Depth4 心圧症
人は自分の欲求が叶えられないときに葛藤を感じる。
だが、猪俣が刺され、ソラもキングジョーに蹴散らされたその刹那、彼女は強い葛藤を感じていた。それは正義を成せないからなのか、彼女の心に巣食った『壊したい』という欲求のためなのかはよくわからない。とにかく息もできないほどに胸が苦しくなり、暴れたくなった。まるで溺れて死んでいく人のように。
鼓膜にあの男の笑い声が耳鳴りのように甲高く響く。彼女は胸を押さえ、頭を抱えてうずくまった。呼吸が荒い。精神が錯乱すれば心海では命取りになる。それは客観的な事実としてはもちろん認識していた。だけど、自分がこのような状況になるとは、本当の意味では理解していなかったのだ。
「おい、逃げるぞ」
先ほど姿を消したと思っていた黒コートの男がすぐ横に立っていた。彼のそばには大きなクジラが見える。それは黒い
――ヒュン。
空気を裂くような短い音に、彼は伸ばしかけた手を引っ込めた。2人の間を高速の何かが通り過ぎたらしい。それは細長い針のような、何かの角のような形をしていた。その飛翔体は奥にいた派手なパーカーの男へ向かって飛んでいく。優音はそれを視線で追った。しかし、奴の方もどうやら間一髪のところで躱したらしい。
「新手か……。悪いな。
「小日向、さん、
優音は震える声を漏らした。そこには見慣れたスーツ姿の2人がいる。
「優音ちゃん!猪俣くん!!」
「どうなってやがんだよ、クソ」
駆けつけたのはC-SOTの
「クーちゃん、いくよ!」
小日向の傍には真っ白い、イッカクような鋭いドリル角を持つバディがいた。おそらく先ほどの攻撃は、彼女の狙撃のような能力によるものなのだろう。彼女の右目とバディの右目には、赤く光る薄い液晶のようなものが付いており、それで照準を合わせているらしい。彼女は普段とは全く違う凛々しい姿だった。まさに戦闘モードといった出で立ちで、堂々とルーカーと対峙している。
「傷はないか?」
矢切から話しかけられた優音は首を横に振った。
「いえ……私は大丈夫です。それよりも……猪俣くんがっ……!」
普段は眉間にしわの寄っている矢切の目が少し優しくなる。「そうか……よく頑張ったな、少し休んでろ」彼は彼女の肩にポンと手を触れると立ち上がった。
「今日は随分と騒がしいじゃねえか!」
それでも派手な男は余裕の姿勢を崩さない。かに思えた。
「遊んでやりてぇところだが……この続きは今度にしてやるよ」
そう言って男はキングジョーに手を触れようとする。
「逃がさないから!」
鋭い小日向の声と共にドリルが高速で発射された。それはどう見ても躱すのは不可能。不可避の速攻だった。にもかかわらず、やはり奴は消えていた。バディにはまだ触れていないのに。
「嘘!間に合わなかった!?……能力っ?」
「小日向さん、警戒は……解かないでくださいっ!おそらく瞬間移動系の能力です!」
優音は声を振り絞る。小日向は狙撃を成功させた確信があったのだろう。少しだけ当惑していたが、ベテランらしくすぐに持ち直す。即座に「了解!」と鋭い目で辺りを見渡した。少しの沈黙ののち、再び声が響き渡る。
「C-SOTォ!お前らの隊長に伝えとけ!ジョーが戻ったってなぁ!」
3人の視線が声の主へと向かう。なぜかただ佇んでいる心海魚。またしてもその隣に奴はいた。そして、その心海魚をキングジョーのヒレが傷つけたのと同時に、ジョーと名乗った男はバディと共に消えた。傷をつけられた心海魚は暴れまわっている。小日向は再び攻撃を加えようとしたものの、間に合わなかったらしい。今度こそ逃げられたようだ。
「何とか生きてるな、猪俣……ちょっと待ってろ。メディック、来い!」
矢切は自身の近くにカブトガニのようなバディを呼び出した。そして、彼の傷を詳しく診る。猪俣は弱々しく「僕、心海魚を倒したんですよ」と告げるが、矢切が「黙ってろ」と言ってからは、おとなしくしていた。
一方同時に、斬りつけられた心海魚は暴れながらそちらへと向かってきていた。がむしゃらにノイズをまき散らしながら、そこかしこに攻撃を加えている。妙な動きだった。小日向は少し観察していたが、どうやら目を潰されているらしい。
(あの傷は何?明らかに意図的……)
彼女は少し考えたものの、荒れ狂う心海魚の上あごに照準を定め、イッカクの角を射出する。そうして容赦ない一撃のもとにその魚は葬られた。
「さて、と……猪俣くん……大丈夫?」
彼女はすぐに猪俣のもとに駆けつけ、心配そうにその手を握った。彼は少しだけはにかんで見せる。
「傷はこれだけだな」
少しして矢切は腹部の傷口に”メディック”と呼ばれたバディのしっぽを刺した。その尾は注射針のようになっており、そこから青い血が流れ込んでいくのがうっすらと見える。優音は意識が朦朧となりながらも、その一部始終を見ていた。辺りは先ほどまでの喧騒が嘘のように静寂に包まれている。保護された女性の方も、軽い切り傷はあるものの、命に別状はなさそうだ。
優音は断ったが、矢切は全員を治療した。彼女はその間に情報を話そうとしたものの、意識はあやふやに宙を漂っており、自分が上手く喋れているのかもわからない。「黙っとけ、少しでも温存しろ」そう言われて、素直に従うことしかできなかった。
「これで全員、傷口は塞がったな。すぐに帰るぞ」
矢切はカブトガニに手を触れる。
「ちょっと……待ってくださいっ!」優音はぎりぎりの声を張り上げた。「情報を……」途切れ途切れの息でなんとか意見を述べようとする。
「人命優先だ」
「心海にいるだけでも心息を使うんだからね!すぐに
だが、先輩2人はすでにバディに手を置いて、猪俣と倒れていた女性、それに優音へと触れる。
「ダメ……です。記憶が……だから……」
しかし、結局優音は最後まで言い切ることはできなかった。
「問答無用だ」
矢切がそう言って、小日向が勢いよく頷く。その直後、身体を貫く激しい浮遊感と共に、全員が何とか無事に地上へと帰還していた。
――
「2人ともぉ、本当によく頑張ったね」
小日向は戻ってきた優音と猪俣をギュッと抱きしめる。すぐそばには覗き込む隊長の姿も見えた。
「こりゃあ早く医療室へ運ばなくっちゃね」
彼も普段の気怠そうな姿とは裏腹にテキパキと手配をしている。矢切もそれを手伝っているらしい。
――心圧症。心息を使いすぎた状態で地上へ戻った時に起こる病の一種である。意識障害や神経痛を引き起こし、記憶の混濁もよく見られるが、酷くなると発狂状態になる人間もいる。救助された人間のほとんどが記憶をなくしているのはこのためだ。自分のバディを使って帰還すればこの症状は緩和されるが、あいにく今回は2人とも使う余力がなかった。
優音と猪俣の2人は戻るとすぐに激しい呼吸を繰り返して、意識を失った。即座に医療室のベッドへと運び込まれる。警視庁内部では心圧症専門の医師も一人常駐しており、救出した対象や隊員たちの治療を行っている。すぐに点滴が用意され、2人は一命をとりとめた。
ジョー……あの男はそう名乗った。奴は何者なのか。それは深い因縁と、心海の深淵へと繋がっていた。
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