Depth39 52ヘルツのクジラ
「お兄ちゃんってほんっといっつも笑ってるよね~」
部屋に入ってきた妹の結衣は胡散臭いものでも見るかのように言った。太陽は微笑を浮かべたまま「そう?」と返事をする。
「名前の通り『太陽』って感じでさ~、悩みとかないでしょ?」
彼女も悩めるお年頃なのだろう。もう高校生だ。何か悩みを打ち明けたいのかもしれない。確かに最近は少し反抗期らしく、食事中もスマホをいじったりと、素行もなんとなく良くはなかった。
「俺にだって悩みくらいあるよ。でもさ、帰るところがあって、家族とあったかいご飯が食べれるってだけで十分に幸せじゃん?それに、悩んでるより笑ってた方がずっと楽しいし……」
彼女はまるでゲテモノでも見るかのように怪訝な顔をした後「キモイんだけど……」と呟いた。それには太陽も傷ついたらしいが、「ひっでえな!」と言った後、結衣の肩を叩いてすぐに笑った。
「お兄ちゃんはなに?聖人かなにかの生まれ変わりなの?ガンジー?私の方がバカみたいじゃん!」
「違うよ、ただのギリゆとり世代ってやつ!」
「お兄ちゃんは悟り世代って感じだけどね……」
横で下を向く妹に太陽は優しく語りかけた。
「なんか悩んでるの?」
「んー、なんかお兄ちゃん見てたらどうでもよくなっちゃった」
そう言って部屋を出ようと立ち上がる。「なんかあったら言えよ~!」太陽は手を振ったが、彼女は一瞥すると、ベーっと舌を出して去っていった。「元気そうじゃん」部屋に残された太陽は独り言ちた。
彼の家は中流階級という感じで、特別に裕福なわけではなかったが、生活に不自由はしなかった。今どきにしては少し珍しく、両親と祖父母の二世帯で東京の郊外に住んでいた。祖父母は孫たちを溺愛していたし、両親も共働きながら休みの日は一緒に出掛け、夕飯も大抵は家族そろって食べた。大学生だった太陽も、実家から通学し、基本的には家族との時間を大切にした。彼はこの場所が大好きだったのだ。だから家を離れようとは考えたことがなかった。
妹の結衣は少し違ったらしい。「大学生になったら、こんな家は出て、1人暮らししてやるもん」それを目標に受験勉強に励んでいた。華やかな都会のキャンパスライフを夢描いて、必死に勉強していた。彼女はもうすぐ18歳になる、いわゆる
それらすべては一日で崩れ去った。妹の誕生日当日。その日も家族そろって夕食をとった。祖父母は頑として譲らずにゲン担ぎのかつ丼を所望した。パーティーの主役は「出前ならあたしピザが良かった~」と少し不貞腐れてはいたものの、おいしそうに食べていた。それが、太陽が覚えている、元気な妹の最後の姿だった。
彼はその日以来、『太陽』という名前を捨てた。名付けてくれた両親ももうこの世にはいないのだから。なにより、もう笑えないと思った。現実と比べその名前はあまりに浮いていて、耐えられなかった。
俺は今どこにいるんだ?彼は血みどろになった遊園地を歩いている。朽ちたジェットコースターや観覧車……。「そうか、地獄に来たんだ。たくさん人を殺したから……」目の前で繰り広げられる凄惨な光景も、なぜか思い起こされる家族との思い出も、草場の死も、どこか他人事のように思えた。自分という存在が希薄になっていく。そんな感覚だった。
52ヘルツのクジラ。そう呼ばれるクジラがいる。それは他のクジラが聞こえない周波数で鳴くらしい。たった独りきり。誰に向かって鳴くのだろう。その声を聴く者がどこかにはいたのだろうか。今も探しているのだろうか。その音が聞こえる相手を。
「俺とかかわった人間は不幸になる」彼が形作っていたその信念は、日を追うごとに強まっていった。出会う相手は殺す相手ばかりだったから。ただ、女王蜘蛛は例外だった。太陽には彼女が不幸になる姿を想像することはできなかった。
そんな彼だったが、草場を生かしたことをきっかけに、その信念は少しずつ揺らいでいた。彼は楽しそうに笑っていたから。でも、彼は死んだ。「この世界に俺は居ない方がいい」彼はさっき確信した。だが、あともう1人そういう人間がいる。ジョーだけはこの手で殺さなくてはならない。それだけが太陽がこの世界に存在している理由だった。
――
鬼崎はキングジョーの口から血まみれで飛び出した。
「俺様はぁ!死なねぇ!」
彼は嗤おうとした。だが、嗤えなかった。何かがおかしい。体は治ったはずなのに激しい頭痛がし、視界は心臓の鼓動に合わせて歪んでいた。
