第8話 幸せの隙間

 夕飯を食べ終えて、私はあなたに写真を手渡した。


「これが、俺たちの子供……?」


「うん。真ん中に写っているちっこいのが、赤ちゃんだって」


 その日は検査のために、産婦人科へ行ってきた。

 そこでエコー検査で撮影した写真をもらったんだ。

 まだまだ小さい、豆つぶのような影が写っていた。


「へえ。これが、あんなに大きくなるんだな」


 不思議そうに、写真に見入るあなた。

 そうなのよね、私もまだ実感は湧かないけれど。

 でも間違いなく次の春には、ここにもう一人、家族が増えているはずなんだ。

 とっても嬉しくて、言葉にならない。

 けど、


「でも、これからはあんまりお出掛けはできなくなるわね。しばらくはスキーにだって行けないかも」


「そうだな。今年は無理だろうし、子供が小さい内もね」


 二人だけの時間がずっと続いていたから、その間にいろんなことをしたね。

 その中の一つがスキー旅行。

 私は何度か行ったことがあったけれど、あなたは全くの未経験だった。

 半ば強引に誘い出したのだけれど、二人とも白銀の世界にすっかり魅了されてしまって、冬になると何度も雪山で過ごすようになっていた。

 そんなことはもう、できなくなるんだ。


「いいさ。また大丈夫になったら行けばいい。今はこの子のことだけを考えよう。きっと他の楽しいことが、増えるはずさ」


 ありがとう、あなたなら、そう言ってくれるって思ってたよ。

 もう三人での生活が始まっているんだと思うと、胸が熱くなった。


 けれど、そんなに順調なことだけじゃなかったな。


 私が出血しちゃって、お医者さんから「絶対安静にしておかないと、赤ちゃんに

 会えなくなりますよ」と脅された。

 急遽会社を休んで、ほとんど寝たきりの毎日。

 その間はあなたも早く帰ってきて、私のためにご飯を作ってくれた。

 自分では動けないから、昼はスナックや簡単なものですませてた。

 だから、あなたが作ってくれた温かいご飯がどれだけ美味しかったか。

 世界一の料理人だよ、私にとってはね。

 

 お腹が大きくなって動きにくくなると、家事は全部あなたがやってくれたね。

 嬉しかったけれど、迷惑をかけているようにも思えてしまって、落ち込むこともあった。

 でも私のお腹をさすりながら、


「ばぶちゃん、早く出ておいでねえ~」


 とデレるあなたの顔は、どんどんと柔らかくなっていったように感じた。

 仕事だって忙しいはずなのに、ありがとうね。

 きっといいお父さんになるよね、この人は。


 そして、その日は突然にやってきた。

 隣で寝ているあなたを起こして、「破水したみたい」と告げると、あなたは飛び起きてタクシーを呼んでくれた。

 一応いつそうなってもいいように用意はしておいたけれど、予定日よりは少し早め。

 大慌てで病院へ駈け込んで、分娩室に運び込まれて……


「うわあ、いい色。おめでとうございます、女の子ですよ」


 真っ赤な顔をした小さな命を、看護師さんが胸の上に乗っけてくれた。

 2810グラム、ちょっとちっちゃ目の赤ちゃんだ。

 そっと手を握ると、きゅっと握り返してくれたね。


 お母さんになれたんだ、私……その子の背中を撫でながら、ぼんやりと思ったっけ。

 初めて自分の子供を抱っこした時のあなたの顔、なんだか可笑しかった。

 どうしていいのか分からなくて、全身がちがちになってた。

 最初は可哀そうなほどに緊張していたけれど、やがてみせてくれた、三回目の満面の笑顔。

 もう桜が散りゆく季節だったけれど、病室にまた、桜の花が咲いたんだ。

 

 よかった、これから本当に、三人の生活が始まるね。

 早くお家に連れて帰りたいなあ。

 はしゃぐあなたと娘を見ながら、そんなことを想ったっけ。

 

