Diver ー心海特殊作戦部隊ー
八夢詩斗
プロローグ
Depth0 心の海
「ここは……どこ?」
少女は1人佇んでいた。年頃は5歳か6歳くらいだろうか。地毛らしい茶髪のショートヘアが良く似合う、女の子らしい真っ白なワンピースを着た少女だ。彼女の居る場所を照らすぼんやりとした明かり。それはくすんで変色した薄黄色の壁や床を静かに映している。彼女の前後には狭い廊下がまっすぐに続いていた。ここはお昼寝中の夢なのかもしれない。でも、ついむせ返るような臭気と、肌をじっとりと覆う湿気は妙にリアルだった。
「お父さーん!お母さーん!」
女の子は大きな声を出す。だが、そんな彼女の声は反響もせず、辺りはしんと静まり返ったままだ。でも、不思議なことに彼女に恐怖はなかった。
いや、本当のところ、彼女には心と呼べるものがない。およそ理性のようなものが芽生えてから、その胸にあるのは空虚だけだった。両親を呼んだのは、彼らが彼女1人で出歩くことを良しとしなかったからにすぎない。
少女は歩いた。小さな歩幅で、止まることなく。だけど、少しずつ呼吸が苦しくなった。彼女にも防衛本能はある。身体の限界値を示すシグナルはきちんと機能していた。そうして立ち止まった時、前の方から小さいノイズのような音が聞こえた。それは段々と彼女に近づいてくる。
(なんだろう?)
目を凝らすと、薄明りに照らされる何かが眼に入った。
「おさかな、さん?」
それは、この狭い廊下にはあまりにも不釣り合いな巨大な魚だった。それは、少女の背丈の3倍以上はあるだろうか。魚と言っても現実離れした異様な姿をしていた。口は上下だけでなく左右含めた四方向に広がり、全身を覆う鱗は、目のように瞬きを繰り返している。空中を泳ぎ、床や壁に触れる度、ザザザ……と耳障りなノイズ音が響く。
「おっきい!」
怪物じみた魚が彼女を視認した途端、猛スピードで迫ってくる。恐怖はないはずなのに、心臓が勝手に跳ね、身体は強張っていた。
だが、彼女の横には何かもう一体、異形の存在がいつの間にか現れていた。それは骨だけのシャチの様な姿をしている。その骨は真っ黒な液体のようなもので形を保っており、唯一真紅に光るその眼が闇夜の線香花火のごとく煌めいていた。少女はそれを見た時、なぜかは分からないが胸が暖かくなる。
(これが……こころ?)
初めて芽生えたその感覚は強く印象に残った。確信はないが、少なくとも敵ではないと本能的に悟る。迫る巨大な魚を前に、その骨は彼女を守った。流れるような動きで泳いだ骨は、横から相手に噛みつく。真っ赤な鮮血が溢れて辺りに飛び散った。少女はそれをその身に被りながらも全く動じる様子はない。
(お母さんに怒られちゃうな)
浮かぶのはそんな、子供らしいとも言える考えだけだった。巨大な化け物魚は暴れのたうち、シャチの骨は弾き飛ばされ、そのまま相手の牙がその身にめり込んだ。その時、彼女も一気に胸が苦しくなった。「いきが……くるしい」自分は動いていないはずなのに、呼吸がどんどん荒くなり、心臓の音がうるさく鳴り響いた。
(死んじゃうのかな?わたしも、あのお骨も……)
そんな考えと共に、突如としてその骨は形を保てなくなったかのように、姿を消してしまった。
(あのお骨は、だれだったのかな……)
彼女の胸に、ぽつりと残った暖かさだけが、その存在を証明しているかのようだった。だけどまた会えるだろう。彼女の胸にはなぜか根拠のない予感めいたものが刻まれた。
しかし、そんな想いを引き裂くように、傷を負った魚は血をまき散らしながら、今度は少女に迫った。今は少し足が動く。少女は走った。だが、その小さな歩幅では、宙を自在に泳ぐそれから逃げきれるはずもない。
「もう大丈夫!そこで待ってて」
だが、少女の眼前を颯爽と通り過ぎてその魚に向かっていった影があった。イルカの背に乗った大人の女性。空中を跳ねるように泳ぎ、迫る怪物へとまっすぐ立ち向かう。
少女に笑顔を向けたその女性は黒い背広を羽織り、その手には拳銃が握られていた。その人は異形の魚に銃弾を浴びせ注意を引くと、少女を庇うように降り立つ。そして、怒りに任せ向かってくるその魚に、イルカが超音波のようなものを浴びせかけた。
それを受けた異形の魚は、急に身動きが取れなくなったかのようにその場で震えている。女性はその間に何発もの銃弾を放ち、ついには魚を討ち取った。怪物魚は完全に動きを止め、その身が地面に落ちる。
「ケガはない?」
そのスーツ姿の女性は少女に笑いかける。少女はコクリと頷いて、「大丈夫!ありがとうございます!」と丁寧に返した。
「躾がしっかりしてるわね……」ぼそりと呟いたその女性は名前を尋ねる。
「お名前は?」
「ゆうね!ひらはらゆうねです!」
息は苦しいけれど、名前や挨拶はハッキリと伝えなくてはならない。それが両親からの教えだった。
「ゆうねちゃんね!すぐにお家に帰れるから!手を握ってくれる?」
その女性の大きな手を、ゆうねはしっかりと握った。その肩に近い腕には「C-SOT」と書かれていた。それが何かは分からないけれど、彼女はそのことを覚えていた。ちゃんとお礼は言えなかったし、その記憶は曖昧であの女性が誰かはわからない。目が覚めた時には、天井の白い光が眩しく、隣で泣いていた母の手の温もりが全てを現実に引き戻した。
それからゆうねはまた何度もその不思議な場所を訪れることになる。
――彼女が迷い込んだ不思議な場所。それは"心海"と呼ばれる裏側の世界だ。人の無意識が積み重なった異空間。かつてユングが集合的無意識と呼んだ、そんな世界。本当は誰もが足を踏み入れながら自覚のないまま生きていく。だけど本当の意味でそこに潜った時、人の心を蝕む存在たちと対峙しなくてはならない。心を喰らう巨大な魚”心海魚”。力を乱用し犯罪に手を染める人間たち。そして、その深淵に住まう人知を超えた存在に……。
これは心海へと潜り、それらに立ち向かう者たちの物語だ。彼らは『
ゆうねもまた知らなかった。彼女を待ち受けるその運命を。
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