第二章 日高太陽
Depth5 女王蜘蛛
確かに、人を殺すにはいい能力だな……黒いロングコートを羽織る男は冷めきった目で、ガタガタと怯える相手を見下ろす。人を殺すことに何も感じなくなっている自分がいる。だが、殺しを楽しんでいる
「ま、待てよ!おおお、俺は悪くねぇ!」
このいかにも小物な男は、心海に女を連れ込んでレイプを繰り返しているクズだ。被害者は心息切れで溺死するか、仮に生き残っても廃人になっているらしい。しかもその出来事を忘れているのだからコイツにとって好都合というわけだ。そんな背丈すらも小さいレイプ魔を見下ろしている黒いロングコートの男は、サバイバルナイフを手に近づいていく。
「くく、くそったれぇ!殺せ!エボシィ!」
男はクラゲのようなバディを呼び出した。大方この能力で女性を麻痺させたり、触手で拘束していたのだろう。
(つくづく哀れだな)
ため息をこぼして即座に駆け寄る。バディ能力を使うまでもない。コートの男はぬらりと近づいてくる触手をあっさりと躱して、本体である小柄な男に近づいた。何せ相手は心海での戦い方がまるでなっていない素人だ。自分の精神の動揺が戦闘の結果に直結するというのに……。現にそのクラゲは存在が消えかかったようで、ほとんど置物と言ってもいい状態だった。いつも自分が有利な状況にいて、自分が被害者になることなど想像したこともなかったのだろう。
「なんだよ、動けよぉ!」クラゲはそんな声に反応することなく、ただ風にそよぐ風船のように揺れていた。「くそったれぇ!」男はそう吐き捨て、尻もちをついてずるずると後ずさりする。
「た、頼む……!命だけは!仕方ねぇだろぉ!よ、欲望はお前にだってあるだろうが!」
「黙れ」
黒コートの男はナイフを首に突きつけた。他人の命は平気な顔で弄ぶくせに、自分の命になると途端に態度を変える。こういうクズは報いを受けるべきだ。まあ、仕事でなければわざわざ自分で殺したりはしないが……。どうせこんな素人なら、すぐに
「お、俺にだって家族はいるんだぁ!頼む!金なら払う……なんなら女の狩場も教えてやるぜぇ……?どうだ?へへへ?お前だって……」
家族……か。ほんの一瞬、手が止まる。だがすぐに、それを振り払うようナイフを首元に突き刺した。ごぼぉっ……刺された男の口からはそんな音と共に、血と呼気の混じった泡が飛び散る。普通の人間なら死んだときの姿で現実に死体が残る。だが、心海に適応したダイバーやルーカーは心海で死ねば何も残らない。死体は心海魚の餌になるだけだ。
「行くぞ、ロイ」
彼はクジラのようなバディを呼び出すと、確かに相手が死んだことを確認し、バディに手を触れる。「
ゆっくりと目を開き、付けていたマスクを外す。それはC-SOTの使っているものとは少し違うらしい。おそらくは違法の品なのだろう。彼はそれを自身のカバンに入れて立ち上がった。彼がいたのは
そうして彼が向かったのはそう遠くない場所にある路地裏だった。そこの扉を4回ノックし、なにやら告げると扉が開く。そこには、顔まで刺青が入ったガタイのいい男が立っており、無言のまま首のジェスチャーだけで「行け」と合図をした。違法な者たちにとってはアナログな方法がむしろ安全らしい。彼はそのまま地下へと向かう階段を下ると、現れた赤い扉を開ける。
そこは窓のない薄暗い一室だった。何かの事務所か何かのようにも見える。奥には女が1人、机に肘をついて彼を見ていた。あたりには煙が幻想的に立ち込め、煙草のにおいが充満している。
「ふーん、早かったねぇ」目の前にいた女は口から煙を薄く吐き出した後、ほとんど興味なさそうに告げた。銀髪の髪を長く伸ばしており、見た目は20代後半くらいに見える。片眼はつぶれて隻眼になっており、口にくわえたキセルからは、白い煙をゆらゆらとくゆらせていた。赤い着物姿だが、派手に感じさせない風格がある。
「ターゲットは始末してきた。証拠はいるか?」
「必要ないね。信頼してるさ」
