Depth4 心圧症

 人は自分の欲求が叶えられないときに葛藤を感じる。櫟原優音ひらはらゆうねはこれまでの人生で葛藤というものを感じたことはなかった。それは決してすべての欲求を叶えてきたからではない。となれば自ずと帰結は決まってくる。

 

 だが、猪俣が刺され、ソラもキングジョーに蹴散らされたその刹那、彼女は強い葛藤を感じていた。それは正義を成せないからなのか、彼女の心に巣食った『壊したい』という欲求のためなのかはよくわからない。とにかく息もできないほどに胸が苦しくなり、暴れたくなった。まるで溺れて死んでいく人のように。


 鼓膜にあの男の笑い声が耳鳴りのように甲高く響く。彼女は胸を押さえ、頭を抱えてうずくまった。呼吸が荒い。精神が錯乱すれば心海では命取りになる。それは客観的な事実としてはもちろん認識していた。だけど、自分がこのような状況になるとは、本当の意味では理解していなかったのだ。


「おい、逃げるぞ」


 先ほど姿を消したと思っていた黒コートの男がすぐ横に立っていた。彼のそばには大きなクジラが見える。それは黒いもやのようなものを纏っていた。彼女は手を伸ばそうとするが、上手く体が動かない。これほどまでに疲弊したのは生まれて初めてだった。状況を察したらしい男は優音の肩に手を当てようと手を伸ばす……。


 ――ヒュン。


 空気を裂くような短い音に、彼は伸ばしかけた手を引っ込めた。2人の間を高速の何かが通り過ぎたらしい。それは細長い針のような、何かの角のような形をしていた。その飛翔体は奥にいた派手なパーカーの男へ向かって飛んでいく。優音はそれを視線で追った。しかし、奴の方もどうやら間一髪のところで躱したらしい。

 

「新手か……。悪いな。帰還ジャンプ」黒コートの男はそう言った後、すぐに彼女の視界から姿を消した。そばにいた巨大なクジラも、跡形もなく消えている。今度こそ帰還ジャンプしたらしい。優音は発射物が放たれた方を振り向く。


「小日向、さん、矢切やぎりさん……!」


 優音は震える声を漏らした。そこには見慣れたスーツ姿の2人がいる。


「優音ちゃん!猪俣くん!!」


「どうなってやがんだよ、クソ」


 駆けつけたのはC-SOTの小日向麗こひなたうらら矢切隆次やぎりたかつぐだった。小日向は一瞬だけ優し気な表情を優音に向けたが、すぐに殺気のこもった鋭い目で派手なパーカーの男を睨みつける。矢切も普段は殆ど感情を見せないクールな男なのだが、今回ばかりは明らかに怒りをその目に滲ませていた。

 

「クーちゃん、いくよ!」


 小日向の傍には真っ白い、イッカクような鋭いドリル角を持つバディがいた。おそらく先ほどの攻撃は、彼女の狙撃のような能力によるものなのだろう。彼女の右目とバディの右目には、赤く光る薄い液晶のようなものが付いており、それで照準を合わせているらしい。彼女は普段とは全く違う凛々しい姿だった。まさに戦闘モードといった出で立ちで、堂々とルーカーと対峙している。


「傷はないか?」


 矢切から話しかけられた優音は首を横に振った。


 「いえ……私は大丈夫です。それよりも……猪俣くんがっ……!」

 

 普段は眉間にしわの寄っている矢切の目が少し優しくなる。「そうか……よく頑張ったな、少し休んでろ」彼は彼女の肩にポンと手を触れると立ち上がった。


「今日は随分と騒がしいじゃねえか!」


 それでも派手な男は余裕の姿勢を崩さない。かに思えた。


「遊んでやりてぇところだが……この続きは今度にしてやるよ」


 そう言って男はキングジョーに手を触れようとする。


「逃がさないから!」


 鋭い小日向の声と共にドリルが高速で発射された。それはどう見ても躱すのは不可能。不可避の速攻だった。にもかかわらず、やはり奴は消えていた。バディにはまだ触れていないのに。


「嘘!間に合わなかった!?……能力っ?」


「小日向さん、警戒は……解かないでくださいっ!おそらく瞬間移動系の能力です!」


 優音は声を振り絞る。小日向は狙撃を成功させた確信があったのだろう。少しだけ当惑していたが、ベテランらしくすぐに持ち直す。即座に「了解!」と鋭い目で辺りを見渡した。少しの沈黙ののち、再び声が響き渡る。


