第10話 残酷で優しい現実
あなたに何て話したらいいんだろう、それに優美ちゃんにだって……
優美ちゃんだってもう、小学校の高学年だ。
変な誤魔化しは通用しないだろう。
病院のトイレの中で泣いてしまったし、帰りの道すがらは、ずっと気持ちが沈んでいた。
心配はかけたくない。
でも、言わない訳にもいかない。
あまり喉を通らなかった夕食の後に、あなたと優美ちゃんに、話を切り出した。
「私ね、また精密検査を受けることになったの。今日の検査結果が、ちょっと良くなくて」
まるでお通夜のように、部屋の中がしんとしたっけな。
ごめんなさい、私のせいだ。
「分かった。結果は一緒に聴きに行くから」
すっかりおじさんになったね、あなた。
無理もないよね、結婚してから、もう15年は過ぎちゃってる。
私だって、すっかりおばさんね。
でも変わっていないよ、私が大好きな、その不器用だけど柔らかい笑顔は。
私を心配させないように送ってくれる、昔からそうだった。
ありがとう、また、あなたに頼らせてもらうわね。
「二人とも、優美のことは心配しないで。家でお留守番をしているから」
ありがとう、優美ちゃん。
あなたも大きくなったね。
あなたにまで、心配をかけてごめんね。
本当に、悪いお母さん。
検査の結果を聴きに行く日は、今までに無いほど、緊張したなあ。
あなたが横にいて手を握ってくれていなかったら、足が竦んで動けなかったかも。
病院の待合で過ごす時間を、とっても長く感じた。
不安が何度も押し寄せて、そのたびになんとかそれを押し返した。
大丈夫、きっと。
神様、どうかお願い……
きっとあなただって、同じような気持ちだったでしょう?
でも、そんな二人に向けられた先生の言葉は、あまりにも非情だった。
「こことここに、影が見えます。再発、遠隔転移とみて、間違いないでしょう」
癌の再発、遠隔転移、ステージ4。
それが診断の結果だった。
それからの先生の言葉を、私はしっかりと聴いた。
「もう手術はできないので、これからは化学療法が中心になります。でも、これだけは聴いておいて下さい。癌細胞は薬に対して耐性を持ってくるので、使っている内に利かなくなることが多いです。そして、使える薬の数は、限られているんです」
先生は、はっきりとは言わなかった。
けど、もし薬が効かなくなっていって、そしたらその時は……
しっかしりないと。
きっとあなたは、相当に凹んでいるはず。
大丈夫、私はまだ、諦めていないから。
あなたと優美ちゃんと私、三人の生活を守るんだ。
病気になんて、負けていられない。
無理やりにでも、私がもっと、強くならないと。
そこからまた、私の通院生活が始まったんだ。
そして職場には、休職願いを出した。
前の時よりももっと強い薬を使っていたので、体が思うように動かなかった。
それに、また髪の毛が抜けてしまって……
ごめんなさい、ちょっと耐えられそうになくて、夜中に何回も泣いちゃった。
あなたはずっと夜遅くまで、インターネットで調べてくれていたっけな。
こんな病院がある、こんな治療法がある、そんなことを沢山。
中には怪しげな、民間療法まで。
先進的な医療や治験なんかもあったけれど、高額でとても払えなかったり、ここから遠く離れた異国の病院だったり。
目の下が窪んでやせ細って、可愛そうになるほどだった。
ありがとう、その気持ちだけで十分だから、あまり無理はしないで。
何時まで続けられるのかは分からないけれど、私はこの家、この小さな部屋で、あなたと優美ちゃんと三人で、普通に過ごしたいの。
経過は、先生が話した通りだった。
少し良くなったと思ったら、また病気が盛り返してきて。
そして薬を変えて、その繰り返し。
けどそんな間は、何とか普通に暮らすことができた。
優美ちゃんの運動会に応援に行って、一生懸命に走っている姿を撮影した。
テーマパークに行って、クリスマスツリーの前で、三人で写真を撮った。
有名な神社に初詣に行って、神様に祈った。
どうか、病気に負けませんようにって。
桜の季節には公園に行って、あなたと一緒に作ったお弁当を広げたっけな。
夏には信州の上高地を訪れた。
今度は優美ちゃんも一緒に、三人で。
その自然の雄大さは、あなたと二人で訪れた時と、なにも変わっていない。
川を跨ぐ橋の上から、三人で夜空を見上げた。
あの時と同じだ、静寂が漂う暗やみの中で、無数の星々が紡ぐ天の川銀河が真上にあった。
「ねえ、二人って、どっちから告白したの?」
優美ちゃんが悪戯っぽいく言葉を向けてくる。
「それは……あなたからよ、ねえ?」
「……どうだったかな。よく覚えていないな」
ずるいんだ、そういうとこ。
そんなの、覚えていない訳ないでしょう?
