Depth40 赦し
優音は暗い海の底にいた。光の届かない世界。ここはひどく寒くて、孤独だった。「ここには、誰もいない」そう強く胸が締め上げられる。声を出しても誰にも届かない。手を伸ばしても何も掴むことができない。何もない真っ暗な空間で、自分という存在すら消えてしまったような気がした。
(でも、どこかで助けを呼ぶ声がしたはずなんだ)
彼女は走った。叫びながら走った。
ずっと走り続けて、何かにぶつかった。少ししてなぜか見えるようになったそれは、死体だった。たくさんの人が死んでいた。家族と思われる死体。それ以外のほとんどは首に刃物で負った傷がある。彼女の知らない人間の死体がうず高く積まれていた。いや、1つだけ彼女も知る顔がそこにはあった。それは草場のものだった。
優音はその場を後にして彷徨った。光があるはずだ。どこかに必ず。彼女はひたすらに歩いた。彼女はどこまでも歩けた。心が無いのだから、迷いも絶望もなかった。どれだけ歩いただろう。微かな泣き声が聞こえた。彼女はその声を追いかけて走った。そこには1人の少年が声を上げて泣いていた。「どうしたの?」そう訊いても答えは返ってこない。彼女は歩み寄って肩にそっと手を添えた。少年はびくりと体を震わせたが、やはり蹲ったまま泣いていた。
「どうして、泣いているの?」
「俺にかまうな!君も……不幸になる」
彼は手を振り払った後、すぐにまた顔をうずめて泣いた。優音は少しの間ただ黙ってその声を聴いていた。そしてゆっくりと告げる。
「私は……不幸にはならない」
少年は泣く声を止めて、取り乱した様子で返す。
「嘘だ!みんな死んでいくんだ!じいちゃんもばあちゃんも、母さんも父さんも、結衣だって……!」
「大丈夫」
「草場さんだって死んだ!かかわった人間はみんな死んでいくんだ!俺の目の前で!」
「そう……でも私は不幸にならない」
少年は優音を睨みつけた。その眼には憎悪や孤独が混じっていて、その涙は黒く染まっていた。
「だって、私には心がないから」
少年は驚いた様子だった。
「私は、幸せも不幸もわからない。人が死んだって、何もないの」
そう言って彼女は少年をそっと抱きしめた。その体は震えていたが、少しずつ安心したように落ち着いていく。
「嘘だよ……だって、こんなに暖かいじゃないか……」
少年の眼には涙が滲んでいた。だが、それはもう黒くはなかった。
――
「いてぇよぉ!もうやめろぉ!俺様はどうしたらよかったんだ!なんでだぁ!悪いのは、俺様を認めない世界の方だろうがぁ!」
鬼崎は泣き叫んでいた。今までに築き上げた何もかもが壊れていく。強烈な痛みと無力感だけが彼に残されていた。
「お前は俺から家族を奪った。俺から!全てを!奪ったんだ!」
だが、太陽の手は止まらなかった。ひたすらに鬼崎の身体を切り刻んだ。筋繊維はズタズタに裂かれ、もはや抵抗すらできていないその無残な肉体を、彼はなぶり続けた。
「知るかよぉ!俺様がぁ、生きるために必要なことだった!弱者は淘汰される、それがこの世界だろうがぁ!」
「……そうだな。お前みたいに!」
太陽は鬼崎の喉を切り裂いた。気道からは空気が漏れ、体のあらゆる場所から血が噴き出している。
「死ね!死ね!死ねぇ!」
太陽は鬼崎の顔面にナイフを何度も突き立てた。その顔はもはや原形をとどめず、腐りきったトマトのようになっている。
「もういい!やめて!」
そんな太陽を後ろから抱き留めたのは優音だった。
「関わるな!お前も……死にたいのか?」
そう言って振りほどこうとするが、優音は離さない。彼は叫んで暴れた。そのはずみで優音の頬にナイフが当たり、鮮血が飛び散る。
「もういいの。あなたはずっと孤独だった。独りぼっちで、泣きたくても泣けなかった」
太陽は息を切らして、動きが止まる。
