05 交換条件






 ピアノの旋律と合唱の声が、柔らかく耳に届く。

 見たこともないような穏やかな表情で、ピアノを弾く紘斗。

 西向きの窓から差し込む夕光が、紘斗の足元にやわらかい影を落としていた。


 驚きのまま見つめているうちに、曲が終わった。

 ピアノ椅子から立ち上がった紘斗は、休憩に入るのか、楽譜を片付け始めた。


 迷いながらも、日奈は階段を下りていく。

 音楽準備室の前に着いたちょうどその時、音楽室のドアがガラリと開いた。

 出てきたのは、紘斗だった。


「え、佐倉?」

「えっと……こんにちは」

「は? こ、こんちは」


 思わず挨拶をしてしまった日奈。

 不審な目で日奈を見ながら、紘斗は音楽準備室のドアを開ける。

 床に置かれた鞄を拾い上げ、手に持っていた楽譜をしまった。


「ピアノ、弾けるんだね」

「うん」

「伴奏してるの?」

「先生に頼まれて。3年の伴奏者が練習いない時に、代わりに弾いてるだけ」


 たしかに、音楽室ではさっきと同じ曲の練習が再開されていた。

 きっと、3年生の伴奏者と交代したのだろう。


「……体育祭?」

「あ! そ、そう。練習、誘いに来た」


 紘斗は机をガガガ、と寄せると、鞄からテキストやノートを出し始めた。

 「行かないよ」と答える代わりに、椅子にどかっと腰かける。


「あの……女子は、全員揃ったの。男子も、鈴鹿くんが来たら騎馬組めるって……」

「本番は出るから、勘弁してくんないかな。勉強ヤバくて」

「勉……強……ですか」


 亜由里たちには頑張って説得した日奈も、男子相手には強く出られない。

 ちらりと日奈の方を見て、紘斗は呆れたようにため息をついた。


「そんな、踏んづけられた仔犬みたいな顔すんなよ」

「い、いぬ……」

「行った方がいいのはわかってるけど、留年リーチなんだよ。マジでヤバイの、勉強」

「留年って、そんなにヤバイの……?」

「あと1教科、赤点とったらアウト」

「えぇぇぇ!!」

「言ったろ、リーチって」


 いくつ赤点を取ったら留年になるのか知らなかった日奈も、「あと1教科でアウト」という言葉の深刻さはわかった。


「1学期にバイトしすぎて、成績ヤバくて……だからマジでもう赤はとれない」


 そういえば―――

 2学期になって教室で見かける紘斗は、ヘッドホンをかけたままいつもテキストを開いていた。

 クラスメイトの輪にも加わらず、懸命に自主学習を進めていたのだ。


「体育祭だの、AIだの、そんなことやってるヒマは俺にはないんだよ」


 特進科とはいえ、高校入学後に勉強についていけなくなる生徒はいる。

 紘斗も、なんとか特進科への入学は果たしたものの、成績が伸び悩んでいるのだろう。


(いまはきっと、勉強に集中したいんだ……でも、せっかく女子は全員集まったし、クラス合同の競技だけでもみんなで参加したいし……)


 日奈の中で、「越智先生から頼まれたから」ではなく、「みんなで体育祭に参加したいから」に気持ちが変わっていた。

 悩んだ末に、日奈はある提案を持ちかける。


「……鈴鹿くんは、どの教科が苦手?」

「数学全般。プログラミング数学がとくにヤバイ」

「じゃあ、一緒に勉強しよう」

「は?」


 紘斗のいつもの低音ボイスが、ひっくり返った。

 異星人を見るような目で、紘斗は日奈を見つめる。


「A組だし、中学の数学はそこそこ理解できてるとして。高校でつまづくのは、数学をコードとして捉えられてないのかなって」

「あー……それはそうかも」

「結局は解き方のコツが大事っていうか……苦手なとこはテキストに向かうより、わかってる人から教わる方が絶対効率的!」


 日奈の言葉を噛みしめるように、紘斗は押し黙った。

 紘斗にとっては、願ってもない申し出だった。


「……マジで佐倉が教えてくれんの?」

「うん! 少なくとも1年生のうちには鈴鹿くんを留年させない! ……ように、がんばる!」


 たいして接点もないクラスメイトのためにどうして……と、自分に対して不思議に思いながらも、これは日奈の本心からの言葉だった。

 紘斗は勢いよく立ち上がると、広げていたノートやテキストを鞄に詰め込んだ。


「ダッシュで行く! 先グラウンド行ってて!」


 そう言って紘斗は、駆け足で音楽準備室を出て行った。






 日奈がグラウンドに戻るのとほぼ同時に、ジャージに着替えた紘斗がグラウンドに駆け込んできた。

 渡たち男子は仰天しつつも、日奈と紘斗を拍手で出迎えた。


「だんだん安定してきたから、気持ち前傾姿勢でいこう。そのほうがバランスとれると思う!」


 女子の練習も、亜由里のおかげで順調に進んでいた。

 先頭は「長身で足の速い子が良い」らしく、1番目に亜由里、その後ろは身長順で並んだ。

 さらに、体育委員だからという理由で、日奈が重要な声出し役として最後尾につくことになった。


「いまのマジよかった! みんなマジで成長早いよ、息合いすぎててヤバイ!」


 亜由里にはもともと、リーダーシップの才能があるのだろう。

 瀬名のように運動が苦手な生徒に配慮しながら、息を揃えるための工夫をわかりやすく指導してくれる亜由里。

 そんな亜由里の言葉を真剣に聞き、少しでも速く安定して走れるようみんな懸命に取り組んでいた。







 練習を終えると、亜由里たち女子は教室で課題に取り掛かった。

 日奈はというと、紘斗に促されるまま、また音楽準備室に戻ってきた。


「とりあえず中間試験終わるまでは、サシでご指導お願いします!」

「うまく教えられるかわかんないけど、よろしくお願いします」


 紘斗は正式な合唱部員ではなく、合唱部の伴奏を手伝う代わりに、音楽準備室を自由に使わせてもらっているらしい。

 合唱部が音楽準備室を出入りすることはほとんどないので、実質、紘斗専用の自習室となっているようだ。


「これはなんで(float)がつくの?」

「これとこれが、整数型の変数だから……整数のまま計算しちゃうと、結果が小数点にならずに0か1になっちゃうの」

「あー……1÷2が0になっちゃうってやつ?」

「そうそう」


 1学期に赤点を量産したとは思えないほど、紘斗は真面目に勉強に取り組んだ。

 やはり地頭は良いようで、解き方のコツを教えると、応用問題までするすると解いていった。





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