もし本当にそうなら、思いっきりお尻をつねってやるんだから。
秋の紅葉、食のテーマパーク、見たかった映画、四つ星ラーメン、ゆるキャラのイベント……
沢山思い出が作れたね。
でも私にとっては、あなたと優美ちゃんと三人で過ごす毎日だって、負けないくらい大事な思い出だよ。
おっきな口を開けて、私が作ったご飯を頬張ってくれた優美ちゃん。
一緒にお風呂にも入って、背中を流し合ったっけ。
私がウトウトとしていると、そっと肩を揉んでくれたあなた。
「ごめん、起こしちゃったか?」
「ううん、気持ちいいよ。ありがとう」
ずっとこんな時間が続いていくといいな……いつしか、そう想っていた。
まるで、病気なんか、何処かへと行ってしまったみたいに。
でも現実は、ささやかに思えるそんな願いさえ、許そうとはしてくれなかった。
「腫瘍マーカーの上がり方が大きいですね。他にも広がっている可能性があります」
「……先生、次は、どんなことができるのでしょうか?」
「……残念ながら、もう使える薬がありません。でも取り合えず、全身を検査してみましょう」
とうとうこの時が来てしまったか。
思ったよりは冷静でいられた。
多分、予想はしていたから。
でも、だからと言って、心の中が救われるわけじゃない。
耐えられなくて、あなたの胸の中で泣いてしまった。
「大丈夫、俺はまだあきらめないから」
それからいろんなサプリや、体にいい野菜とかを、あなたは買ってきてくれたっけな。
優美ちゃんには、あまり沢山のことは話さなかった。
大事な学校生活を、できるだけのびのびと、過ごしてもらいたかったから。
お母さんにも話をすると、遠くから飛んで来てくれた。
久しぶりに、ゆっくり話ができてよかったよ、お母さん。
でもね、やっぱし、最後に頼れるのはあなたなの。
だから、これからどうなるのかは分からないけれど、ずっと傍にいて欲しい。
ごめんね、こんなふうになっちゃって。
あなたと一緒に訪れた病院で、先生は優しく諭すように、私たちに言葉を向けた。
「肝臓と背骨に、転移が広がっています。これからは緩和治療になりますが、この病院に入院するか、それかご自宅で療養されることもできます」
「……先生、もう他に、やれることはないんですか……?」
あなたの問いかけに、先生は静かに首を振った。
「はい。治験についても調べましたが、対象となるものはありません。あとは保険が利かない自由診療ですが、そこは自己責任で、効果は実証されていません。最新の薬だと、恐らく一回の治療で、一千万円は下らないでしょう」
病院からの帰り道、あなたは言ってくれたね。
「自由診療、やってみようか? 会社から金を借りるし、親にも頼んでみよう」
私だって、もっと生きたかった。
できることは、何でもしたかった。
その言葉は、本当に嬉しかった、涙が溢れ出るほどに。
でもね、そのために、あなたや優美ちゃんを、不幸にはしたくなかったんだ。
だから、
「ありがとう。でもね、私はお家で、静かに過ごしたいんだ、三人で。神様がくれる、奇跡を信じてね」
そう言葉を返すと、あなたの頬に、光るものが流れていたっけ。
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