「あなたは殺した人の顔を全員覚えている。全部後悔している。本当は殺したくなんかない、そうでしょ?」
「お前に何がわかる!」
「わからない!私には、あなたみたいな心なんてないから……」
だけど、能力で潜った先で見た彼の心。あれは全部が反対だ。彼の居たいはずの世界は、もっと明るくて、たくさんの人を幸せにして、笑顔でいられる場所だ。絶望は希望の裏返し。何よりも、復讐を今まさに遂げているはずのその心は、真っ暗だった。だから彼が本当に求めているものは復讐なんかじゃないと、彼女にもわかった。
「でも!あなたが本当に求めているのは、復讐なんかじゃないでしょ!好きな人たちと笑っていたい、それだけなんじゃないの?」
『お前はもう人を殺すな』
『お前は優しい』
『自分らしく生きろ』
そんな草場の言葉が太陽の脳裏によぎった。彼の身体から力が抜け、ナイフは手から零れ落ちた。優音は立ち上がって、手を差し出す。
「立って。まだ間に合う。あなたはそっちへ落ちるべき人じゃない」
太陽は泣いていた。そして、ゆっくりと振り向くと、恐る恐る差し出された手に、手を伸ばす。今まではずっと掴めなかった。妹の手も、草場の手も、思えば最初に優音と出会った時も……。
彼はその手を強く握った。その手は、暖かかった。引っ張られて立ち上がり、鬼崎の姿を見下ろす。あまりにひどい姿だった。でも、確かに気持ちは晴れなかった。自分が本当に求めていたものは……復讐じゃなかったのかもしれない。ただ、許してくれると思っていた。鬼崎を殺しさえすれば、家族を守れなかった自分を許してくれるのだと。でも、本当に許せていないのは自分だけだった。彼らをおいて幸せになることが、許せなかった。自分だけ笑って生きることが、許せなかった。
「俺は……笑ってもいいのかな」
「私は気にしません。心がないので!」
優音はそう言って笑った。それにつられて太陽も少しだけ、笑うことができた。
「なんで、だぁ!俺様を……愛してくれよぉ、認めてくれよぉ。俺様はこんなにつええんだ。誰よりも……」
喉が治ったらしい鬼崎はうわごとのように声を上げていた。
「結局、お前も自分を許せなかったんだな……」
鬼崎もただ認められたかったのだ。そして、それを受け入れることができなかった。それは自分が弱いと切り捨ててしまったものだから。2人は少しの間、佇んでいた。
その直後だった。地鳴りのように低音が轟く。それはまるで何かが顕現する、そんな畏怖の念を思い起こさせるものだった。そして、それは姿を現した。鬼崎は勝ち誇ったように大きく笑った。
「ああ、助けに……」
しかし、突如として現れたその巨大な触手は、鬼崎の身体を貫いた。
「な……んで」
胸を大きく貫かれ、辺りに血が散乱する。
「なんでだ!なんでだぁああ!クラァアアケンンン!俺様はまだやれる。やれるんだ……こんなとこで終わるはずじゃねぇ。認めさせてやるんだ、この俺様を!クズどもにぃ!」
しかし無情にもその触手は彼の身体を蝕み、そのまま深層へと引きずり込んでいった。
「い、いやだ死にたくねぇ。まだ……いやだぁあああ!!」
鬼崎の声は心海の奥へと消えていく。優音は鬼崎を確保しようと動こうとした。だが、その圧倒的な存在を前にして、本能的に溢れ出る根源的恐怖。2人の身体はただ震えて硬直するだけだった。手を伸ばすことすら叶わない。それほど格の違う”何か”だった。
神々しいほどの低音と轟いた絶叫が止み、辺りは静寂がその身を
深淵を覗く2人の横では、2頭のクジラが鳴いていた。それはどんな声で鳴いているのだろう。だが、悲しい声でないことは、聞こえなくとも分かった。彼らの涙は綺麗な色をしていたから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます