Depth2 潜む者〈ルーカー〉

 何度も見ているのに、何かが毎回違う。それは言葉にしようとすれば、煙のように輪郭を持たず消えてしまう。それがこの心海を、生き物のように不気味に感じさせるのかもしれない。――また、ここへ戻ってきた。

 

 櫟原優音ひらはらゆうねは辺りを観察する。点滅する蛍光灯の灯りが壁と床を不規則に照らしていた。朽ちた研究所を連想させるドアのない狭い廊下が続いている。かび臭く、吐き気を催す微かな臭気が漂い、生ぬるいのに肌寒い。そんな常人なら狂ってしまうような場所だった。

 

 優音は少し耳を澄ます。すると、遠くから微かに這いずるような音が聞こえた。これは心海魚の発するノイズ……。しかし、わずかな違和感だが、そこに何か別の、聞きなれない音が混ざっていた気がした。

 

 何かわからないにせよ、とにかく今はそちらの方向へ急ぐべきだろう。彼女は猪俣の到着を待った。


「警察です!救助に来ました!誰かいたら返事をしてくださーい!」


 優音の到着から少し遅れて猪俣剛いのまたつよしが現れ、大きな声を上げた。2人とも直前に付けていたマスクはしておらず、スーツにもC-SOTの文字が入っていた。心海に潜るときにはある程度イメージの力が作用するため現実の姿とは異なる姿をしている。


「2時の方向でノイズのような音を聞きました!急ぎましょう猪俣くん!」


「おう!」彼は勢いよく返事をし、全力で廊下のような隘路を走りぬける。優音の茶色い髪がなびき、猪俣のとんがりヘアは動かない。「優音!今回のは俺が倒すからな!」並走しながら告げた彼は明らかな闘志を燃やしていた。


 彼は優音の前では「俺」という一人称を使う。タメ口で話すときにはそうなるらしい。まっすぐで負けず嫌い。だが正義感の強い彼は自然と場の空気を明るくする。

 

 目の前の人を助けることが正義であって、彼の行動は本質からずれている。だけど、動機が何であれ結果として人を救えたのならそれは正義のはずだ。私の掲げる正義も、結局は両親や世間から与えられた価値観なのだから……。優音の頭に浮かぶそんな形而上学的な思考を遮るように、通路の先から悲鳴が轟いた。


「助けてぇえええ!……いやっ……!こないでぇ!」


 ノイズと甲高い声が入り交じる。曲がり角を曲がった先には開けた空間があった。そこの奥で女性が心海魚に追われている。その女性は涙交じりに表情を歪ませて走っていた。猪俣はその不協和音を上塗りするような大声で叫ぶ。

 

「いくぞバショウ!あいつをぶっ倒す!」


 優音が銃を構えるよりも早く、2人の頭上にカジキのような魚が突如として現れた。まっすぐに伸びた口先が、角のように鋭く尖っている。と言ってもそれは、ビデオゲームから出てきたような、カラフルでかわいらしい見た目をしていた。赤と白でコーティングされたそのカジキマグロは消防車を思い起こさせる。


 ”バショウ”は猪俣の声に呼応し、心海魚に向かって魚雷のごとく突進した。かろうじて目では終えるものの、かなりのスピードである。それどころか、徐々に加速しているらしい。

 

 だが心海魚もただ黙ってやられるわけがない。急加速していく攻撃をどう察知したのかは不明だが、魚は真っ白な細長い体をうねうねとくねらせ、そのコミカルな魚雷の突進をあっさりと躱した。そして円状の口を広げると、ターゲットを変えて優音と猪俣の方へ迫ってくる。


 その心海魚の身体には口以外に目や他の器官は見当たらない。恐ろしい見た目だ。ものすごい速さで迫ってくるその怪物を前にすれば、ほとんどの者は戦意を喪失するだろう。体を縦横無尽に這わせ、低音のノイズを発しながら近づいてくる。奴らはまるで人の本能に根付く恐怖や気持ち悪さを刺激するように、意図的にデザインされているかのようだった。実際、攻撃されたなどの場合を除いて、奴らは負の感情を抱える人を優先的に食べようとするらしい。


「甘いんだよ!キモ心海魚!」

 

 そんな見た目にも動じることなく、猪俣は大げさな身振りで手をくいっと引き寄せる動作をした。バショウは慣性の法則を無視したかのように急停止してそのまま引き返してくる。異形の魚は後ろからの急な攻撃に対応しきれず、そのまま串刺しにされる、と同時にそのヘビのような身体は破裂霧散した。たったの一撃であの不気味な魚は死んだようだ。コミカルなカジキの先端、角のような突起が触れた途端に、爆発が引き起こされたらしい。

 

 この”バショウ”こそは猪俣のだ。彼らは心海に適応した者だけが扱える特殊な力を持った存在であり、1人につき1体が顕現する。バディという名の通りまさに一心同体。ダイバーたちの頼れる相棒であり、過酷な心海において生存するための必須条件だ。彼らが居なければ心海から脱出することすらできないのだから。

 

 優音は構えていた銃を下ろし、腰を抜かして半ば放心状態になっている被害者の元へ走った。猪俣は走ってきた疲れのせいか、それともバディ能力を使いすぎたせいなのか、酷く息が上がっており、その場で膝に手を置いている。バディの能力を引き出すには心息しんそくと呼ばれる精神エネルギーのようなものを消費するのだが、彼の能力はひどく燃費が悪いらしい。すぐに全力を出すというのはいかがなものだろうか、優音は訝しくも思った。


