第5話 小さくて大きな存在

 あなたからの突然の告白に驚いたのは、それから何度かデートを重ねて、季節が変わって桜の花が咲く頃だった。


「あのさ、久保田さん。俺君のこと、下の名前で呼んじゃだめかな?」


 麗らかな日差しが陽だまりを作ってくれた公園で、急にそんなことを。

 いつもの不器用な笑顔が顔に乗っかっていない。

 きっと真剣なんだと思った。

 でもそれが、ちょっぴりおかしくって。


「いいよ。じゃあ私も三浦君のこと、秀太しゅうた君って呼んでもいいの?」


「うん……その……できたら、呼び捨てで呼んで欲しい……」


「……えっ!?」


「あの、よかったら、付き合って欲しいんだ、朝美あさみ!」


 え……今度は、私の顔から、笑顔が消える番だった。

 嫌だったからじゃない。

 意外だったわけでもない。

 いつかそんな言葉が欲しいと思ってた。

 それが突然、あなたの口から漏れ出たから、ただびっくりして。


「は、はい! よ、よろしくお願いします!」


「……うん、俺の方こそ、よろしく!」


 あなたの顔にゆったりと、いつものぎこちない笑顔が戻っていく。

 決して満開の華ではなくて、日陰にひっそりと咲く小さな花のように、ささやかな笑顔。

 でもそれを見ていると、いつだって安心できたんだ。

 だってあなたは、あまり人前では笑わない。

 でも私には、たくさんそんな笑顔を見せてくれたから。


 その日から、下の名前を呼び捨てで呼び合うようになった。

 お互いに仕事が忙しくて、なかなか会えない日々が続いた。

 でもたまに会った時には、ずっと一緒に、静かな時間を過ごしていたっけ。

 あなたは相変わらずの口下手で、私から喋ることの方が多かった。


 でもそんなあなたが、私に告白をしてくれた。

 一体どれだけの覚悟があったんだろうかと思うと、とっても愛おしく想えたんだ。

 勇気を出してくれてありがとう。

 そのお陰で、今こうして、二人で一緒にいられるんだよ。


 特別なことなんていらない。

 気の利いた言葉なんて必要ない。

 ただそうして一緒にいられる時間が、私にとっては特別だった。

 高校の時に、一緒に過ごした何げない時間、その時と何も変わらない。

 一分一秒が幸せに感じられる、輝いていた、そんな時間と。


 暖かい陽だまりの中で、一生ずっとあなたと一緒にいられたら……

 そんなふうに思うまでに、それほど時間はかからなかった。


「な、夏に休みを合わせて、どこかへ行かないか?」


 長い沈黙が続いた後にそんなことを言われた時は、ちょっと戸惑ったよ。

 嫌だったからじゃないよ。

 秀太って、そんなことが言える人だったんだ。

 それが少し意外だったから。

 

 私もそうだけど、あなただって大人になっていたのかな。

 少し気になるけれど、でも私が好きなのは、昔と変わらない今のあなた。


「うん、いいよ」

 