嘘だな、と男は思う。彼女の情報網は異常だ。あまりにも早いが、何かすでに証拠を握っているのだろう。彼女は確からしい複数の情報がなければ信じたりはしない。人の主観的な発言などという不確定な要素はハナから当てにしていないのだ。そうして淡々としたやり取りを少し経た後、男は報酬らしき金を受け取った。そしてすぐに踵を返し、その薄暗い部屋を出ようとする。
「太陽」立ち去ろうとする背中に女が声をかけるとピタリと足が止まった。そして、男はナイフを手に持って振り返る。その目は暗い怒りを滲ませていた。
「殺すぞ?ババア」
「あ?無理だろひよっこが」
太陽と呼ばれた男はナイフを手につかつかと歩み寄るが、女は余裕の表情を崩さず、むしろ不敵に笑みを浮かべている。
「ははっ。そういえば下の名前で呼ぶとキレるんだったっけねぇ……」
そう言った後、女の目つきは急激に鋭くなる。
「それより、ババアっつったか?」
女は軽い身のこなしで机を乗り越え、男の眼前で睨みつける。そして、彼が動き出そうとする動きを完全に先読みし、手首をつかんでそのまま床へと投げ伏せた。右手にはいつの間にか奪ったサバイバルナイフを持ち、腹の上に座りながらキセルで煙草を吸っている。
「クソ……おめぇんだよ」
太陽が暴れながら告げるが、女は黙ったままナイフを首元へと押し付けた。首筋に鋭い刃が軽く触れ、鮮血が細く滴る。力の差は圧倒的らしい。
「ちょっとは成長したかと思えば、大したことないねぇ……」
女は煙を肺に入れてからゆっくりと吐き出す。
「ヒダカ……アンタの名前も売れて来てるらしいけど」
組み伏せられた黒コートの男は
「それとアンタ、あいつ……
足を組んで太陽を椅子にしているこの女性は”女王蜘蛛”、心海の情報屋だ。心海における情報網の中心にいることからそう呼ばれているらしい。経歴や年齢含めその多くは謎に包まれているが、どこかの国の特殊部隊に所属していた、という噂がまことしやかに囁かれている。裏社会で情報を扱えば命を狙われるのが常なのだが、その実力故か誰も手出しはできないらしい。様々な仕事(もちろんイリーガルだ)の仲介も行っており、太陽も基本的には彼女から仕事を請け負っている。
「ああ……実際に手合わせして大体の実力は分かった……」太陽は抵抗を諦めたらしく、間抜けな姿のまま返事をした後すこし黙り込む。
「黒服連中を助けたから殺せなかった」とは口が裂けても言えなかった。そんなことを言えばこの女が大いに笑い転げるであろうことは容易に想像できたからである。そして、数秒の間を空けた後に「次は確実に殺す」と暗い目に憎悪を宿して告げた。
「ふーん……意外と冷静だねぇ。てっきり激情に駆られて、ぶっ殺されてるんじゃないかって心配だったけど……」
「嘘つくな。あんたが
それを聞いて女王蜘蛛はやれやれと首を振った。「私がそんな冷酷無情なやつに見えるのかい?」そう言った後ナイフを投げ捨てる。すかさず彼女は流麗な手つきで太陽の手を取って立ち上がらせると、耳元に口を寄せ「私は慈悲深い女だよ」と囁いた。その直後、太陽は腹部に激痛を感じてうずくまる。口からは微かに血の混じった唾が飛んだ。あまりにも素早すぎて反応すらできなかったが、鋭い膝蹴りを受けたらしい。
「汚いねぇ、後で掃除しときな」彼女はくっくっと少し笑う。そして「ま、せいぜい復讐をやり遂げるんだね」と言って優雅に着物をはためかすと、もともといた椅子に軽やかに腰かけた。一方の太陽はと言えば、腹を抑えながら苦しそうに女を下から睨みつけている。
「ああそれと、アンタを殺そうって言う奴らが出て来てるみたいだから……」
彼女は肘をついて顎に手をやると、艶っぽく告げた。
「つまらない死に方、するんじゃないよ?」
「……あんた以外には負けねぇよ」
太陽は何とか立ち上がると、ナイフを拾って部屋を立ち去ろうとしたのだが、またしても彼女に呼び止められる。
「……なんだ?」
彼はいらだち交じりに応え、目つき鋭く振り向いた。彼女は色っぽい微笑をこぼして告げる。
「言ったろ?掃除して帰りな」
彼は大きくため息を漏らした後に、首を振る。
「……負けたよ」
結局彼が帰ることができたのは、部屋の床をすべて拭き終えてからだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます