エピローグ
Depth不明 時代のうねり
渋谷のスクランブル交差点で起きた事件は、死傷者と行方不明者が併せて500名以上、重度の心圧症に苦しむ患者300名以上という、未曽有の事態となった。C-SOTのメンバーは鬼崎の死後も代わる代わる何度も心海を訪れ、たくさんの人々を救った。それでも世間の風当たりは厳しい。なにより、起きた事件はこれだけではなかったのだ。全国各地で、いや世界の主要都市ほぼ全てで、似たような心海に関連するテロ行為が同日のうちに発生したのである。国連および各国政府は心海の存在を正式に認め、世界中の誰もが心海を周知することとなった。
その周知のされ方がまずかったと言える。多くの命が失われたテロ行為によって、人民はその恐怖を深く刻みつけられることになったのだ。心海における事故や犯罪は爆発的に増え、世界は深刻な恐慌状態に突入した。あらゆる業界の株価は暴落し、信用の失墜した各国通貨も軒並みその価値を下げた。各国政府は心海のことをひた隠しにしてその力を独占し、人民を支配していたのだと陰謀論者は語った。世界は間もなく心海へと沈むなどという、ノストラダムスさながらの予言も後を絶たない。たった一日の内に人々の生活、価値観は一変した。
しかしそれでも、彼らは戦った。潜ることを止めなかった。命を救うことを諦めなかった。危険を顧みず心海へと潜る彼らは「Diver」と呼ばれ、人々の希望と絶望を一身に背負った。これは、彼らの物語だ。これからも続く、彼らの――――。
――
「俺は足を洗うよ」
日高太陽は女性に向かって告げる。彼女は「ふうん、そうかい」とキセルから煙を吸っていた。
「世話になったな、その、これ……」
太陽は照れ臭そうに何かを手渡した。手に握られていたそれは、赤いかんざしだった。彼女は大層おかしいというように大げさに笑う。
「あー可笑しい。アンタからの餞別ってわけかい?」
「そんなに笑わなくてもいいだろ。あんたが欲しいものなんて思いつかなかったんだ。でも、似合うと思う」
女王蜘蛛はそのかんざしを眺め、ただ机に置いた。
「じゃあな、ちょくちょく顔は出すから……」
「いーや、アンタはもうここには戻れないさ。足を洗うってのはそういうことだろ?」
その声にいつもの冗談めいた響きはない。彼女の顔は真剣だった。
「そうか……そうだよな。ともかく世話になった。感謝してる。拾ってくれて……」
彼は零れそうな涙を見せないように、背中を向ける。
「感謝なんて一銭にもなりやしないよ。そんなもん捨ててとっとと行きな」
「……わかった。じゃあな……」
彼女は引き留めなかった。少しそれを期待していた太陽は一瞬立ち止まったが、振り返ることなく部屋を出る。それを見届けた女王蜘蛛は深く息をついた。「寂しくなるね……」そう言って、目の前にある赤いかんざしを髪に付ける。「ふっ贈り物なんていつぶりだろうねぇ」微笑を浮かべた彼女は、煙をゆっくりと吐き出した。
その煙は天井へと届く前に消えた。淡く、何もなかったかのように――。
地下室から出た太陽は墓参りに向かった。家族が死んでから初めての事である。まず向かったのは草場の墓だ。
彼の葬儀はひっそりと行われた。太陽は参列せず、葬儀が行われているのを外からただ眺めていた。葬儀場から出てきたC-SOTのメンバーや、元奥さんとその子供の表情を見て、彼が愛されていたのだと分かる。それが分かれば十分だった。子供と母親には男が連れ添っている。彼は泣きじゃくる子供を抱き上げていた。「……大丈夫だな」少しの寂しさと安心を抱え、太陽はその場を後にした。
花を添えて手を合わせると、自然と涙が滲む。「あんたがいなかったら俺は……」きっと二度と前を向けなかっただろう。「ありがとう……ゆっくり、休んでくれ」彼の置いた線香の束から煙が天へと昇る。その空は鮮やかに晴れ渡っていた。