 でも、無事に退院してからの毎日は、思っていたよりも大変で。


「うぎゃあああ~~~!!!」


「あらあら、どうしたの、優実ゆみちゃん?」


 生活の中心は、優美ちゃんになった。

 この名前は、優しい子になって欲しい想いと、私の名前の一文字をとって、あなたがつけてくれたものだった。

 夜泣きをする癖があるので、その度に起こされて、ずっと寝不足だった。


「ん……起きちゃったか……?」


「うん。おっぱいをあげてみるわ。あなたは寝ていて」


 私は休職を会社にお願いしているけれど、あなたには会社がある。

 だから寝かせてあげないと。

 そうは思ってみてもあなたはいつだって、優美ちゃんが寝付くまで、じっと眺めていた。


「こんな姿だって、今しか見られないじゃない。ねえ、優美ちゃあ~ん♪」


 そんなふうに嘯いて。

 全く、デレデレパパさんね。

 そして朝になって、眠い目をこすりながら、会社に行ってた。

 帰ってくる時間は遅くなっていたけれど、「何かいるものない?」って、帰る前に必ず電話をくれたっけ。


 そうだね、この子のこんな姿が見られるのも、今の内だね。

 綺麗ごとだけじゃなくて決して楽ではなかったけれど、すやすやと眠る優美ちゃんのほっぺをさすっていると、そんなことも忘れていたんだ。


 優美ちゃんが幼稚園に通うようになると、ようやく生活にも余裕が生まれた。

 お遊戯会で一生懸命に歌う姿を撮影したり、お休みの日には三人でお出掛けもした。

 短い勤務時間だけれども会社にも戻れて、仕事を続けられた。


「きゃあああ、可愛い~~♪♪」


 職場で優美ちゃんの写真を見せる度に、黄色い声が舞い踊ったっけ。


 生活が落ち着いてくると、次のことだって考えたくなる。


「今年の冬は、スキーに行けるかなあ?」


「ええ、いいんじゃない? 私は優美ちゃんと一緒に、ソリで遊んでいるから」


「……それは交代にしよう。お前だって滑りたいだろ? それかさ、のんびり温泉旅行でもいいなあ。それなら三人で過ごせるだろ?」


「しゅき~、りょこお? ゆみ、ぱぱのことしゅき!」


「ははは、そうかそうか! パパも優美のこと大しゅきだぞお~!!!」


 ……全く、娘にはデレデレのパパなんだから。


「ところでさ、朝美。そろそろ、次の子供、欲しくないか?」


「……うん。そうだね、私も欲しい」


 あなたは子煩悩で、いいパパさん。

 そんなあなたのためにも、もっと子供を産んであげたい。


 優美ちゃんを膝の上に乗せていちゃちゃしてるあなたに、私も思わず抱き付いてしまってた。

 優美ちゃんのことが可愛いのは分かるよ。

 でも私のことも、ずっと好きでいてね。


 そんな緩やかな時間の中、ある日影が落ちた。


『要精密検査』


 会社で受けている定期健康診断の結果の中に、そんな文字が含まれていた。


 ……なんだろ……?

 言葉にできない不安が、心の中に落ちた。


 早めに検査を受けた方が、早く安心できるよね。

 そう思って、あなたには内緒で、病院へ行った。

 もし伝えると、会社を休んで付いて来てしまいそうだから。

 こんなことで、あなたに心配はかけたくなかった。


 血液の採取、レントゲン、MRI……一通りの検査を終えてからの一週間は、どこか気持ちが沈んでいた。


「朝美、どうかしたのか? なんだか元気がないように見えるけど?」


「あ、ううん。大丈夫、何もないよ」


 あなたは敏感に反応する。

 だめだ、しっかりしないと、私。

 きっと大丈夫。 


 そうして迎えた検査結果の日、私は一人で病院へ行った。

 長い待ち時間を経てから入った診察室で、白衣の先生と向き合った。

 先生はモニターで画像をいくつか見せてくれて、丁寧に説明をしてくれる。


 そして……


「ここに3センチほどの影が見えます。それに、腫瘍マーカーの値も高いですね。まだ何とも言えませんが、病理検査をした方がいでしょう」


「……先生、それって、何かの病気ってことですか……?」


「まだ断定はできないですが、悪性腫瘍の可能性があります」



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