第一章 櫟原優音

Depth1 C-SOT

 水のない場所で見つかった溺死体、何かに喰い殺されたような変死体……都内で見つかった不審な死体は今月でもう3人目だ。都内だけでも最近は異常な数の変死体が発見されている。もはや隠し通すことは難しいのかもしれない。


 彼女――櫟原優音ひらはらゆうねは捜査資料を隅々まで眺めている。茶髪のショートヘアに女性用の背広をきちっと着こなしている彼女は、警察の特殊部隊に身を置いていた。日本ではこの組織だけが唯一、心海へと合法的に潜ることを許可されている。その東京支部へと配属した彼女は、心海へと迷い込んだ人々を救うために日夜その職務を全うしていた。


 だが、そんな彼女の心と行動はいつもちぐはぐだった。表面上は正義を語りながら、そしてそう行動しながらも、そこに情熱はない。彼女の頭にあるのはただ合理的な思考ばかり。現状の把握とどう行動すべきか。失敗したなら次にどうしたら防げるのか。


 そして、本当のところは、自分の心を探したかった。それがまだ誰にも明かしていない、優音が心海に潜る動機だった。


 昔から自覚はあった。自分が他の人とは違うのだと。泣くべき時には、涙を流した。泣きたいから泣いたことはない。それが正しいのだと信じていた。だけどきっと人はみな、笑いたくて笑い、泣きたい時に泣いている。彼女はその感覚を知りたかった。


 陽の差し込む明るい部屋には、静かにただキーボードを打つ音だけが響いている。こんな事件が頻発すれば嫌でも空気は重くなる。最近は明らかに心海関連の事件が増えていた。みな、その疲労も抱えているのだろう。その適正者の少なさから、わずか5名で成り立つこの部隊は、日に日に休みが減っていた。


「おっはよぉ~!」


 だが、そんな空気を打ち壊す甘ったるい声とともに、扉が開いた。デスクが並んだ広いとは言えない部屋に入ってきたのはスーツ姿の1人の女性だ。身長が高く、髪はふわふわと緩いパーマのロングヘアーで、糸目が特徴的である。にこやかな笑顔を浮かべており、その髪の揺らぎとともに花を思い起こさせる香水の香りが部屋に広がった。

 

 資料から顔を上げた優音は先ほどまでの神妙な顔を消し、笑顔で挨拶をした。彼女の頭には多くのルールがある。それに従うことで、心がない彼女でも、社会生活をつつがなく暮らすことができた。

 

小日向こひなたさん!おはようございますっ!」

 

うららさん、おざまっす!今日もお美しい!」


 歯切れのよい優音に続いて元気よく挨拶をしたのは、彼女の同期で最も若手である猪俣剛いのまたつよしだ。好意を隠そうともしない彼はいっそ清々しい。ところがそんな熱のこもった視線と声を聴いても、糸目の小日向は表情を一切変えなかった。笑顔で華麗にスルーし、優音のもとに歩み寄る。


「おっはよ~!優音ちゃん。昨日は大変だったね」 

 

「私は……助けられませんでした。きっと、救う方法だってあったはずなのにっ……」


 優音は眉を落とし表情を暗くする。涙を滲ませ声が詰まった。それは反省と後悔を示すものだと知っていたから。

 

「あれは優音ちゃんのせいじゃないよぉ!すぐに駆け付けたんでしょ?で、その時にはもう……そんなの、私にだって助けられないもん」


 事前に詳しく話を聞いていたらしい小日向は、悲しみと悔しさの中間のような表情を見せて立ち止まる。


 昨日の事件……夜中に緊急の出動命令を受け、優音は心海へと赴いていた。それは彼女が初めて単独で行った任務だった。半年の訓練期間を終えた初の任務。だがその結果は残酷だった。彼女が駆けつけた時には、女性の絶叫と惨たらしい咀嚼音そしゃくおんだけがその場に響いていた。肉塊を喰らう異形の魚”心海魚”は討伐したものの、それには何の意味もないことは分かっていた。失われた命は……心は二度と戻ってこないのだから。

 

小日向こひなたさん……お気遣いありがとうございます。でも、これは私の未熟さが招いたことです。次は絶対に死なせません!必ず助けてみせますっ!」


 彼女は潤んだ瞳を向けて、小日向を上目遣いで見やる。そこには決意のようなものが現れているように見えた。その目を見て感動した小日向は、さらに歩み寄った。そして、優音の目の前に来ると、腕を腰に当て、先ほどまでと少し異なった真剣な雰囲気で告げる。

 

「これは先輩からの余計なお節介かもしれないけど……この世界、そんなに毎回心を痛めてたら優音ちゃんの方こそ心海に飲まれちゃうよ。冷たいようだけど、最善を尽くして無理だったならそれは仕方がないって思わないと。でも……」


