、病気はまた再発する。
化学療法は薬で全身を治療するものだけれど、手術に比べたら時間がかかって、しかも副作用で体を悪くすることがある。
放射線は身体を切らないで狙った所を治療できるけど、手術ほどの即効性は望めない。
私は、この三浦家の家族。
だから、家族の想いだって、大事だと思った。
するとあなたは、いつものように、ぶきっちょに笑ってくれたっけ。
「俺もよく分からないよ。昨日調べてると、病院選びやセカンドオピニオンなんてのも大事ってあった。だから君が望むなら、他の病院に行ってもいい。けどそうしていると、治療を始めるまでに時間がかかってしまうんだ」
そうだよね、あなたにだって、正解が分かる訳がない。
とっても不安に違いない。
でもきっと無理をして、その笑顔を作ってくれたんだ。
「でも、先生が言っていたことは、一理あると思うよ。今できることは全部。手術も薬も、放射線も全部やって、徹底的に叩きましょうってのはね」
「そうだね。でもそうなると、優美ちゃんや仕事は、大丈夫なのかな……」
「優美のことは心配するなよ、俺が何とかするから。君は会社と相談して、できるだけ治療に専念したらいいと思う」
あなたと話している内に、心の中のモヤが晴れて行く気がした。
そうだね、頑張らないとね。
優美ちゃんはまだまだ小さいし、お母さんが必要。
それにあなただって、もし私がいなくなったら、寂しいでしょ?
私だって、これから先もずっとずっと、二人と一緒にいたい。
こんなとこで凹んでなんか、いられないんだ。
それから会社に相談して、治療のための時間が取りやすいような働き方に変えてもらった。
そして、主治医の先生が言う治療を、受けることになった。
麻酔のお蔭で朦朧とする意識の中で手術室に運ばれて、気が付いたら、白衣の女の人が傍で動き回っていた。
「あ、気が付かれましたね。手術は無事に終わりましたよ」
ぼんやりとする意識の中でそんな言葉を聞いて、それから視界の中に、あなたと優美ちゃんの顔が浮かんだ。
……なんか疲れた顔をしているね、あなた。
優美ちゃんは元気がいいから、あやすのが大変だったでしょ?
今はあなたの腕の中で、スースーと寝てくれているからいいけれど。
「大丈夫か朝美? よく頑張ったね」
まだ体に力が入らないし、呼吸器を付けているから、声も出せない。
だから、微かに首だけを動かして、瞬きをしたんだ。
「私は大丈夫。ずっと傍についていてくれてありがとう」
それだけを無言で伝えるために。
後になって知ったのだけど、私の手術は、先生が思っていたよりも、ずっと大変だったらしい。
私が手術室から出てきたのは、予想していた時間の倍ほどが過ぎた後だったという。
思っていたよりも、病巣が大きかったのだとか。
退院の日、あなたが「何が食べたい?」って訊いてくれたので、
「あなたの手料理だったら何でもいい」
って応えたっけ。
疲れている時にごめんね。
でも、それが本音だったんだ。
その日、あなたが作ってくれたハンバーグとお味噌汁の味、今でも覚えてるよ。
本当に、美味しかった。
やっぱり、この家はいいな。
それからはずっと、病院通いだった。
週一回点滴を受けて、おっきな機械の前で放射線を当てられて。
その副作用のせいか、体がスマートなったのはよかったけれど、髪の毛が全部無くなってしまったのは、流石に堪えたなあ。
覚悟はしていたつもりだったけれど、女性にとって髪の毛って、やっぱり大事なんだよ。
髪の毛がまた生えそろうまでには、治療が終わってから1年ほどがかかった。
それまでは、外出の時はニットの帽子が必需品。
家の中にいる時には、優実ちゃんによく、頭を撫でられたっけな。
「お母さん、つるつる~♪」
優美ちゃん、あなたが笑ってくれて和むけど、でもお母さん、結構凹んでるんだよ~。
治療が終わると生活もだんだんと普通に戻っていった。
普通に職場復帰を果たして、ちょっと落ちてしまった体力に合わせて、無難に仕事をこなした。
家事の方は相変わらず、あなたの方が多め。
できるだけ早く帰って来てくれて、優美のお迎えをしてくれたり、夕ご飯を作ってくれたり。
私はもう大丈夫だから、もっと頼ってくれたっていいのに。
「いいから、お前は休んでろよ。さあ優美ちゃん、お風呂に入りまちょうかあ~!?」
「うん。今日はパパとしりとりをやるのお~♪」
優美の前では、何回見せたことだろう、その桜満開の笑顔。
ちょっとだけ、羨ましかったな。
それからは何もない一日一日が、楽しさに溢れていたな。
近くの公園を、よく三人で散歩した。
お互いの実家に三人で帰ると、いつも親たちは顔をくしゃくしゃにして、優美ちゃんにデレデレだった。
やがて優美ちゃんが小学校に入って、桜吹雪が舞い踊る校庭を、手をつないで歩いた。
ずっと行きたかったスキー旅行も、家族三人で行けた。
久々だったから、転んでばっかりだったな。
お休みが取れたら温泉に入ったり、テーマパークで一日中豪遊したりした。
でもね、いつものお部屋で三人で過ごす時間だって、私にとっては、神様から授かった宝物のように感じていたんだよ。
病気を経験してからは、殊更にそう思うようになった。
そんな間もたまに病院には通って、検査を受け続けた。
癌は再発する可能性がある怖い病気だ。
一般的には、5年間以上異常が無い状態が続くと、『完治』といって、治ったってみなされるのだという。
もうじきその5年が過ぎる。
もう大丈夫だろうな……すっかり、そんな緩んだ気持ちでいた。
そんな私に、ある日先生の一言は、胸に刃物を突き刺されたような衝撃をくれた。
「腫瘍マーカーの値が上がっていますね。今度、精密検査をしましょう」
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