境界の花畑にて
どこからともなく甘い香りが漂ってくる。顔に感じる風は、この季節にしてはずいぶん暖かかった。
……おかしいな、わたし、今日は熱を出していないのに。閉じた
夢の世界で目を開けるこの瞬間は、いつだって怖い。日記を読み返せばいつも楽しい夢ばかり見ているようだけど、書き留められるのは覚えているからだ。
起きたときに忘れているだけで、
でも、ここは暖かくていい香りがする。
大丈夫だよね、何も怖いことなんてないよね?
不安を押し込め覚悟を決めて、まずは薄目から。途端に、眩しいほどの快晴が目に飛び込んできた。高く抜けるような青空に絵筆で引き伸ばしたような白い雲。視界にちらつく色とりどりのお花。
思いきって目を開ける。わたしはパジャマ姿のまま、花畑の真ん中に大の字で寝ていた。――っえ、なんだかとってもメルヘン!?
そろそろと身を起こして見回して、花の間でキラキラ光っているものに気づいた。透明な四枚翅を震わせて飛ぶ、妖精さん……?
わたしが見つけて悠さんが保護してくれた妖精さんが、全身に光をきらめかせながらわたしの近くを飛んでいる。小ささときらめきでお顔はよく見えないのに、妖精さんがすごく喜んでいるのが伝わってきて、わたしも嬉しくなった。
「妖精さん、良かった……! ――え? なに?」
小さな手を差しだされているのは、招かれているんだろうか。立ちあがろうとして、妙に身体が軽いことにも気づいた。息苦しさも、熱っぽさも、頭痛も、いつもなら目覚めと一緒に付きまとうしんどさが何もない。
風は暖かく、一面に花の香りが満ちていて、快晴の空を鳥たちが横切ってゆく。地上のわたしに落ち掛かった影のリアルさがふわふわしていた心をスッと冷めさせた。
待って、ここは本当に夢の中なの……?
『……、……? ……!』
嬉しそうにわたしを誘う妖精さん。声が聞こえる訳でもないし、言葉なんて何一つわからないのに、心から歓迎されているのが伝わってくる。
自分で書いた日記の一文が呼び水になって、遠い昔の記憶がふいによみがえった。
――千花ちゃんは、取り替えられたのかもね。普通の子には妖精なんて見えないのよ。
あのとき母がどんな顔をしていたのかもう覚えていないけど、その夜は見破られたかもしれないと思って怖くて、泣きながらお布団に入ったんだった。でも迎えは来ず、いつも通りの朝になって。
母も、わたしが取り替えられたと本当に信じていたわけではなかったのだろう。
バレないようにと日記は全部持って引っ越した。余計なことは言わず、母の理想通りのいい子であろうと頑張ってきた。でも、物理的な距離は心の距離なんだと思う。
離れた時間が多くなるにつれてわたしは、自分の心を合わせることがつらくなって、母への連絡も返事も、少しずつ
だから母は、わたしが取り替えられたのではないと信じることを、やめてしまったのかもしれない。だから妖精さんは、わたしを迎えに来てたのかも……?
ぼんやりしている間にも、きらめく光は増えてゆく。気づけば、花畑の向こうにたくさんの人影が集まっていた。
妖精さんと同じくキラキラ光りながら飛び回る姿もあれば、もっと大きくて、ほとんど人と変わらない姿もある。
ここは、この花畑は……人間の世界と妖精の世界の境界なのだろうか。
向こう側に行けば、虚弱体質からくる生きづらさとか、家族と
こんなわたしでも、楽しく生きられるようになるのかな。
妖精さんの光に導かれるように裸足のまま一歩を踏み出す。途端、素足が花を踏み潰す感触の生々しさにハッとした。
大丈夫、ここは夢の世界――のはず。でも、もしもこの先を踏み越えて、夢が夢でなくなってしまったら? もう二度と現実世界に帰れなくなるのだとしたら?
わたしは何もかも捨てて、いけるのだろうか。
「……ううん。ごめんなさい。まだ、わたしは」
涙があふれ、視界がぐらぐらと回りだす。膝から力が抜け、崩れ落ちるように座り込んだ。
暖かな風に混じる花の香りと草いきれ、心配そうに飛び回る妖精さん、じわじわとぶり返してきた頭痛……。
気づけば世界は暗転して、ひんやりとした夜の空気がわたしの前に広がっていた。
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