――
少年は悲鳴を上げて逃げていた。迫りくる異形の魚。それはあまりに歪で恐ろしかった。
「いやだよ、助けて!助けてぇ!」
だが、その魚はそんな声に耳を貸すことはない。獲物を屠ることに爛々と輝かせているその瞳は、少年の眼には酷く醜く映った。あまりの恐怖に身がすくみ、その場にへたり込む。
「危ないから下がってて!」
少年の前にはスーツ姿の女性が現れていた。シャチか何かの骨の様な怪物に捕まって現れたその人は、ヒーローなのか判然としない。ただ、ショートヘアをなびかせて現れたその人は、目の前の魚をいとも容易く倒してのけた。その姿は純粋にかっこよかった。
「大丈夫?ケガはない?」
その女性は優しく告げる。怖くて腰が抜けていた少年は、なんとか頷くと、彼女に助け起こされた。
「あ、あ、ありがとう!」
「どういたしまして!さ、帰ろう!」
彼女の手は暖かくて、人間なんだと安心した。少年の記憶にあるのはそのシーンだけだった。でも、いつかあんな風に成りたい。そんな想いだけは忘れることはなかった。
優音は心海でたくさんの命を救い、人々の心を覗いた。人間の感情は複雑で、汚れていて、それでもその奥には暖かい光があるのだと知った。自分にはまだ心というものはわからない。だけど、だからこそできることもあるのだと分かった。だからもう迷いはなかった。自分の中にもきっといつかその光が見つかるのだと信じて、今日も彼女は心の海へと潜っていく――。
――
「我々の時代だよ」
「愉快!愉快!」
「待ちわびましたね」
「やったね!」
「人間の時代は終わったのだ」
ハットの人物は東京の街を見下ろしていた。昼間のスクランブル交差点はまだ賑わっている。あんなことが有ったばかりだというのに。
「なかなか面白い器でしょう?」
「ああ、櫟原優音。あれは君に匹敵しうるね」
「我々の同志に加えたいものだ」
「鬼崎よりもよっぽど良い良い」
「あれは使えない駒だった……」
「彼女は正に器。どんな色にでも染まりうる」
「こんな色にも、ね」
ハットの人物はワイングラスに入った真っ赤なそれを太陽にかざし、一息に飲み干した。
「それは彼の血ですか?」
「正解」
「実に美味だ。君も飲むかい?」
「飲め!飲め!」
「遠慮させていただきますよ。私は唯の人間ですから」
「面白い冗談だ」
「つまらない冗談だね」
「君は充分な働きをしてくれましたよ」
「世界中が心海を知った。旧世界は終わったのだ」
「もっと恐怖を!もっと
「それが我々の糧となる!」
「ふふ……心海魚の眼から見ていたのでしょう?どうでしたか?」
「全てつつがなく」
「滞りなく」
「我々の世界へと染まるだろうね」
「彼女も染めちゃおう!」
「良きかな良きかな」
「「「全てはいずれ、深淵に沈む」」」
彼らが見下ろす交差点。そこには骨も内臓も血の一滴すら残らず、皮だけになった鬼崎恭介の死体があった。青を灯した信号機と共に、多くの人が行き交うその真ん中。彼の死体は誰も気にすることがなく、ただ踏みつけられていた。それを人の死体だとは誰も思わなかった。いや、気が付いた者がいたとしても、気にする余裕はなかったに違いない。みな誰もが必死なのだから。自分の事で精一杯なのだから。
――
心海――それは人の精神の奥深く、淀んで溜まったすべての心が集う場所。そこの深淵に何が潜むのか、まだ人類は知らない。いつか知る時が来るのだろうか。知るとしたら……それは世界が終わりを告げるときかもしれない。
Diver ー心海特殊作戦部隊ー 八夢詩斗 @tatsumu-t
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