第3話

 糸を玉留めして切る。

 美月は、緊張を吐き出すように深い息を漏らした。

 先日の銘仙の着物は三日ほどで縫い上げたが、さすがに比翼仕立ての大振袖には五日もかかってしまった。

 集中したせいか頭も身体も疲れ果てていたが、できあがった振袖を衣桁に掛けると、満足感に笑みが浮かぶ。


 青味がかった薄紫と白の地に、肩から裾まで流れるように藤の花房と鳥が描かれた、美しい振袖。

 古典柄を今ふうにアレンジした意匠だ。

 まるで一服の絵のようだと美月は思った。

 要所をいろどる刺繍のおかげで、藤も鳥も立体的で躍動感がある。

(ほんとうに、きれいなお振袖)

 きれいで気品があって、控目な可愛らしさも感じられる。

 まとってみたい衝動に駆られ、美月はハッとして顔を背けた。

(身の程をわきまえなさい)

 自分自身に言い聞かせる。

 人目を避けて暮らす美月は、晴れ着など着たことがない。

 身に付けるのは、木綿や紬の普段着。数枚だけある絹の小紋も姉の美子のお古で、それだって外出もしない美月には袖を通す機会のない贅沢な品だ。


(よけいなことは考えないで。ひと休みしたら、訪問着の仕立てに取り掛かりましょう)

 美月は両腕を伸ばして、息を整えた。

 部屋の外で、カリカリと引き戸をひっかく音がする。

 仕立てのときには部屋から出されている猫のミィが、甘えたがっているのだろう。

 膝をついて引き戸を開け、猫を抱き上げる。

「ごめんなさいね。でも、針は危ないし、大切なお着物に猫毛をつけるわけにはいかないのよ」

 言われた意味などわかってはいない猫が、美月の黒髪にじゃれついた。


 美月が手毬を縁側に転がすと、猫はそれを追って跳び下りる。

 しばらく手毬を追って一人遊びしていた猫が、ふいに顔を上げ、たんっと床を蹴って走り去った。

「……?」

 ややあって、庭の木々の向こうからこちらにくる人影に、美月も気づいた。


 静かで上品な足運び。

 見覚えのある華やかな銘仙に、紫袴。

(お姉さま)

 美子がこの離れに足を向けることは、これまでほとんどなかった。


 美月は縁側に正座し、頭を下げた。

 こちらを見た美子が吐息混じりに言う。

「いちいち畏まらなくていいわよ。どう? お仕立ては進んでいる?」

「まだ、振袖が仕上がったばかりで、訪問着のほうはこれから……」

「いいのよ、急ぐ必要はないわ。訪問着は来月の結納に間に合えば充分だから、丁寧に仕上げてちょうだいね」

(結納……?)

 そんな話は何も聞いていなかった。姉が結婚するのだろうか。

「それは、おめでとうございます」

「わたくしじゃなくて、美月、あなたの結納よ?」

 驚いて目を見張る妹に、姉はにっこり微笑んで告げる。

「お相手は神奈川の士族、久良岐くらき家の若きご当主。内務省直属の港湾特殊部隊横浜支部にお勤めの優秀な方だそうよ」

 美子の説明は、美月の頭の中をただすり抜けていった。

(わたしは、この家から出されるの?)

 いつかはそうなると、覚悟していたつもりだった。

 だが、あまりに突然で――美月は実感することができなかった。

(しかも、結婚……?)

 顔も知らないどころか、家名さえ初めて聞いたというのに。

 途方に暮れながら、ただひとつ理解できたことがある。


(わたしは、お姉さまに捨てられるのだ――)

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