 そう答えた時の嬉しそうな顔、今でも忘れられない。

 何度かそのことを話題にしてみたけれど、「覚えてないよ、そんなの」、そんな言葉が返ってきたっけ。

 でもきっとあなただって覚えてる。

 だってそう答える時のあなたの顔には、いつもの笑顔がないから。

 照れて何かを隠したい時に、笑い顔が消えるんだ。

 嘘が下手だったよね、分かってたよ。


 二人で話し合って訪れたのは、信州の上高地。

 電車に揺られてバスに乗り換えてたどりついたのは、青く澄み渡る空と、山々の緑が広がる自然だった。

 たまには都会から離れて、のんびりと過ごしたくて選んだ場所だったけど、その雄大な景色に心が躍った。


 宿にチェックインしてから、手を繋いで散策をした。

 木漏れ日の下は空気が気持ちがよくて、涼しさも感じられる。

 頂上に残雪を湛えた山が遠くにあって、そこから流れ来る川の水は透明で、手を浸すと真冬の水道水より冷たく感じた。


 夜の宿では川魚のお料理を美味しく頂いて、それから外へ出てみると、数えきれないほどの星が、漆黒の夜空に瞬いていた。

 清流を跨ぐ橋の上で、じっと首を上に向けた。


「うわあ、すごく綺麗」


「だね。来てよかったね」


 ずっとこんな時間が続けばいいのに。

 そんなことを想わないではいられなかった。


 そしてその夜、私たちは初めて結ばれた。

 月明かりと星明りに見守られながら、あなたの息遣いを近くで感じた。

 重なりあった肌の温もりに幸せを感じながら、私もその時は女になっていたと思う。

 ずっと想っていたあなたを、今独り占めにできている。

 そんな邪なことも脳裏に浮かべながら、押し寄せる快楽の波間に沈んでいった。


 さすがに覚えていないとは、言わせないわよ。

 でもそのことは、訊いたことがないんだ。

 だって私も方も、少し恥ずかしいから。


 翌朝の食堂では、いつも以上に会話が弾まなくて。

 お互いに目を合わせ辛くて、私は俯き加減で、お箸で納豆をぐるぐると掻き混ぜていたっけ。

 あなたにいつもの笑顔が戻ったのは、その日のずっと遅くになってからだった。


 その日の夜も同じ部屋のベッドに並んで座って。

 するとまたあなたは、昨日よりは落ち着いた手つきで、私を抱き寄せてくれた。

 私もあなたの腰に手を回して、きゅっと身を寄せた。

 

 はしたない女だと、思わないでね。

 こんなのは、あなただけだから。

 そしてまた汗だくになりながら、何度も何度も愛し合った。

 私にとっては、あなたのことを好きになってから10年以上。

 その間の空白を埋めるが如くに、私はまるで獣のように大胆になった。

 次の朝になって思い返すと、顔が真っ赤に染まって、沸騰したやかんのように熱く感じてしまうほどに。


 そんなことがあった夏休みが終わると、またお互いに忙しい毎日が始まった。


「久保田さ~ん、頼んでたプレゼンの資料、できてる~!?」


 職場では今日も上司の檄が飛ぶ。

 たまにはやってられない気分になる時はあるけれど、でも前のように、凹んだり落ち込んだりすることはない。

 だって今の私には、あなたがいるから。


「は~い、今最終チェック中です。あと10分で送りますから!」


 そう返事をして、パソコンの画面にまた向き合った。


「ねえ久保田さん、もしかして、何かいいことでもありました?」


 お昼休みの食堂で、後輩の女の子がおうどんを食べながら、そんな質問をしてきた。


「え……!? いえ、別に、そんなことは……でも、なんでそんなふうに思うの?」


 いいことはあったよ。

 図星を突かれた感じがしてしまって、焦りながら白ご飯を頬張った。


「だって久保田さん、最近すごく綺麗だし。それになんだか、優しくなった気がします」


「え? そ、そう?」


「ええ。課長が無茶ブリすると前はもっと言い返していたのに、今はたんたんとされてます。課長だって、『久保田さん、なんだか丸くなったな』って言ってましたよ」


 そうなのかな……

 自分では、全然気づいていなかったけど。

 ちょっとは余裕が生まれたのかな、秀太がいてくれるお陰で。


 頼れる人じゃなくたっていい。

 解決策なんてくれなくていい。

 ただ、私の小さな話を聴いて頷いてくれる。

 そんな存在があって、いつも心の中にいてくれることは、なんて幸せなんだろう。


 そんなことには気づき始めていた。


「別になにもないわよ。それより沙友ちゃんには、何かいいことはないの?」


「私ですか? そうですね、最近、新しい彼氏ができました!」


「へえ、そうなの? よかったじゃない。どんな人なの?」


「この前の合コンで知り合ったんですけどね、すっごく優しくて恰好いいんです。イケメンで背も高くて! 話だってすっごく面白いんです!」


「へえ、それはよかったわね」


 秀太はどうだろう……?

 顔は普通というか、普段は笑わないからちょっと強面?

 中肉中背で、身長は普通かな。

 話は……あまり面白くないかも。

 口下手だし、趣味や交友関係が広い方でもないし。


 もしかして、いいとこなし?

 けどね、相手が男の子でも女の子でも、昔から態度は変わらなかった。

 だから、変にチャラついたり、下心を感じたことはなかった。

 無口でぶっきらぼうだけど、真面目な努力家。

 そして、たまに私にだけ見せてくれる、うっすらとした笑顔。


 私はそんなあなたのことを、誰よりも好きになったんだ。


 口の中で食むご飯の味が、いつもより甘く感じたのは、気のせいだったかな?

 これも今となっては、もう遠い過去の記憶なんだけど。




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