四月五日 夜半


「……さん、大丈夫か? 聞こえている?」


 頭上から遠慮がちにわたしを呼ぶ、声。何度か瞬きすれば、溜まっていた涙がこぼれて視界が明瞭めいりょうになる。

 珍しく寝癖をはねさせた悠さんが、眼鏡の奥から心配そうな目を向けていた。悲愴ひそうだった顔には安堵が浮かび、深いため息を落として脱力するように座り込んだ悠さんが、ポツンとつぶやく。


「良かった。戻ってきてくれて」

「……え?」

「俺にもわからない。ただ、千花さんが行ってしまう気がしたんだ」

「……はい」


 そうかな、そうかも。夢の中でわたしは、確かに、向こう側へ踏み出そうとしていた気がする。

 あの花畑が現実の光景だったのかは、思い返してみてもわからないけれど。


 そういえば夢の中で、妖精さんは元気に楽しそうに飛び回っていたっけ。

 焦りと期待に突き動かされ、わたしの視線は窓辺をさがしていた。悠さんが気づいて、窓辺から籠を持ってきてくれる。


「蜂蜜、なくなってるな」

「妖精さんも、いなくなってる」

「そうか。……元気になって飛んでいったかな」


 良かったという安堵感、やはりあの夢は現実だったのかという焦燥感。胸が苦しくなって、思わずパジャマの上から自分の身体を抱きしめた。

 栄養状態が悪そうな痩躯そうくでも、確かな熱を持つ身体。湿った袖口から香る花と草の匂い。どちらが現実なのか錯覚なのか……わたしにはもうわからない。


「あの子、……わたしを、迎えにきたのかもしれません」


 どうしても言わずにはおられず、吐き出すように呟いたあとで、激しい後悔が湧きおこった。そんなのまるで、自分が妖精だって言ってるようなものだ。

 ただでも夢と現実の区別がつかない痛い子だというのに……、親戚のおばさんたちが「鬼子」と言いたくなるのも当然なのだ。


 冷たい恐怖感とあきらめがひたひたと全身を満たし、これ以上はもう息ができない――と思った瞬間。わたしは、やわらかな熱に包まれた。

 ふわふわとした感触はいつも使っている毛布だけど、――動けない。毛布に包んで閉じ込めるように、悠さんがわたしをぎゅっと抱きしめていた。


「帰らないでほしい」


 苦しげな吐息が耳をくすぐり、そんな言葉を形造る。毛布越しに伝わるかすかな震えはさむさに怯えるわたしのもの? それとも、悠さんの――?

 身体の力を抜いて身をゆだねれば、規則正しい呼吸が前髪をゆらし、穏やかな心音が伝わってくる。

 冷え切ったわたしをあたためてくれる、優しい体温。冷たい闇を押しやって、全身が光に満たされてゆく。


「わたしも、ここにいたい」


 こぼれ落ちた言葉に自分でもびっくりし、すとんとに落ちた。

 上手に生きられなくても、母がわたしをあきらめても、立派な社会人として振る舞えなくても、わたしは――ここにいたい。人間として、生きていきたい。


「……良かった」


 小さく囁かれた声には湿った安堵がにじんでいて。わたしはその優しさに甘えて目を閉じ、悠さんの胸に頭をあずけたのだった。

 



 

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【KAC20253 妖精】夜半に誘う妖精郷 羽鳥(眞城白歌) @Hatori

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