「そんな優音ちゃんの優しいところが、私は大好き~!」


 そう言って小日向は腰掛ける優音の背中に回り込んでハグをした。そこから一瞬遅れて優音も照れたような苦笑いを浮かべる。彼女は「えっへへ……ありがとうございます」と小さい声で呟いた。


「ほんっと優音ちゃんみたいな男の人がいれば結婚したいのに……」


 小日向は肩に寄りかかる姿勢で周りを見渡す。細いその視線は、先ほどまでとは打って変わって、諦観を含んで乾いていた。視線の先にいるのは、気怠そうにあくびをしながらボサボサの髪を掻く無精ひげを伸ばした中年の男と、奥でパソコン作業をする30代くらいのクールな雰囲気の男だ。


 「うおおおおお!」視線すら向けられない最後の1人はと言えば、心の中で雄たけびをあげていた。大きな胸が後頭部に当たっている優音を見て、嫉妬で身を焼き尽くさんばかりの猪俣である。横はさっぱりと刈り上げてソフトモヒカンが似合う彼は、決して顔が悪いわけではない。優音と同時期に入った新人ではあるもののやる気は一人前で、物怖じしないのは彼の強みだろう。無鉄砲とも言えるが。


「麗さん!優しい男なら僕がいますって!どうっすか?今度こそお茶にでも……!」

 

 彼は反応する気配のない小日向の手を強引にも取って立ち上がらせようとした。しかし、その腕は不動の石像のごとく頑強で、全く微動だにしない。小日向の力強さに少しビビりつつも爽やかな笑顔を崩さないのは立派と言える。


「うーん、ちょっと猪俣君はおバカというか~……えへへ、ごめんね」


 堪りかねて小日向は正直な感想を口にする。猪俣の方はショックで手を離し、「そんな!?」と言ってガクリとうなだれた。「それで言ったら……」彼はなんとか立ち直って大きな声で反論する。


「優音の方が天然じゃないっすか!確かに学歴はないっすけど、僕だって昨日の奴くらいなら1人で……」


「でも昨日のは猪俣くんにはまだ……」


 そんな平和で騒がしいやり取りを遮るように、部屋に緊急出動の警告が鳴り響く。全員の顔つきが瞬時に変わり、電流のように緊張感が走った。

 

 人は大きな負の感情を契機に心海へと迷い込んでしまうと言われている。それ故に、その存在を一般に周知はできていない。恐怖が伝染すれば多くの被害者が出る恐れがあるからだ。そして、救助された人間も大部分は夢として忘れてしまう場所。そんな現実との狭間にある世界を信じる人はまだ少ない。


「隊長!ここは新人2人に行ってもらうのはどうでしょうか!」


 小日向はその糸目で、優音に軽くウィンクをした。昨日のリベンジの機会を与えてくれるらしい。小日向はそのまま奥に腰かける中年の男へと視線を送る。

 

「そうだね……じゃあここは若手コンビにお願いしちゃおっかな?」

 

 隊長と呼ばれた無精ひげの男はそう言いながらタバコを手に取った。だが火を点けようとライターをかざしたところで、優音がじろりとにらみを利かせて声を上げる。


「ここは禁煙ですよ!タバコは喫煙所で吸って下さい!」


「……おっとっと、そうだったね。本当に厳しい世の中になってきたなぁ」


 彼は小さくため息を漏らした後、やれやれと首を振ってタバコを箱に戻した。「気を取り直して……」そう前置きを加えた後に優音と猪俣の目をしっかりと見ながら少し真剣な顔つきになる。

 

「気を付けてね、2人とも」


「はい、任せてくださいっ!今度こそ、救ってみせます!」


「もちろんっす!よっしゃいくぞ優音!」


 優音はなぜ心海へと潜るのか。もちろん正義のためだ。人の命は尊く、重たい。それを守ることが使命であり、人として正しいことなのだろう。だが本当は、心の海で自分の心を探したい。そんな、個人的な理由だった。全てが残酷にも抉り出されるような深い海でなら、それが見つかると信じて。


 2人は呼吸マスクのような機械を着用し、座標をセットした。呼吸を制御して脳波を心海に合わせるこのマスクは、心海での生存確率を大きく高める最新の装備であり、他の迷い込んだ人々と区別するために警報が鳴らない仕組みになっている。


 新人2人は立ち上がり、オフィス内の少し開けたスペースへと歩いた。そして、そのまま目を閉じて意識を集中させる……。2人は意識と無意識が交わるような感覚と共に叫んだ。


「「潜行しますダイブ!」」


 彼らはC-SOTシーソット。心海の法秩序を守る特殊部隊である。数秒ののち、2人の身体は地面に溶けるように沈んでいく。まるでゆっくりと、深い眠りの中へ沈みこむように――。

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