「っし!やったなバショウ!」


 だがそんな思いはつゆ知らず、彼は達成感のためか歯を見せて笑いながら、優音に向けて親指を立てる。そして、彼の元へ帰ってきたバショウの頭を撫でていた。


「もう……猪俣くんは本当に後先を考えないんだから!」膝が震えて立てなくなっていた女性を抱えて、優音も合流する。ともあれミッションは達成した。後は帰還するだけだ。


「んだよ。助けられたんだから良いだろ?」


 少しむすっとしながら猪俣は答えた。バショウも心なしか機嫌が悪そうに見える。


「まあ……そうですけど、もうちょっと余力を残せる戦い方をした方がいいですよ!連戦や予期せぬ事態まで見据えておくのがベストですっ!」


 それは心海での戦闘における基本中の基本だった。違法な潜行者など、敵は心海魚だけではない。いくら2人で行動しているとはいえ、簡単に全力を出してしまうのは愚策だった。

 

「はいはい、わかってますよ!次期エースさん!」


 猪俣は、C-SOTシーソットの次期エースと見込まれる優音に対してひどくライバル心を燃やしていた。ちゃんと話を聞いていない可能性は高い。

 

「ちゃんと帰還ジャンプするための心息は残してますよね?」


 優音は頬を膨らませてじっと猪俣の目を見る。そして、意識があやふやな女性をその場に寝かせた。

 

「それは……優音がやってくれよ!何もしてないだろ……?今回……さ」


 猪俣は少し気まずそうで、声が尻すぼみに小さくなった。どうやら心息はあまり残っていないらしい。

 

「わかりました……私もバディを出します」


 彼女がそうため息交じりに告げたときだった。突如として不気味な甲高い笑い声が響く。それは、気が抜けかけていた2人に一気に緊張を走らせた。


「てめぇら、これからいいところだったってのに、邪魔しやがったなぁ?」


 声の主は先ほど助けた女性が居たあたりから姿を見せた。だが、その口調とは裏腹にその声は楽し気で、ひどく不気味だ。どこかの通路にでも隠れていたのだろうか。ド派手な柄が入った赤地のパーカーを着ている。「誰ですかっ?」優音は無駄のない動作で銃口をそちらに向けた。


「……違法潜行者!?……我々はC-SOT心海特殊作戦部隊よ!両手を上げ、その場に止まりなさい!」


 彼女は黙ったまま近づいてくるその男に照準を合わせる。

  

潜む者ルーカー……かよ?」


 少し遅れて猪俣も目を見開き銃を構えた。優音も猪俣も心海で被害者以外の人間と出会うのは初めてだった。


「俺様の邪魔ァする奴は、死ぬって決まりなんだわ」


 その男はフードをかぶっており、顔の判別は難しい。言葉尻からしてもやはり、彼は迷い込んだ一般人ではない。その手にはナイフが握られており、明らかに殺意と異常性を兼ね備えた危険人物であることは明確だった。

 

「動かないで!」


 優音は声を張り上げるが、男は揺れるように歩き、段々と近づいてくる。歩く度にジャラジャラと首にかけたチェーンが鳴った。


「それ以上近づけば発砲します!」


 男はそれも無視して足を速めた。かろうじて見える口元を不敵に歪ませながら。


 その直後、3発の銃声が響いた。容赦なく放たれたその弾丸は男に向けてまっすぐに飛んで行く。猪俣は撃てていない。撃ったのは優音だった。訓練された確かな射撃技術エイムで、相手の動きを封じるべく足を狙っている。しかし、弾丸が男に当たる直前、男は突如としてその姿を消した。


「消えた……!?」バディ能力だろうか?彼女は弾丸の軌道を目で追う。被弾した形跡はない。銃弾はただ奥へと飲まれていくだけだ。カメレオンか何かのように姿を消したわけではないらしい。

 

「いいねぇ……お前、人の命なんて何とも思ってねぇだろ?」


 それは彼女の耳元で囁くように聞こえた。優音は咄嗟に横を向くが誰も居ない。


「ほぉら!こっちだぁ!」


 2人の真後ろからしゃがれた声が張り上げられ、彼らは一斉に振り向いた。だが時はすでに遅く、男の手に握られたナイフは猪俣の喉元へとものすごい速さで切りつけられている。それはどう見ても躱すことは不可能だった。どうしてここにいる?それが奴の能力か?

 

 そんな一瞬の戸惑いはあったものの、こんな場面でも優音の頭は冷静に状況を判断していた。刹那的に思考が巡る。すぐに地上へ帰還し、この事態を報告すべきだ。それが緊急時の取り決めだから。


 いくら瞬間移動のような能力の持ち主でも、私だけなら地上に戻ることは可能なはず。もう猪俣は助からない。ならば、私まで勝てるかわからない交戦をするよりは情報を持ち帰る。倒れている女性と一緒に、即座に地上へと帰還するのだ。


 彼女は冷酷とも言える決断を下した。そこに一切の迷いはない。だが、状況は彼女の想定通りにはいかなかった。いや、正確に未来を予測することなんて誰にもできはしないのだろう。事態はいつも思わぬ方向へと動くものだ。

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