「C-SOTォ!お前らの隊長に伝えとけ!ジョーが戻ったってなぁ!」


 3人の視線が声の主へと向かう。なぜかただ佇んでいる心海魚。またしてもその隣に奴はいた。そして、その心海魚をキングジョーのヒレが傷つけたのと同時に、ジョーと名乗った男はバディと共に消えた。傷をつけられた心海魚は暴れまわっている。小日向は再び攻撃を加えようとしたものの、間に合わなかったらしい。今度こそ逃げられたようだ。


「何とか生きてるな、猪俣……ちょっと待ってろ。メディック、来い!」


 矢切は自身の近くにカブトガニのようなバディを呼び出した。そして、彼の傷を詳しく診る。猪俣は弱々しく「僕、心海魚を倒したんですよ」と告げるが、矢切が「黙ってろ」と言ってからは、おとなしくしていた。


 一方同時に、斬りつけられた心海魚は暴れながらそちらへと向かってきていた。がむしゃらにノイズをまき散らしながら、そこかしこに攻撃を加えている。妙な動きだった。小日向は少し観察していたが、どうやら目を潰されているらしい。


(あの傷は何?明らかに意図的……)


 彼女は少し考えたものの、荒れ狂う心海魚の上あごに照準を定め、イッカクの角を射出する。そうして容赦ない一撃のもとにその魚は葬られた。


「さて、と……猪俣くん……大丈夫?」


 彼女はすぐに猪俣のもとに駆けつけ、心配そうにその手を握った。彼は少しだけはにかんで見せる。


「傷はこれだけだな」


 少しして矢切は腹部の傷口に”メディック”と呼ばれたバディのしっぽを刺した。その尾は注射針のようになっており、そこから青い血が流れ込んでいくのがうっすらと見える。優音は意識が朦朧となりながらも、その一部始終を見ていた。辺りは先ほどまでの喧騒が嘘のように静寂に包まれている。保護された女性の方も、軽い切り傷はあるものの、命に別状はなさそうだ。


 優音は断ったが、矢切は全員を治療した。彼女はその間に情報を話そうとしたものの、意識はあやふやに宙を漂っており、自分が上手く喋れているのかもわからない。「黙っとけ、少しでも温存しろ」そう言われて、素直に従うことしかできなかった。


「これで全員、傷口は塞がったな。すぐに帰るぞ」


 矢切はカブトガニに手を触れる。


 「ちょっと……待ってくださいっ!」優音はぎりぎりの声を張り上げた。「情報を……」途切れ途切れの息でなんとか意見を述べようとする。


「人命優先だ」


「心海にいるだけでも心息を使うんだからね!すぐに帰還ジャンプするよ」


 だが、先輩2人はすでにバディに手を置いて、猪俣と倒れていた女性、それに優音へと触れる。


「ダメ……です。記憶が……だから……」


 しかし、結局優音は最後まで言い切ることはできなかった。


「問答無用だ」


 矢切がそう言って、小日向が勢いよく頷く。その直後、身体を貫く激しい浮遊感と共に、全員が何とか無事に地上へと帰還していた。


 ――


「2人ともぉ、本当によく頑張ったね」


 小日向は戻ってきた優音と猪俣をギュッと抱きしめる。すぐそばには覗き込む隊長の姿も見えた。


「こりゃあ早く医療室へ運ばなくっちゃね」


 彼も普段の気怠そうな姿とは裏腹にテキパキと手配をしている。矢切もそれを手伝っているらしい。


 ――心圧症。心息を使いすぎた状態で地上へ戻った時に起こる病の一種である。意識障害や神経痛を引き起こし、記憶の混濁もよく見られるが、酷くなると発狂状態になる人間もいる。救助された人間のほとんどが記憶をなくしているのはこのためだ。自分のバディを使って帰還すればこの症状は緩和されるが、あいにく今回は2人とも使う余力がなかった。


 優音と猪俣の2人は戻るとすぐに激しい呼吸を繰り返して、意識を失った。即座に医療室のベッドへと運び込まれる。警視庁内部では心圧症専門の医師も一人常駐しており、救出した対象や隊員たちの治療を行っている。すぐに点滴が用意され、2人は一命をとりとめた。


 ジョー……あの男はそう名乗った。奴は何者なのか。それは深い因縁と、心海の深淵へと繋がっていた。

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