「あなたは、私たちが確保します」
ハッキリとした声が耳に響く。追い付いた優音は、浮かんでくる暗い感情を呼吸と共に観察した。そこにあるのは殺意や憎悪……いや、それを覆っているのは困惑や恐怖だった。奴の心に何かが起きている。でもその正体は分からなかった。
「無理に決まってんだろぉが!」
鬼崎は瞬間移動を使った。だが、現れたのは優音の傍ではない。八代の傍でもない。「あ?」彼自身も戸惑っていた。なぜこんな場所にいるのだと。それは中途半端な立ち位置で、すかさず2人の銃弾が浴びせられた。
「効かねえんだよ!」
そう言い放った彼だったが、やはり何かがおかしい。体は自分のものではないかのように言うことを聞かなかった。受けた傷の治りも遅くなっている。
「なんだよぉこれはぁ!」
それは優音や八代が初めて聞く、鬼崎の情けない声だった。頭を抱えた鬼崎のもとに2人が駆け寄ってくる。彼は逃げた。瞬間移動を使って、遠くへ跳ぼうとした。気づけば観覧車の前に来ていた。周りをきょろきょろと見回すが、奴らは居ない。
「クソがっ!仕切り直しだ……」
彼はその場に座り込んだ。すぐに治まると思った。これから新たな世界を統べる王なのだ。死ぬわけなど無いと言い聞かせた。だが彼を覆う虚脱感は体を重くした。吐き気もこみあげてくる。
「クッソがぁああああッ!」
彼は叫んだ。イライラした。何もかも。
鬼崎が消えてすぐに、優音は八代へと告げた。
「私だけでも奴を追います。瞬間移動を使って」
八代は逡巡した。彼女を1人で行かせていいのか。また飲み込まれるかもしれない。そうなれば今度こそ取り返しのつかないことになる予感がした。
「今の彼は自分を制御できていない。必ず捕えて見せます」
だが彼女の意志は固かった。止めても無駄だろう。そう苦渋の判断を下す。
「わかった。でも僕に傷を付けて。何かあればすぐに戻ること。いいね?」
そう言って八代は手の平を差し出した。彼女は強く頷くと、ナイフで薄く傷をつける。
「いってきます」
「必ず戻ってくること。約束だ」
「はい」
彼女はその場から姿を消した。鬼崎の背中を追って。
優音が着いた先に奴は居た。だが、座り込むその背にはいつものような圧倒的とも呼べる覇気が全く感じられない。「放っておいても直にくたばるさ」女王蜘蛛の言った言葉が思い起こされる。何か、人の身に余る力を使った末路なのかもしれない。しかし、彼女にも余力は殆どなかった。無理矢理に息を整えて彼女は告げる。
「投降しなさい」
その言葉に反応して、鬼崎はよろよろと立ち上がる。その目は淀んでいた。暗く、濁っていた。
「お前だけでも……殺す」
動きにキレはないがその暴力性は健在だった。優音は拳銃を構え撃ち放つ。だが、弾切れだった。すでに撃ち尽くしていたらしい。顔面にパンチを喰らった。奴はそのまま、勢いに任せて何度も優音を殴った。彼女はナイフで応戦する。しかし、傷をものともしないその攻撃によって、組み伏せられた。そのまま首をきつく締めあげられる。苦しい……銃弾に頼った自分、確認しそこなった自分に嫌気がさす。彼女は半ば死を覚悟した。どれだけ暴れても、奴は微動だにしない。
だが、突如として鬼崎の手から力が抜けた。それどころか、全身を斬りつけられて悲鳴を上げている。「何が……?」優音はゴホゴホと咳をした後に目の前を見た。
「殺す……!殺す!殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す……」
黒いロングコートの青年がそう連呼して鬼崎の身体めがけ、手に持ったナイフを一心不乱に切りつけ、突き刺し、引き抜いていた。ズタズタになった鬼崎の身体はなかなか再生せず、力も入らないようだった。青年はそれを気に留めることなく、容赦なくめった刺しにした。
「誰だぁ!てめえは誰なんだ!やめろ!やめろぉ!」
「お前はこの世界にいない方がいい。死ね。死ね。死ね」
その瞳は狂気に染まっていた。自分の存在意義は目の前の男を殺すことにしかないように。
「
優音は最後の心息を振り絞って能力を発動した。ターゲットは太陽だ。なぜなのか自分でも判然としないままに。ただ、彼の心が助けを求めている、そう思ったから。
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